2011年8月21日 ルカの福音書 7:24〜35 「 みこころを生かす道」
序文)主イエス様が、人々に語られたことばで「女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりはすぐれています。」これほどおどろくべきことば他にはありません。今朝は、このことばをめぐって、主のみこころを生かす道を学びましょう。
Ⅰ 私たちはヨハネよりすぐれている?!
人類の歴史が始まって以来、地上で女が生んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きな人物はいません。それほどすぐれた存在は他にいない、と主イエスは言われました。本当でしょうか?どのような意味においてでしょうか?
イスラエル民族の歴史において、大指導者モーセは、飛び抜けた存在です。400年間の奴隷生活を送っていたイスラエル民族を、神への信仰によってエジプトの地より解放した指導者です。最後はヨシュアが受け継ぎましたが、民族を約束の地に導きました。又、何よりもモーセの律法を抜きにして民族を語ることはできません。モーセ五書を世に残した業績は、それが世界中に及ぼした影響を思うと、特筆大書されるべき偉業です。
ダビデがいます。イスラエル統一王国を建設し、数々の名詩篇を私たちにもたらしてくれました。エリヤの大奇蹟、イザヤのメシア大預言、どれ一つをとっても当時のイスラエルにとって忘れてはならない偉人であり大恩人でもあります。
一体これらの偉人たちに比べてバプテスマのヨハネは、何をしたのでしょうか?奇蹟を行ったわけでもなく、一篇の詩を書いたわけでもありません。彼がした事は、悔い改めの説教と水のバプテスマを授けたことだけでした。彼のどこが、それほど偉大なのでしょうか?その品性の立派さでしょうか?荒野で野蜜といなごを食料として預言者の生活を全うした高潔な生涯でしょうか?旧約聖書にヨハネに並ぶ、いやそれ以上の預言者はたくさんいます。「女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。」はイエス様の失言ではないでしょうか?ところでもっと不可解なのは、つづく次のことばです。「しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりはすぐれています。」
神の国で一番小さい者とは誰のことでしょうか?これはクリスチャンの中で一番小さい者を指しているのです。とりもなおさず、これはみなさまのことであり、わたしたちの契約の子どもたちの事であります。いわば、私たち一人一人は、彼よりもすぐれているといわれているのです。モーセ、ダビデ、エリヤよりもすぐれていると!
冗談じゃない。いくら私たちが頼りないからといって、からかわないでください、と言いたいでしょう。重々、私たちは自分が小さくて弱くて取るに足りない者であると理解していますから。イエス様も人が悪いなあ!
でも、皆さんよくよく考えてみましょう。これはからかいやら、悪い冗談でしょうか?わざわざ、主イエス様が「あなた方に言います。」(28節)と断っておられるのですから、本気です。真剣です。ひやかしではありません。
なぜ、ヨハネがモーセやダビデやエリヤよりもすぐれているのでしょうか?それと同じ意味で、私たちはヨハネよりもすぐれているのです。主イエス様の視点はどこにあるのでしょうか?
その意味を正しく知るには、26〜27節を見る事です。ここにはバプテスマのヨハネの職務の重大さが書かれています。イエス様と彼の関係における重大さです。その事実は、何よりもヨハネは27節のように、彼自身について旧約の預言者たちにより、預言されていた存在であるのです。預言者たちがメシア到来の預言をしていました。その前触れをする人物の到来を預言していました。「メシアの前に」遣わされた人物である。「あなたこそキリスト、神の子羊」と直接イエスを指差した。旧約聖書最後のメシア預言者であった。彼以外のすべての預言者たちは、ずっと後にメシアは来るとしか言えなかった。ヨハネは、メシアを指差して、この方だという職務が与えられていた。ヨハネのすぐれている点は、旧約聖書の預言と約束の時代を終わらせ、メシアの来臨による預言の成就と恵みの時代の始まり、救いの時代の始まりを告げ、神の救いの歴史に明白に一本の境界線を引いたことにあるのです。
このように考えますと、私たちがヨハネよりもすぐれている者だと言われている理由が、私たち救われた者に託されている職務に関係しているのだと理解できます。その職務の重大さに関係しているのです。私たちは現実に成就している主イエスによる救いを受けて、神の国の福音を宣べ伝える使命を与えられているのです。「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも無理にでも、これに入ろうとしています」(ルカ16:16)。私たちはキリストの救いは成し遂げられた。神の国は既に来た。と神の御心をはっきりと示す者とされているのです。このことはとても素晴らしい使命なのです。
Ⅱ 主イエス様は、ヨハネの教えを聞いた人々の反応を語られました。
先ず、一般民衆や取税人たちです。彼らは神の正しい事を認め、神のなし遂げておられるみこころを受け入れました。神の国に突入しているのです。
第二は、パリサイ人や律法学者たちです。彼らは神のみこころを無にしたのです。それは丁度、子供達が広場に座って遊びながら言うのに似ています。私たちが結婚式の笛を吹いて、結婚式ごっこをしているのに、あなたがたは踊ってくれなかった。これはバプテスマのヨハネに対するパリサイ人たちの不平なのです。人々が快楽を求めているのに、ヨハネは笛に踊らずに悔い改めを迫った。クリスチャンというのは、「どうも虫が好かん」という声が聞こえるようです。
次に、弔いの歌を歌って、葬式ごっこをしたのに、泣いてくれなかった。これはイエス・キリストに対する不満です。人々がしめやかで荘厳な救いの日を期待していたのに、キリストは罪人と一緒に食べたりのんだりして、メシアらしくない振る舞いをしている。
Ⅲ パリサイ人たち律法学者たち、今の時代の人々が、どのようにして、神のみこころを無にしたかは、この譬え話しではっきりとしています。
1 自分勝手に結婚式ごっこをしよう、葬式ごっこをしようと決め、それにたいしてヨハネやイエス様は調子を合わせてくれないというのです。まるで子どものようで、自己中心なのです。つまり彼らは自分にたいして神のみこころは何か?神のメッセージは何か?神が用意された救いのために計らいは何か?今日、どのようなおことばと導きをくださるのか?ではなくて!自己を中心とする主観主義によって、主イエス様を通して、ヨハネを通して来る、神のみこころを無にしたのです。
この姿は今日でも、イエス様が、私を救ってくださる方ならば、私の考えている風にしてほしい。聖書を解き明かすときは神の恵みと愛だけにしてほしい。罪とか裁きとか永遠の死とか、訓練であるとか、痛みも伴うとかは避けてほしい。私が救いを確信するときは、こう感じたときである。そうでないときは、バプテスマのヨハネにおいて示された神のみこころ、罪の悔い改めを拒否して、あれは悪霊に憑かれているというのです。主イエス様に示された神のみこころを拒否して、食をむさぼる者、大酒をのむ者、取税人、罪人の仲間だというのです。
神様が、その時代、時代に区分して、語り続けてくださって成就したみこころ、そして今、教会を通して成就しつつあるみこころ、さらには主の再臨において成し遂げようとしておられるみこころに、自分を合わせてゆくのです。そうしないで、自分の気に入るとか、いらないとかに基準をおいている。自分に不都合であるとか、イエスの語られている事があまりにもまともすぎるとか言って拒否するなら、みこころを無にするのです。
2 彼らはよく気が変わるのです。結婚式ごっこをしたかと思うと、葬式ごっこをするのです。ああいったかと思っていると、こういうのです。気分で信仰を考えているのです。無節操、無定見なのです。十字架と復活の主に堅く結びついて、神にいのちを買い取られた者、神の子としていただいた者というよりも、ただただ自分の慰めのために信じている。だから自分のそのときに気分に合わないと、相手がヨハネだろうが、イエスだろうが、示される神のみこころを拒否するのです。無にするのです。
3 ようするに、これは子どもの遊びなのです。
体当たりして激しく天国に突入して行くといったのではなくて、自分の夢、幻のように成る事を願うのです。自分の考えどおりに成る事を願うのです。巷で叫び続けるこどものようなのです。
そのような目には、バプテスマのヨハネのすぐれた点とか、主イエスさまがわたしたちの身代わりとなって十字架にかかって、新しい恵みの福音時代を来らせてくださっていることとかは、分からないのです。
神のみこころの全体を記している聖書を全巻にわたり読み、まなび、解き明かしていこうとする教会のあかし、働き、さらに使命を妨げようとする肉の働きに対抗して聖霊の助けをひたすら祈る事の重大性がわからないのです。
教会のかしらであるキリストがそのために立てられた使徒、預言者、教師、伝道者、牧師、長老執事たちが、どれほど重要な職務に召されているかが分からないのです。
今の時代の多くの人々が、このように二通りの反応を十字架の福音とその結果生まれた教会にたいして示すのです。
結び)知恵の正しい事は、そのすべての子どのたちが証明します。神の知恵のただしいことは、最後には、神のみこころを受け止めて、神の子とされて日々に主のおこころを歩もうと進む者たちによりはっきりと証明されるのです。
神の正しさの証拠は、取るに足りないように見えても、心から神を信じ、主イエスを救い主と仰いで従いゆく者によって証明されるのです。
この地上に福音を広め、救われる者の数が満ち、栄光のキリストの花嫁として召しあげられるために、その働きを欠け目の多いしかし真剣な教会の聖徒たちに託して、激しく御国を求める者のその実りを通して、神は、知恵の正しさを証明されます。
神の御心を生かす道は、キリストを救い主として指し示し、あかしし、神の知恵を証明する存在として自分を自覚し、この偉大な務めに地上生活を送らせていただいている光栄を表して行く事です。