2011年11月27日 ルカ 9:18〜27「十字架を負い」
序文)わたしたちはルカの福音書をとおして,イエス様が、どのようなお方であるのかを学んできました。そして今朝の段落は、今までのまとめのようなところです。イエス様が、ご自分の人格について静かな祈りの後に、弟子達に問われました。弟子達が、本当のイエス様を発見したかどうかを尋ねられたのです。
それはご自分の受難という,弟子達があまり喜ばないような主題をはっきりと示す必要を覚えられたからでした。そのために、イエスがメシア、キリストである事を弟子達が正しく理解しなければならないのでした。
その上で、今まで,弟子達がどのようなつもりで従ってきたかは別にして、これから従うための覚悟と,将来の希望を示されたのです。
Ⅰ あなたがたは,私を誰だというのですか。
1 主イエスは,弟子達のご自分の事を問いかけます。そのために、まず問いかけました。「群衆は私のことを誰だといっていますか」(18節)。彼らは答えました。「バブテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は,昔の預言者の一人が生き返ったのだとも言っています」(19節)。
弟子達はイエス様の風評を知っていて、すぐに答えることができました。どの風評も好意的でした。イスラエルの歴史上の偉大な預言者とみていることが分かります。このような考えを人々が持つようになったのは、メシアの来臨に前に一人の預言者が再来すると一般に認められていたからでした。そして、イエスについて、ひとびとはある点で偉大で卓越した存在であると認めていたのです。このような風評は、人々のイエスに対する期待と善意から出ているのです。
特に、当時の指導者、パリサイ人、民衆の上に立つものたちが,イエスの事を、神を汚すもの、悪魔、サマリア人、食いしん坊の大酒飲み、取税人や罪人の仲間としか呼ばなかったのと、比べても、はるかに優れた認識を持っていました。
2 主は,次に弟子達に問われました。「では、あなたがたは、わたしを誰だといいますか」(20節)。明らかに主イエスは人々の好意的な答えで満足されませんでした。それだけでは,メシアの働きを明かすのに不十分な理解だったのです。主イエスの問いかけに、ペテロが代表して答えました。「神のキリストです」。あなたはキリスト(ギリシャ語:油注がれた者)です。メシア(ヘブル語:油注がれた者)です。そしてあなたは神です。神の油注がれた救い主です。預言者と同列ではありません。それ以上の存在、いや、比べるべき者がない神です。
ユダヤ人はメシアは人間と一般的に理解していた。ペテロは「メシアは神」と答えました。マタイの福音書では「あなたは生ける神の子キリストです。」(マタイ16:16)と書かれています。
ペテロの答えは、神は唯一であると信じてきたユダヤ教的背景から言って、重大な真理の告白だったのです。
主イエスはこの告白に満足されました。また、ご自身が、これ迄の弟子教育で失敗していなかった事がわかりました。
では、私たちは、イエス様の問いかけにどのように答えますか。あなたの信仰告白はいかがでしょうか。
3 イエス様はこのことを誰にも話さないように戒めて命じられました。
なぜでしょうか。それはキリストであることの本当に意味を理解させることをしないままに、民衆が誤った期待を抱く事がないためでした。何よりもまず、弟子達自身が「神のキリスト」は、どのような働きをするのかを正しく教えられる必要があったのです。人々がそうあってほしいと考えている救い主、人々の希望に沿う救い主ではないのです。イエスは神のキリストなのです。その意味する事は次の通りです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」(22節)。そのようなメシアなのです。
イエスがメシア=キリストとして中心的な働きは、人々にパンを与えてあきるまで食べさせることではありません。また病気の人々を治して回ることでもありません。さらに、政治的に敵対する者たちの軍備を完全に破壊するわけでもありません。メシアは、受難のしもべとなって人々の贖いを完成し、よみがえること,神の御許に帰ることであります。
あなたが,イエスは神の子キリストですと告白したときに、その中身を問われたら「十字架のキリスト」を指し示すのでなければ、本当に救い主を告白するとは言えないのです。三日目に死人の中からよみがえったキリストを告白しなければならないのです。
Ⅱ このようなイエス様に従ってゆくものに、求められる信仰の姿勢は何か?
主イエスは、「神のキリスト」に従う者は、必然的に十字架を負う歩みになる事をつづけて語られました。キリストに従う者は、12使徒も、他の弟子達も、あらゆる時代の聖徒たちも、このように告げられています。すべてのキリスト者は,主ご自身との交わりにおいて,十字架を負う事が求められているのです。わたしたちのために十字架にかかられた救い主に従う者は、自分でもキリストの十字架を負う事を経験しながら信仰の道を歩みます。それは苦難を意味しています。
例外なしに「誰でも」この信仰に姿勢が求められています。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」主イエスは私たちの牧者です。私たちの必要の一切を思いはかってくださいます。だからと言って、その歩みにおいて肉の必要のみを求め、己を捨て、十字架を負いて従うことをしなければ、まことの救いを完成していただく事は難しいのです。
Ⅲ 主は、この十字架を負い、ついてきなさいと求められるにあたり、理由を付け加えられました。
1 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い。わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。自分のいのちとは、生まれつきの自然の命です。それを喜ばすあらゆる付属物です。「それを」とは、新生した霊的生命です。主は、「わたしたちに,自分の生まれつきのいのちとそれに伴う世的な幸福の追求を,第一に務めとするならば、自分のいのちそのものである,より高い霊的いのちを失います。わたしのために自分の生まれつきの命を喜んで失う者は、真の永遠のいのちを見いだすのです。」と言われた。
わたしたちは、何を犠牲にして従うか。生まれつきのいのちか、永遠のいのちか。動物的祝福か、霊的祝福か。敬虔は、今のいのちと未来のいのちが約束されている。すべてに有益です。魂を生かすいのちと、それにともなう朽ちないものは、この世の楽しみを犠牲にした代償として支払われるのです。
2 その代価はあまりにも大きい。
「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」(25節)。魂のいのちは,個人財産はいうまでもなく、全世界を支払っても足りないほどに高価なものです。魂を犠牲にして世界を得る者は取引の上では大損害です。
3 「もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も,自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びてくるときには、そのような人のことを恥とします」(26節)。主が天から再び来られるとき、この世の生活の歩み方に応じて、一人一人に報われます。十字架を負い生活した者は義の栄冠をおあたえになります。十字架を負い事無く鼻であしらった者は、当然の報いとして永遠の恥をいただきます。
この主イエスが示された、神の国の現実生、永遠のいのちの豊かさを見つめましょう。今は、この地上では、十字架を負って従うようにというのです。今迄、自分については「はい」といい、主イエスさまには「いいえ」と言っていた者が、自分について「いいえ」と言い、主イエス様について「はい」という生き方に逆転するとき、実は、生きた信仰が働いて、神の力が満ちあふれるのです。
結び)主イエスに従う者の結末は、「三日目によみがえる」ということばで示されています。霊のいのちに生かされて、復活のからだをいただき、義の栄冠を受けるのです。そのような将来を,神は、あなたのために準備しておられるのです。