序文)平地の説教として主イエスさまが教えられた言葉は、今朝のところでおわりです。これ迄の学びで分かりますように、神のみ子イエス・キリストご自身のことばとして学んでいますので、学び通すことができました。もし、これらのことばが私たちの言葉として語られたら、私たちは、すぐに批判をしたり非難せずにはおられなかったでしょう。なぜなら、これらのことばはどれ一つを取っても、私たち生まれながらの肉の部分を喜ばせたりしませんし、安穏としていた心をかき乱すようなことばであったからです。
しかし、神のことばは全体から学ばなければなりません。神様の前で、私たちがすべてのことを言い開きすべき日が近づいているのですから、なおのこと、自己吟味をみことばに照らしてよく行う事が必要であります。
Ⅰ 46節
さて、46節ですが、文脈上は45節までで善い心の人は善い事を口にする。内なるものが外に現れるということでした。では、その逆は真でしょうか?そうでもないのです。すなわち善いことを口にするからといって、本当に良い人かどうかは分からないのです。善い心の人は善いことを口に出す事は真理ですが、善い事を口にする人が善い心の人といえるかというと、そうとはいえないのです。
大切な事は、主イエス・キリストに土台を据えて、主イエス・キリストがおっしゃる善いことを口にし、実際に実行する人かどうかにあるのです。「主よ。主よ。」といいながら自己欺瞞に陥る危険性がある。これは他からおしよせる惑わしと違って、自分自身のあり方の中にひそむ危険性です。 これ迄主が次々と語られたみこころを、主よ、主よと言うだけで実際は無視し、また、こんな事をできるはずがないのにと否定する。そして行わないように歩む。ここに自己欺瞞が入り込むのです。
主が私たちに教えようとしておられることは、「主よ。主よ。」と告白する信仰は大切ですが、その告白はその人の品性と生き方の全体をもって示さなければならない。もし「信じている」と主張したその真理を行わないで、否定した生活を、どこ迄も押し通すなら、その最後は保証されてはいない。マタイの福音書のほうでは、「天国に入れない」と語られています。ヤコブは2:17「それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」と警告しています。
さてそれでは行いがあれば善いのか、と問われるかもしれません。ですが、信仰の行いでも、それが主イエス・キリストのもとに行って、イエス・キリストのことば、命じられるところを行うのでなければ、何にもならないのです。すなわち、単なる自分の熱心や、自分の力でだけ行っても、それは主のあずかりしらないことがらなのです。マタイ7:22「その日には、おおぜいの者が私に言うでしょう。主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。しかし、その時、わたしは彼らにこう宣言します。わたしはあなた方を全然しらない。不法をなす者ども。私から離れて行け。」と語っておられます。
だから、単に、自分の力や精力とかによってわざを行ったからといって、主イエス・キリストと、何の関わりもなしに行ったものは、主からあなたを知らないと言われる事になります。以上のことから、私たちが自己欺瞞に陥らず、何が最も重要なことかをはっきりと吟味しなければなりません。
一番重要なことは、自分と主イエス・キリストとの関係が、どのようになっているかに関心を注ぐべきです。私たちは主イエス・キリストを知っているか、主イエス・キリストは私たちのことを知っておられるか?主イエス・キリストに私たちのこころが従っているか、自分の地上生活の支配権をゆだねているか?自分が「主よ。主よ。」といっているこのお方は神のひとり子であり、あなたのために、私のためにこの世に来てくださった。十字架に私の罪の身代わりとして死を遂げてくださり、私たちを義とし、新しいいのちを与え、天国への備えをさせるためによみがえってくださった。本当にそのように信じているならこのお方こそ、私たちの全生涯に対する贖い主として全権利をもっておられるのです。主をお喜ばせするために、主イエス・キリストのおこころを書き記した聖書をよみ 、その示す方法に従って生活を進めるはずでありましょう。
もし「主よ。主よ。」といいながら、実際は不従順に自己主張をつづけ、かたくなになって主イエス・キリストにゆだねる事をしないで、歩むならば、「不法を行う者よ。行ってしまえ」という声を聞かなければならない。
Ⅱ 人生の土台は何か?
主イエス・キリストはご自身に根ざして、ご自身の元に聞き、行う人と、そうでない人を、ここで比べて譬え話をして、気づかせようとしておられるのです。それは「主よ。主よ。」という信仰告白が本物であるか、そうでないか、本当に新しく生まれ変わって、神の子となっている人と、単にそう思い込んでいるだけの人との相違を明らかにしておられるのです。人生という家を建てるたとえです。
二人の人がいてそれぞれ家を建てたいと願った。同じ者をほしがり、おなじことを願い、同じ地域に建てました。家族みなで住める家を建てました。二つの家は後に成って同じテストに合いました。同じ圧力がかかったのです。同じ試練が二人を襲いました。二つの家は土台以外は外面からは同じでした。見分けがつかないほどでした。その表面上の形も同じでした。私たちは日常生活を進めるにあたって、この事に注意しなければなりません。一見して二つの家は相違がないように見えました。主イエス・キリストはこの点を注意するようにと言っておられます。
次に相違点です。二つあります。
二人の人の相違点と二つの家の相違点です一人は賢い人です(マタイ福音書)。彼は地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えました。もう一人の愚かな人は、地面を堀りもしないし、土台を据える労苦を回避しました。
そのように違うか。愚かな人は、深く頑丈に土台を据える必要を認めませんでした。近道を探し急いで結果を得ようとしました。すぐに家がほしいのでした。きちんと土台を据えている時間も惜しいのでした。家を建てるには建築上守らなければならない規則があります。専門家の指導に耳を傾けなければなりません。設計、見積もりがいります。一番大切な土台を据えるのに、多くの労力を裂きます。不慮の出来事・地震・洪水・台風などを想定しなければなりません。日常生活で、また、霊的な事柄に対して、愚かな人は同じような精神の傾向を示します。指導に耳を傾けない。丈夫な土台がいるという事を飛び越えてしまおうとする。人生に起こる不慮の出来事・地震・洪水・台風に類する霊的な出来事を考えてみようとしない。試練にぶつかることがあるので、しっかりと、信仰の土台を主イエス・キリストの上に築くようにとの注意を聞き流すのです。
賢い人は耐久性のある家を建てようと考える。専門家に聞いてみる。この地域の土質はどのような分布になっているかを調べる。季節の影響による変動があるかどうか。どうすれば長持ちする家を建てられるか?自分でできるかぎりあらゆる事をしろうと努め、知恵を求め、真理を問いかけ理解を求める。
二つの家の相違点
建てる段階になると、建て初めが大事でした。土台を堅固に設定しようとしているかどうかを注意しなければなりません。土台は外観からは見えないのです。しかし一番大切で結果によっては死活問題になります。
パウロは第一コリント3:11「だれでも据えられている土台のほかに、他の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」と論じた時に、土台の重要性をはっきりと語っています。
人生という家を建てるにあたり、土台である主イエス・キリストにしっかりと結びつくことです。そのために、地面を深く掘り下げるのです。聖書を理解しようと学び、教えの骨組みを捉えようとする。苦労して努力して聖書の全体、恵みの福音の神髄を知りたいと願う。神のみむねの全体を、それが自分を喜ばせようと、聞きたくない内容であろうと、みむねならば受け入れよう、さらに聞こうとする。深く掘るに自分の好みだとか、自分にピンとくるものだけを求めていてはだめでしょう。
愛は喜ぶが義は嫌いだ。聖なる神様は避けて通る。そういうのであってはならないのです。主イエス・キリストを人生の土台とした者は、キリストに結びついているので、主イエス・キリストの教えに正面から取り組もうとします。神のみことばの全体で、自分を吟味しようとします。お気に入りだけではなく、十分に時を用いて読みます。「すべての訓練が、当座は喜ばしいものと思えず、むしろ悲しいものと思われる。けれども後になれば、それによって鍛えられるものに、義の実を結ばせるようになる。」ことを知っています。
主イエス・キリストの手本に見習いたいと願います。そうして求め、探し。門をたたきます。
人生において神の栄光を現せたらと求めてゆきます。そのために主イエス・キリストの導きを助けを信じて従いつづけます。そのような人は人生の土台を主イエス・キリストにおいているのです。
結び)外面的に表面上は立派な家を建てる事はできます。この世の人は
その人を成功者だといってうらやみます。しかし、神のテストの嵐が吹きすさび洪水がおしよせるとき、その人は自分の頼っていたもののすべてがおしながされて一瞬の内に無に帰する事を経験させられます。大きな損失であり被害は甚大なのです。
主イエス・キリストを土台として、その上に人生を築くならば、みことばに聞きみことばに従い、行う者となることによって、永遠までも見据えて築く人生となりたとえ地上で無一物をなってもない、主イエス・キリストとともに相続する天の御国があるのです。