2011年3月13日 ルカ5:17-26
招詞Ⅰヨハネ1:9 「あなたの罪は赦された」 さんび 511 515
序文)私たちがお互いの間でコンプレックスを持っていると、円滑な交際ができません。相手より劣っていると感じている人の方が、そうでない人に対して、つい口ごもってしまうか、逆に相手に負けまいとして普通以上に大きく出ようとして、ますます変な状況を作り出してしまいます。これを聖書の生きておられる真の神様と自分自身との関係に当てはめますと、神様に対して的外れ(罪)な生活をつづけており、ねじれた目(不義)で神様なんかと思っていると、自分の良心の中に呵責が生じて、円滑な交わりが阻害されたままなのです。神様は「ひがんだ者には、ひがんだ者と」なられるのです。神様は本当はひがんだ目であなたを見ているわけではありませんが、あなたが、神様がいるのなら、どうして私がこのような不幸なのか?とひがんでいるので、神様があなたに対してひがんだように見えるのです。さて、その結果、経験する人生の不幸ははなはだしいものです。良心の呵責は、あなたを神様が引き戻そうとして用いられる手段なのです。的外れがなおり、ねじれた目がまっすぐに変えられるためには何が必要でしょうか?それは、自分の良心の呵責がとりのぞかれ、心が清められるために、神様の赦しが必要なのです。赦しはより大きな人格からきます。それによって、赦された者の心に平安が来るのです。
Ⅰ 17-20節 カペナウムにて、イエス様が一軒の家に入って教えられました。そこに多くの人々が集まってきました。病気を治してもらおうと思っていた人々もいたし、見物人もいたし、新しい教えを聞こうとした人々もいました。主イエス様に敵意をあらわにしたパリサイ人も律法学者たちもいました。
そこへ中風をわずらっていた人が友人たちによって床のまま運ばれてきました。彼らは人々がいっぱいのために中に入ることが出来ませんでした。それでなんとしても主イエス様に近よろうとして、屋上に登り、屋根のしっくいの部分をはがして、穴をあけ、床ごと主イエス・キリスト様の前に吊りおろすという方法で、この人を置きました。これほどの熱心、何とかして主イエス・キリストに会わせたい、なおしてもらいたいとの願いを見たことはありません。
主イエス・キリスト様は、彼らの信仰をごらんになって、中風の人に「友よ、あなたの罪は赦されました。」といわれました。
彼らの信仰とは、どのような信仰でしょうか?主イエス・キリスト様の所に行けばいやされるという、主の癒す力を信じたこと、中風の人も見たこともないイエスという方の所に、その噂をきいただけで友人のいうことを信用して、床の上に寝たままで町の中を運んで祈ってもらうことに同意したこと、いわば見ないで、聞いただけで信じたこと、また、なんとしてでも主イエス・キリスト様に近寄ろうと働く所の信仰でありました。
中風で寝たきりの彼は、毎日、いろいろ事を思いめぐらすことが多かったと思います。多くの反省やら、悔いやら、過去への思いにとりまかれて暮らしていたことでしょう。行く先どうなることか、孤独な心、しおれた心となって自分の本当の姿に気がつくことも多かったことでしょう。彼が主イエス・キリスト様の所に連れていってもらうとき、心の重荷、人には言えない罪の赦しを願っていたのではないでしょうか。それは身体の弱さということ以上に、つらい重荷となっていたのではないでしょうか。
主はその彼の心を見抜いて、彼が目の前に天井からおろされてきたとき、あなたの病気は治ったと言わないで、いきなりあなたの罪は赦されたと宣言されたのです。この「罪」は複数形で「もろもろの罪」と翻訳すべきところです。
人間にとって病気がなおるということよりも、更に重大なことがあるのですね。身体の弱さということ以上につらい重荷となっていることがあるのです。もろもろの悩み、罪のとがめからの解放ということ、心の健康回復が第一なのでしょう。
Ⅱ 21-25節 ところが、イエスの敵対者、福音に敵する人々が、神を汚している。まことの意味で罪を赦すことができるのは、神だけなのに、神でもないイエスが、あのような宣言をしている。「神のほか、誰も罪を赦すことが出来ないのに。」という非難は結果として、主イエス・キリストさまが罪を赦す権威のある、神の子であり、救い主メシヤとして、この世にこられた方であることを浮き彫りにしました。
まず、主イエス・キリストは、人間の心を見抜かれる力がありました。彼らの理屈は見抜かれたのです。心の中でこねている理屈です。神の子イエスは人間としての心情を持っておられましたが、その霊は聖であります。その聖なる働きにより心の思いと考えを見抜かれたのです。彼らは主イエス・キリスト様を単なる預言者ぐらいにしか見ていませんでした。今や、自分たちの心の思いが図星されたとき、彼らはそこに旧約聖書に預言されたメシヤの働きを思い出して、このお方こそ、救い主ではないかと考えて見るはずだったのです。しかし彼らの偏見と高慢さがそうさせなかったのです。人は自分の偏見や高慢やちっぽけな経験を振りかざして圧倒的な救い主のみわざを否定し受け入れないのです。
次に、地上で罪を赦す権威をもっているイエス様を見ましょう。中風の者に、主は「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで家に帰りなさい。」と言われました。その結果から、主ご自身に罪を赦す権威があるか無いかを判断せよと迫られました。
ここで注意すべきは、主は彼らに向かって「罪をゆるすことと、一言で病人をいやすこと、どちらがたやすいか?」と尋ねられたのではありません。そうではなく、「あなたの罪は赦された」と口で言うのと、「起きて、あるけ」というのと、どちらがたやすいか、といわれたのです。実は「起きて歩け」というと実際に病人がおきて歩かなければ何にもならないのです。しかし「罪は赦された」というのは、心の中の問題ですから、結果は見えないのです。言った結果が直ぐに見える方が、言うのは難しいのです。
それで主イエス・キリスト様は難しい方をもって、外面的にはっきりわかる証拠を示されたのです。そのことにより、目に見えない罪の赦しの権威を持っていることを証明されたのです。
Ⅲ 主イエス・キリスト様は今でも罪を赦す権威を持っておられます。
世の終わりまで待たなくても、いますぐにもイエス・キリストの福音が、私たちを赦すという喜びの中に入ることが出来ます。
そして、この「赦し」を主ができるのは「罪の赦しを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」といわれたおことばに根拠があります。
主イエス・キリスト様は私たちが罪の責めを負い、罪の力の下に奴隷状態になっているところから贖い出してくださった。贖い出すために必要な代価を、主ご自身が支払ってくださった。私たちを赦し、解放するために支払われた身代金は、キリストご自身の血潮だった。「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与える為である。」マタイ20:28。
このことばは、主イエス・キリスト様がこの地上に来られた目的が、多くの人のために自分のいのちを与えて身代わりの死を遂げるためであると言っています。いのちを与えるとは新約聖書の用法として、血をながすことと同じ事でした。
パウロは、エペソ1:7「私たちは、このみ子のうちにあって、み子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは、神の豊かな恵みによることです。」と語っています。
主イエス・キリスト様は彼を信じる者を赦すために来られたのです。自分の身をさしだして赦すために来られたのです。十字架はその為だったのです。
この根拠によって、主イエス・キリストを呼び求めるものは、赦されるのです。それは解放をともなうもので、罪の力のもとにがんじがらめにされていたものは自由を得るのです。「キリストは自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですからあなたがたはしっかりと立って、またと奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」ガラテヤ5:1。
結び)わたしたちは、群衆のように戸口まで群がって物見高く集まり、キリストの話を聞きますが、ながめて立ち去るだけの者になってはいけません。また律法学者のように、イエスを目前にして、その救い主であることをはっきりと示されているにもかかわらず、腰を挙げようとせず、頭からこの救いを否定して自分たちの思いだけでキリストを葬り去ろうとしてはなりません。
イエスを求めて、あらゆる手を打ってキリストに近寄ろうと働き、ついに地上で罪を赦された喜びに満たされた、この中風だった方のように、主の赦しの宣言を受けて解放される者になりましょう。
更に信仰の仲間のように、何とかして主の元に愛する者を救いのために導く信仰を持つ者となりましょう。