2011年1月30日 ルカの福音書4:14~30「恵みの年を告知する主」
序文)主イエスさまは救い主としての公の生涯を始められるとき、ヨハネからバプテスマを受けられました。天の父の愛する子とのみ声と、聖霊がくだされて満ちました。また、メシヤの働きを無にしようとする、悪魔の数々の誘惑にすぐにあいましたが、勝利されました。そして、ここで福音書の著者ルカとマルコ、マタイが省いているイスラエル南部のユダヤ地区で、およそ8ヶ月近い伝道活動をなさいました。ヨハネ福音書が、その間の出来事を書いています。ニコデモとの会見や、サマリヤの女性の回心などがおこった伝道旅行がはいります。
14節に「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。」とある、ガリラヤはイスラエル北部の町で、イエス様は聖霊に満ちあふれて活動の拠点を移されたのです。
すでに、イエスのユダヤでの説教や働きのうわさは,旅人や巡礼者によって故郷ガリラヤに届いていました。ガリラヤの人々は,戻ってこられたイエス様をある程度は迎える準備ができていたわけです。主イエスが訪ねられた最初の場所は、幼年時代から青年時代をすごされたナザレでした。
ある安息日にいつものように主は会堂に姿を現わされました。そのころ説教者として知られていたので、人々は聖書を読んで会衆に何かを話すことを求めたのでした。今朝は、イエス様の説教と人々の反応をまなびましょう。
Ⅰ イエス様の読まれたみことばはイザヤ書61章の部分でした。
イエスさまははっきりとご自分でこの節を選ばれました。そして朗読された後に、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」といわれました。イザヤ書61章で「バビロンの捕囚後、破壊と死の暗闇から,人々を集め、そして聖霊の力により、かくも多くの不幸と災いにあい,ほとんど圧倒されている教会を再建する神の恵みの証人や告知者が現れる」ということを預言しているのです。そして、「この救いは油注がれたものメシヤ(キリスト)によって宣べ伝えられねばならない。」ことを予言しています。主イエス様は聞いているひとびとに、それら今日始まったと説教されたのです。神のみことばを奇異いているナザレの人々の中に「イエスさまご自身の出現によって」イザヤの預言は実現したといわれたのです。イエス・キリストの存在、そのものが、どのようにこのみことばを成就したのでしょうか?
1 まず,このように言われています。「私の上に主の御霊がおられる。」そして、「わたしに油を注がれた。」イエスはヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたとき、聖霊は天から降られ,天の父ご自身による油注ぎを受けて,公にメシヤとしての職務を受けました。伝道活動が開始されたのでした。ルカは14節に「聖霊の力をおびて」と、この天を受け継いで語りだしているのです。そして、御霊に満たされて,イエスが行われる働きは、霊的に盲目な人々の目を開き、霊的な足の効かない人々を歩かせ、悪魔にとらわれている人々を自由にするといった聖霊のわざです。
2 この主イエスは、貧しい人々に福音を伝えます。何事におい手も悲惨であり、救いのあらゆる希望が無い人々に、挫折し、霊的にも心の貧しさに喘いでいる人々に、イエスの解放者としての福音が伝えられる。満ち足りて高慢心で膨れ上がり、自らの霊が悪魔の捕われの中にあることを認めようとしないで,預言の言葉に耳を傾けず心を閉ざすものにではないのです。
3 「捕われている人々には、赦免を,盲人には目を開かれることを告げる。」そのためにいつも、それらの捕虜になっている人々,有害な習慣から逃れようと、必死にもがいている人々を、主は解放されたのです。嫉妬から生じる苦い心、所有欲の鎖に縛り付けられている者、毒気のある憎しみに捕らえられている人々、たち苦労にもあまりにも無力な人々を,主は解放されました。
盲人には目を開かれることを告げる。自分は正しいことをしていると思い、しかも、正しいことをしているはずなのに結果はいつも悪い方に流れてしまうという人がいれば、霊的に盲目なのです。自分が立っている基盤が見えていないのです。歩いている道が、どこに行き着くか分かっていないのです。真剣だけれども、よろけて、つまずいて問題をいっそう深刻にしてしまうのです。イエス様はそのような人々に心の視力を回復させ光を照らし、みことばの真理を教えられます。イエスは「あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします」といわれた。イエス様は「わたしに従う者は決して闇の中を歩むことはなく、いのちのひかりを持つのです。」といわれた。多くの人々は、イエスを自分にしたがわせようとしている。教えを聞いても自分が従ってゆくのではない。自分の思っているように、自分の考えのように,イエスを従わせようとしている。
その結果闇のなかに立ち尽くし、とどまったままである。そうではなく、イエスさまのみことばに教えられ、自分を動かして従ってゆくのです。そこに主の光は増し加わる。
4 「虐げられている人々を自由にし。」悪魔的要素のこもった圧迫です。イエスは祈りによって、このような圧力を追い払いました。
5 「恵みの年を告げ知らせる。」これはイザヤ書61章2節の半分だけの引用です。あと半分は「われわれの神の復讐の日を告げ」なのです。イエス様は、この部分はまた実現していないので、読まれませんでした。今は、恵みの年なのです。救いの日なのです。
イエスご自身の存在は、このようにして、このお方に聞き,受け入れるものに、福音を与え解放を与え、目を開かせ,悪魔の力から救い出し、恵みに与からせるのです。
精神的ストレスや拘束に苦しむ人々が本来の自分を取り戻し,キリストのいのちによって自由を味わう恵みの日が、今なのです。
Ⅱ 聞いた人々の反応 22-30節
1 さてイエス様の説教を聞いた人々は,どのように反応したのでしょうか。
最初はイエス様の口から出てくる恵みのことばに大変驚いていたのです。明らかに聖霊の力と恵みがあらわされたことばだったのです。
ところが、聞いた人々は、このことばと語っている救い主ご自身を受け入れることを拒否したのです。「この人はヨセフの子ではないか。」と言ったのです。ナザレの人々は、つい最近迄自分たちの間で生活されたイエス様を良く知っていました。彼ら俗世間の目で見るとイエスは大工の子でマリヤの息子でヤコブ、ヨセ、ユ、ダシモンという兄弟がおり、その姉妹たちは、村の誰それの読むになっている。その生活ぶりは貧しく、イエスはラビのように特別の教育を受けていない。彼らは、あまりにも肉の目で外見からみたイエスになれすぎていて、「しもべの姿」をとって世にこられたイエス様の本当の働き、イザヤ書61章のメシヤ預言が、今、成就したという重大な宣言をうけいれられない、見えなくしてしまっていた。イエスご自身の説教内容と、彼らの知っていると思っていたイエスとのイメージのあまりにも違いすぎること、不一致につまずきました。これが、あのエルサレムの神殿にいる学者や博士たちが語っているのなら、多分何の違和感もなくうけいれたでしょう。
人は、この世俗の判断により数多くの恵みを拒否し、神の真理のことばをはかろうとして間違えてしまうのです。霊の心を開いて、このお方が「救い主」だと受け入れることができなかった。彼らの心の思いは「あなたはヨセフの子ではないか。自分のことをメシヤだというなら医者よ自分自身をいやせ」
人を解放する前に、まず自分の経済状態を改善し、自分の人格を磨き、その後で人を救え。
救い主を拒否するこころは,イエス・キリストを肉の心で見ようとする時におこります。そのように見るものはつまずきます。「十字架」のつまずきがあるからです。自分たちと同じ仲間でしかない。自分たちよりも下である。知恵も能力も財力も人格だってとなるのです。同じ目で教会をみます。牧師をみます。兄弟姉妹をみます。そこにつまずきがおこります。自分の家族の中で、友人や、隣人の中で、イエスを信じて証をたてようとするときの困難が、ここにあります。肉によって外からだけしか、お互いをみることがないという罠があるのです。
クリスチャン同士でも良く気をつけていないと、お互い同士に対してナザレの村の人々のような反応をしてしまうのです。お互いによくしっているのです。よくなれているのです。そのために肉において兄弟姉妹、牧師、長老、執事、リーダーたちをしるだけでことたれりとして、まことにお互いが神様からのもの、聖霊を宿している者、新たに生まれ変わったものと見て、まじわり、そんけいし、はげまそうとすることがなくなってしまうのです。つまずきはすぐそばにあります。主イエスにあって,共にいのちのめぐみを受け継ぐ者であることを忘れてはいけません。
2 ナザレの人々がイエスを拒否した第二の理由
彼らは自分自身の必要に気づいていなかったからです。もし、イエス・キリストご自身とその宣言された福音に霊の目が開かれて、自身のたましいの必要に気づいていたら、その人はクリスチャンのうちに働かれる聖霊の力や、いのちを知り希望に気づいて、自分もまた、救い主を信じるにいたることでしょう。
ナザレの人々は自分たちの必要に気づかないで、イエスに向かって医者よ自分自身を癒せといった風情なのです。
人は自分の必要に気づくとき、その前にキリストがたっておられ,約束のいのちのことばが与えられるとき、こころからそれを受け取り救われ解放されます。
しかし、多くの人は「自分は富んでいる,豊になった、乏しいものは何も無いといって、実は、自分がみじめで哀れで貧しくて盲目で裸の者であることを知らない。」(黙示録3:17).そして、ナザレの人々のように他を批評するだけで終わってしまいます。あれはヨセフの子だ、と。
Ⅲ 救い主を拒否するところでは、イエスは力ある働きをなさらない。
不信仰は神の働きを拒否します。そのために、そこに神の救いのわざはおこなわれません。カペナウムで行った力あるわざはナザレではおこなわれません。それはイエスがキリストでないからではなく、ナザレの人々の不信仰であるからです。
預言者エリヤの時代、3年六ヶ月にわたって天が閉じて全国に雨が降りませんでした。大飢饉があったのです。その時イスラエルに多くのやもめがいましたが、その一人も預言者の救いにあずかることがありませんでした。かえって異邦人シドン人のサレプタ野一人のやもめのみ、その恵みを得ました。エリシャのときも異邦人シリヤの将軍ナアマんが、そのライ病からいやされましたが、イスラエルの多くのライ病人はそうではなかったのです。 なぜでしょうか。当時のイスラエルは神をあがめず,尊ばず預言者達を軽んじて不信仰を持って対峙し神のことばと働き人に歯向かったからです。ナザレの村人も、また、ひとり選民といえども、不信仰のために神は働かれませんでした。たとえ異邦人といえども、信仰を持って期待する者には、神は恵みに満ちているかたです。神の救いの恵みは信仰をもって霊によってイエスを迎え入れいる者には溢れ注がれるのです。信じるものが救いに与るという、このイエスの語りかけに、ナザレの人々は、今度は怒りを発しました。
イエスは神のめぐみは不信のナザレからはなれ、他の村々にと運ばれてゆくことを語らえました。ナザレの人々は自分たちの不信を恥じて悔い改めるかと思いきや、良心に痛みを感じることも無く怒り狂気に走り、神の配慮に反抗し、神の僕に対して侮辱的な仕打ちをしました。イエスを町の立っていた崖っぷちに連れてゆき、投げ落とそうとしました。真理を王を殺そうとしたのです。イエスはナザレで福音を説教しました。めぐみのことばをつたえました。しかも彼らをあいし,救おうとされたのです。しかし、彼らはイエスを亡き者にしようとしました。
結び)イエスは彼らの真中を権威を持って通り抜けて言ってしまわれました。ナザレはこの日からもうイエスの家ではなかった。以来ナザレは福音を聞くチャンスをうしなったのです。そこで育たれたイエスは万民の救い主として建てられ、働かれ、語られたのに、ナザレからは去ってしまわれました。不信仰は神の働かれる絶好の機会を失うのです。「信じない者にならないで信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)