2011年12月25日 クリスマス説教 ヨハネ1:14「人となられた御子
「ことばは人となって,私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた一人子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
序文)クリスマスおめでとうございます。ヨハネはここで1節、2節と結びついて「ことば」を再び登場させています。そして、13節までの「ことば」の到来がどのようであったかを示します。
1 私たちと同じ肉体をまとって、あきらかに世に現れたのです。「人となって」(新改訳)、「人間となった」(共同訳)よりは、「肉体となりて」(原語、文語訳)がよいのです。神の子が、わたしたちのために,その栄光の高みから、どんなにいやしく低劣な状況にまで、下ってこられたかを明示しようとして「人間」という原語をつかわないで「肉」という語を使いました。聖書で,人間の事を軽蔑して言うときは「肉」と呼んでいる。神の子が、私たちの肉の腐臭に満ちた汚辱とのあいだに,大きなへだたりを越えて下られた。見たり、聞いたり、触れたりできる方、人間の人格をもちいて神の子の人格を表された。
聖なる救い主キリストは罪人を救うためにご自身の上に、まさしく「肉」(人性)をおとりになった。私たちの全性質をとられた。肉体と理性的霊魂をとられた。
私たちと同様に女性から生まれた。それで知恵と身の丈の両面において嬰児から少年へ、それから大人へと成長された。空間、時間の制約を受けられた。疲れ、餓え、苦しむ可能性をもって肉体上の不利な条件を受け入れられた。祈る事をされた。聖書を読み、試練に会い、誘惑を受けた。父のみ旨に,人としての意志をもって従われた。
この肉体で、家族のために大工仕事をして稼ぎ、公の生涯に立ってからは、十字架の上で血をながし、肉を裂かれ、実際に死なれた。葬られた。それから三日目によみがえられた。事実、天にお上りになられた。この一切の瞬間において、「ことば」は人であると同時に神であられた。
キリストの内に、神性徒人性の二つの完全な性質が結合して「ことばが肉体となった」のです。
どのように結合したか、その状態については説明不可能であるしかし、この事は事実としておこった。それでウェストミンスター信仰告白は8章第二項目で次のように告白しています。「三位一体の第二人格である神のみ子は、まことの永遠の神でいまし、み父とひとつの本質でまた同等でありながら、時満ちて自ら人間の性質を、それに属するすべての本質的固有性と共通的弱さもろとも取られ、しかも罪はなかった。彼は聖霊の力により、処女マリヤの胎に彼女の本質をとってみごもられた。そこで、十全なそして異なった二つの性質、すなわち神たる性質と人たる性質が、移質、合成
混合なしに、ひとつの人格の中に分離できないように結合されている。この人格はまことの神またまことの人で、しかもなお、一人のキリスト、神と人との間の唯一の中保者である。」
2 「私たちの間に住まわれた。」
「住む」原語では「天幕」を張ること。ことばは私たちのうちに宿営(キャンプ)された。「ことば」の宿りは一時的(33年間)であったが、幻のようなつかみどころがないことではなかった。この動詞は新約聖書では5回だけ使われており、4回は黙示録7:15,12:12,13:6,21:3である。ギリシャ語訳の旧約聖書では「幕屋」には、神の臨在が「宿った」のです。
パウロはこの辺の事情を次のように説明しています。
「キリストは神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなしくしてしもべのかたちをとり、人間の姿になられた。」(ピリピ2:6)さらに、おのれを低くして不名誉な十字架の死にまでつかれた。主はその誕生においては客間にいる余地がないというので馬小屋でお生まれになった。飼葉桶に寝かせられた。ナザレの大工の息子として貧しさのうちに生活を送り、公生涯にたたれてからは、人々を教え、いやしてまわられた。その道中でも「空の鳥には巣があり、狐にはほら穴がある。しかし人の子には枕するところがない。」といわれた。悪霊を追い出してもらったり、病気をなおしてもらった数人の婦人たちは、この貧しきキリストのために、自分たちの持ち物をもって、イエスに奉仕した。また主は宮の納入金を納めるために、ペテロを湖にいかせて魚をとらせ、その口の中から出てきた金貨を用いた。死にのぞんで自分の母親の面倒を見てもらうために、弟子ヨハネに頼み込んだ。十字架の死後は借り物の墓に葬られた。
さらにキリストは、当時、身分の卑しいといわれていた人々と交わられた。「取税人、罪人の仲間」とまで呼ばれた。罪人であった女が香油をぬったのを喜んでお受け下さり、彼女の罪を許された。弟子たちも皆、身分の貧しい人々であったが、主は天国の偉大な奥義を彼等に現わされた。主は仕える者として歩まれ、最後には弟子たちの足まで洗らわれた。
また、主はこの地上で本当のいみで理解してくれる友を持たなかった。その使命の特異さの故とはいえ、孤独という点では、主ほど使命の故に孤独を味わわれたお方は他にいない。十字架上では最愛の父なる神から、見捨てられた。「わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまいし。」と叫ばれた。
なぜこれほどの貧しい状態にて地上生涯を送らなければならなかったのか。
それは主イエスの貧しさによって、わたしたちが富むものとなるためであった。
3 この目的は何だったか?
それは「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた一人子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあるとおり、み子の栄光を啓示することでした。「見た」の原語は「観察した」事を意味する。このことばは「劇場」の語根をふくみます。ただ、漫然と見たのではなく、それ以上の意味を持っています。このことばは、自分尾目にあるものの意義を理解するために、そのものを注意深く調べるという意味を含みます。
「私たち」ヨハネを始め、弟子たちは、そのようにイエス・キリストを見たのです。特に「山の上の変貌」のイエスを見たのです。神の子としての栄光に輝くイエスをみたのです。弟子たち一同がイエスの生涯を見た、結論が「父のみもとからこられたひとり子」である「この方は恵みとまことに満ちておられた。」さらには16節「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。」と結論した。
信仰の対象者の観察と信仰告白との間には、真理を自分のものとするという事実があります。
「恵みとまことに満ちて」恵みの福音に満ちあふれ、真理に満ち、真実で確実な慰めのことばを持ってこられた。それらは儀式律法の難儀な要求ではなくて、型値や象徴や影ではない。ほんものの救い主である。彼が私たちにもたらした富はどれほどであったか!
主は、どのようにしてわたしたちを富むものとしてくださったか。
まず、み子の十字架の贖いをうけたわたしたちは、霊的にはかりしることができない祝福を受け富むものとなった。ひとことでいうとキリストが持っておられた栄光を受け継ぐものとなった。ヨハネ17:22。ペテロはこのことをキリストのご性質にあずかるといっている。義、聖、子としての祝福、それらにともなう高挙、栄光の復活
ローマ8:17キリストと共同の相続人とされた。
エペソ2:7 これからの世において、キリストはさらに、これらの中身、内実を味わわせ、豊かに体験させて、その「恵み」の尽きないさまのなかに一人一人を愛し続けてくださる。
結び)ローマ12:1-2
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