序文)いつの時代でも、自分の町や国や世界の名士を招いて知り合いになりたいと思う人は大勢います。当時イスラエルの超有名人は主イエス様でした。パリサイ人は興味津々で名士イエス様を招きました。早々に食事に招いたのでした。その情景は次のようでした。
Ⅰ 登場人物たちの相違
イエス様を食事にまねきました時に、パリサイ人はパレスチナ地方の普通の礼儀をもって家に招き入れるはずです。礼儀では道路がとても埃っぽく、おまけにサンダル風の履物をしているために足がよごれているのです。主人は、お客の足を冷たい水を用意してきれいにぬぐうのです。次に、主人は客の肩に手をおき平安を祈る意味を込めて接吻をします。それは尊敬のしるしでした。さらに客の顔にバラ油を注ぐか、部屋に香料を焚きました。ところが、どういうわけか、彼はとても失礼な迎え方をしました。通常のお客様の迎え方としてするはずの心遣いを一つもしませんでした。
これに対して、町で罪深い女として有名であった、女が、イエス様がパリサイ人の家に来られ食卓についておられると聞いて、招かれていないにもかかわらず、自分の家にじっとしておれなくなってやってきました。彼女は町の誰かれとなく、自分の身を売ることを商売としていたのでした。彼女は、香油のはいった石膏の壷を持ってきて、食卓の席に入りこみ「泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗りました。」(28節)彼女の持ってきた香油は大変高価でしたが、それよりももっと尊い感動と喜びの価値高い涙で、イエス様の汚れた足をあらい、髪の毛で拭いました。その足に接吻をしました。彼女は篤い愛を示しました。
イエス様への心遣いにおいて、なぜこの二人はこれほどのちがいがあるのでしょう。
Ⅱ この問いへの答え 36〜50節
女をこれほどまでの愛と感謝にむせばせた原因は何でしょうか?
さらに女をそうさせているイエスさまとは何者でしょうか?
主イエス様はパリサイ人シモンの心の中の質問「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」(39節)を見抜いておられました。そして逆に彼に問いかけました。「シモン、あなたに言いたいことがあります。」彼は「先生、お話しください。」と応じました。
ここで本筋とちょっと違いますが、文脈を読み違わないために説明します。このイエス様とパリサイ人とのやり取りは、実はイエス様がとても手のこんだ方法を遣われたのです。
この方法は、論じかけてくる相手を逆質問によって、相手に答えさせ、相手が自分の答えによって、自分の仕掛けた論争が破れていることに気づかせると言ったものです。ですからこの50節までを読んだ時に、イエス様のことばを誤解して「神への愛が多くの赦しを勝ち取るのだ」と考えてはいけません。そうではなくて、ここでは一貫して「神の豊かな赦しが、神への愛を一杯与えた」ということがいわれているのです。
それから口語訳聖書の翻訳は、48節のことばは、「あなたの罪は赦された。」ではありません。原文は「あなたの罪は赦されている」(have been forgiven)とあるのです。47節の訳と同じように訳すべき時制(文法上のテンス)なのです。
では本文に戻りましょう。シモンの心の中の疑問に対して、イエス様はそれを見抜いて逆質問を彼にされました。41〜42節「ある金貸しから、二人の者が金を借りていた。一人は500デナリ、他の一人は50デナリ借りていた。彼らは返す事ができなかったので、金貸しは二人を赦してやった。では、二人のうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」1デナリは一日の労働賃金でした。一人は一年分以上の賃金にあたる額を借りましたが返せなかったのです。もう一人は一ヶ月半の賃金相当でした。赦してもらったときどちらがおおく愛したか。シモンはこたえます。「多く赦してもらった方です。」イエス様はあなたの判断は正しいといわれました。
この例話は、「多く赦してもらった者が、多く愛する」ということを教えています。愛は赦しの結果である、ということを教えています。
そこで、イエス様は「44〜48節」と言われました。
この女の大きい愛は、熱烈な愛、主への感謝の、我を忘れて、その喜びを表そうとする真実は、実に神から大きな赦しを与えられ、受け、確信していたから、自ずとあらわされたのです。「この女の人は多く愛したのだから、その多くの罪はゆるされていた。」と。
実際に、この女の人は自分で招かれていなかったにもかかわらず、食卓に入り込んできました。イエス様と町の中で以前に会って、イエス様が彼女を受け入れてくださって、罪の赦しを宣言していただいていた。だからこそ、食卓に入り込んできた。もう罪の女ではなくなった。赦された存在であるとの喜びが、感動が彼女を突き動かしていた。48節イエス様は「あなたの罪はゆるされています。」といわれた。それはその事の確認なのです.
「今、あなたの罪はゆるされました。」ではないのです。「あなたの罪はこれからゆるされます。」でもないのです。
Ⅲ パリサイ人シモンが、すこしもイエスへの愛を示さなかったのは、彼がイエス様を信じる事をしないで、赦されていなかったからでした。彼はこの女の事で、イエス様を軽蔑して、預言者以下だと思っていました。彼は高慢にも自分のよい生活を誇りパリサイという自分の純粋な宗教を誇っていました為に、まことの赦しに触れる事がなかったのでした。
ところでシモンは本当にイエス様の豊かな赦しを必要としない人だったのでしょうか。シモンが自分の過ごしてきた全生涯を振り返って、その心の秘密の歴史をおもいだすと、この罪深い女と自分が言っている女の人と、そうちがいはない。イエスの前にひざまずかなくてはならないでしょうに。神様の前に出て心の中まで見抜かれた時に、多くを赦していただかなければならない、自分と気づいたはずでしょう。
イエス様をわざわざ家の食卓に招いたのですから、最高の赦されるチャンスだった。私は少なくとも自分に関して赦されるべき事は何もないといえない者であります。それどころか、到底払いきれない罪の代価を背負っているものです。神に大借金をしているのです。日々に赦しつづけていただけないと、一日も無事におわることはないのです。さばかれっぱなしとなります。
主イエス様は、ご自分の血の代価をもって罪の支払う報酬である死を支払ってくださいました。そしてイエス様は、彼だけが罪を赦す権威をもっておられるのです。人一倍多くを赦されている。この感謝が、主イエス様への愛の応答として、仕えさせていただいているのです。
神の豊かな赦しを受けて、この務めに召された幸いを感謝を込めて続けて参りたいと祈っています。神様は、私たちにさらに多く愛する事を経験させて下さろうとしておられるのです。
結び)主イエス様は皆様方に、さらに「豊かな赦し」を経験させ、さらに「おおくの愛」を発揮させて下さろうと、愛の感動を、喜びを増し加えてくださろうと願っておられるのです。「あなたの信仰があなたを救ったのです安心してゆきなさい。」