序文) 一人の人がその生涯の使命ともいうべき仕事を、成し遂げるのに,何年ぐらいが必要でしょうか? また、その仕事をはじめる前の準備に何年ぐらいを用いるでしょうか? 個人個人で様々に違うので、このような質問はあまり意味がないと思われましょう。それでは、あなたは、今、しておられる仕事のために、どれくらいの準備期間があったでしょうか?また後何年ぐらいでその働きを完成させるつもりでしょうか?
日本人は最低原則として義務教育の期間は勉強しなければならないとなっています。15歳頃迄ですね。ある者は高校卒業迄、さらに大学卒業まで,それ以上の準備期間を送る人もいます。時々一生涯が準備期間で終わってしまう人もいます。
主イエス様は30年間を「救い主」としての働きのための準備期間をすごされました。ナザレでの外観は貧しいが、厳しく変化にとんだ生活を通して、その心の中に「救い主」として地上に来たことへの、使命が人として自覚、その思いが完成され、整えられ、ご性格も全面にわたって明確となった。そして、目的に向かって前進する態勢がととのえられたのです。この準備完了の時がくるまで、イエスさまはじっとまたれた。20代をすぎてこの世の堕落や、誤謬に憤りを感じ,飛び込んで戦うという欲求に駆られ、人々に早く救い主としての祝福を与えたいと願われたかもしれないのですが、動かされないで、時の満ちるのをじっと待たれた。主にとっての30年間はあまりにも長く感じられたのではないでしょうか?
現代の青年達が、あまりにも早く憤り、あまりにも早く忘れ、あまりにもはやく使命を失うのをみるとき、イエス様の忍耐の30年間は重く、輝いています。
主はその公の生涯の時が来るや否や、3年間でその働きを完成されました。そして天の父のもとに帰られました。わたしたちは、この3年間、何をしてきたでしょうか、と考えるとき、使命のある人の3年間との違いを感じます。主は3年間、世界の人々に不朽の真理を与え、福音の感化と深いいのちを与えられました。今も、キリストを避けて、離れて一人では到底、歩めないような大きい影響を世界大に残されました。このお方の人格の偉大さ、比類のない高さに圧倒されます。
イエス様の30年間が、後の3年間に転じられるとき、最後の準備の仕上げとして、また同時にスタートとして、二つの事柄がおこりました。ひとつはヨハネからバプテスマを受けられたことです。もうひとつは、荒野で悪魔の誘惑に会い打ち勝たれたことです。今朝はバプテスマを巡って学びます。
Ⅰ 公生涯のスタート、バプテスマをうけたこと
ヨハネのバプテスマは古い罪を放棄し、きよめられて、救い主の時代へと入ること意味していました。しかし、イエス様がバプテスマを受けられたことは罪の放棄とかきよめのためではなかった。それはまず、一人のユダヤ人として、神がメシヤの先駆者として定められたバプテスマのヨハネの預言者としての権威に従うためでした。神の子としては、その立場が逆なのです。ヨハネ自身が「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに。」(マタイ3:14)と言っている通りです。しかし、イエス様は人間として、また父なる神のたてられた秩序に従って、ヨハネの権威に身を低くして従われました。さらに大切なことは、ご自身がこれから創造しようとしておられた神の国へと入るのに、このバプテスマという戸を通して入るのだということを示すためでした。世に死に、神に生きるという,人間の取るべき生活態度を、ここでも実践されたのです。
Ⅱ このバプテスマの出来事の中で、重要なのは、聖霊が降られたこと、天の父からの証言があったことです。
1 イエス様がバプテスマを受けて祈っておられたときに、天から聖霊が降られました。ルカはイエス様の「祈っておられる」という姿に、特に注意を払っています。祈りは、神の力とあかしを受ける重大で欠く事のできない恵みの手段です。個人祈祷、公の祈祷を問わず、もっといのりを盛んにしましょう。祈りは礼拝と同等の重さを持っております。祈っておられるイエス様の上に聖霊が降られました。
このことにより、神はイエス様がこれからなさる働きのために力を与えられたのです。特別な賜物が聖霊によって与えられたのです。イエス様はその誕生の時から、たえず聖霊に依存しておられました。そのことは、イエス様の人格と神性の結びつきから、当然と考えられています。しかし、イエス様が神としての働きを十分に発揮するのに人性の力を最高に用いられねばなりません。ですから聖霊の働きが必要不可欠であったのです。聖霊の働きにより、イエス様のことばも、人の心を見抜かれた力も、多くの奇跡も行われたのです。神でありながら、人となられたイエス様の働きを聖霊が助けたのです。
このことは私たちのうちにも起こっているのです。
神の人が立てられる時、按手によって、その人の与えられた賜物が、さらに力づけられるのは、同じ聖霊の働きです。教師や長老たちの按手は,単なる儀式では決してないのです。また、私たちが洗礼式の時の一人一人の受けた按手も同じです。これから、そのような場にのぞむとき、お互いは祈りをもって聖霊の力づけを求めるようにしましょう。
イエス様の場合、聖霊は限りなく与えられましたが、私たちの場合は、それぞれの賜物に応じて与えられるのです。
2 さて次に天からのみ声「あなたはわたしの愛する子、私の心にかなう者である。」を学びましょう。これは天の父が、イエス様の事を、間違いなく「愛するひとり子」であると証言されるとともに、今までの30年間を見ても「心にかなう者である。」これからも然りであるとあかしされたことを表します。もうすこし考えると、「あなたはわたしの愛する子」とは、詩篇2:7のことばでメシア的王を表す言葉として受け入れられています。「わたしのこころにかなう者」とはイザヤ42:1の一部分で,「主のしもべ」を表しました。神様はイエス様が神の油注がれた王・メシアであり、神の遣わされた子であることと、その生涯が苦難と十字架のしもべとしての歩みであることをあかしされたのです。現在行っている洗礼は、主イエス・キリストと一つであることのしるしとして、一人一人が受けます。そのことにより神の子としての生涯が、キリストのみ足の後に従う生涯として、同じあかしを神から受けているのです。
Ⅲ 系図は,イエス様の公生涯への橋渡しとして、この位置におかれています。この文脈が教えている事は、肉によれば人々はヨセフの子と考えていたが、実に天の声を聞けば、神の子であられた野田という事を示しています。マタイ福音書の系図と、ルカ福音書の系図について,聖書学上は論議がありますが、これに関しては、今日の学びに直接影響しませんから、別の機会にゆずります。
1 ルカの福音書の掲げた系図の教えている第一のことは、イエス様とヨセフの間です。イエス様は、人々の考えによればヨセフの子です。ところが、肉によればヨセフの子どころか、ダビデの子であり、アブラハムの子であり、さらにはアダムの子でもあります。イエス様の人性がアダムよりである事がはっきりと記されています。聖霊により、マリヤからイエス様は生まれたのですが、ヨセフの家督後継者として、ヨセフの子と呼ばれていました。この意味では、すべての人間がアダムの子であります。血のつながりをもっているのです。土に属しているのです。
2 霊によれば、神よりの子であります。アダムでとどまらない。神から。天から。天に属している。この点で、「あなたはわたしの愛する子」という声は、神よりの直接のつながりを持つ事の証明でありました。そして、第一のアダム罪と死を持ち込んだアダムのつながりを越えて、キリストが第二のアダムとして、いのちをもたらす存在であることも、考えあわせることができるのです。「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。」(第一コリント15:22、45〜49)。
結び)このキリストの公的な救い主としての働きが、土に属している、わたしたちに信仰による、霊の誕生を与え、まことの神による人間としての自覚を与えなおしてくださったのです。わたしたちの公の仕事が、ことに主からの大命令を実行する働きが、聖霊の力のもとに,より真実に熱心に進められるよう、祈りつづけましょう。そして、神に愛せられる子として、み心にかなう生涯を歩みつづけましょう。