2011年5月1日 ルカの福音書 6:1〜11
「安息日の主」
序文) ある安息日の出来事です。主イエスと弟子たちは麦畑の中を通って
おられました。彼らはおなかが減っていました。歩きながら麦の穂を摘んで
手でもみながら食べていました。申命記23:25に「あなたが隣人の麦畑にはいる時、手でその穂を摘んで食べて良い。しかしあなたの隣人の麦畑に鎌を入れてはならない。」と決められています。弟子たちは毎日忙しく福音の為に働いていました。安息日の食事の用意をし忘れていたのか、食事の費用がなかったのか、空腹を満たすために貧しい食事をやむなく麦畑でしたのでした。
パリサイ人たちは、他の日ならばやってもよいことだったが、その日が安息日だったために、イエスを難詰する絶好のチャンスを握ったのでした。「なぜ、あなた方は安息日にしてはならないことをするのですか?」言いがかりをつけたのでした。
Ⅰ イエス様の答え
イエス様は彼らに答えました。ダビデの先例を引き合いにだしました。第一サムエル21:3〜6「供えのパン」は、神殿内の机に並べてイスラエルの12部族の勤労の実としてささげたものです。これは安息日ごとに新しいパンと取り替えました。お下がりは神殿内で祭司だけが食べることのできた聖なる物でした。
それをひもじかったダビデとその家来たちが食べたのは、神の律法を破ったことになります。彼らは食べ物がなく、飢えていのちの危険にさらされていたのです。ダビデの行為は正当で良いことと勧めでいるわけではないにしても、このような例外をパリサイ人たちも認めていました。ですから、主イエスの弟子たちの行為が厳しくとがめられねばならないとは、どういうことなのか。安息日は人のためにあるのではないか。当時のユダヤ教の学者たちも「安息日はあなたがたに手渡されたものであって、あなたがたが安息日に手渡されたのではない。」と教えていました。
パリサイ人たちが弟子たちのこの行為をとがめたのは、彼らが「イエス」の弟子たちだというので特に問題にしたのでした。イエス様に言いがかりをつけるためだったのです。
主は、そのような彼らに「人の子は安息日の主です。」と断言なさったのです。弟子たちの行為は、安息日の主の前でなされた。しかも、その行為は許されている。
主こそ安息日を人のために定められた方です。コロサイ2:16〜17「だからあなたがたは食物と飲み物とについて、あるいは、祭りや新月や安息日などについて,誰にも批評されてはならない。これらは来るべきものの影であってその本体はキリストにある。」実に、この主イエス・キリストこそ、安息日と律法が長い間指差し続け、待ちわび続けたお方である。安息日の規程を守るか、いなかの問題は、このお方の来臨によって、キリストにあって安息日をどのように歩むかという所に、移された。 今日、私たちは、新約聖書の安息日である主の日を守っています。キリストの復活なさった週の初めの日を礼拝するために用いています。わたしたちは、どのようなこころで、この日を守っているかが、主によって問われているのです。
Ⅱ 安息日(主の日)について
モーセの十戒の第四戒「安息日を覚えてこれを聖とせよ。6日の間働いて、あなたのすべての業をせよ。」この戒めは旧約聖書時代の人々と同じ意味で守ることはなく、新約聖書時代のキリストの心で守るのです。第四戒は当時儀式律法として、ヨベルの年や、過越の祭り、贖罪日などとともに,安息日律法として守られました。しかし、今や、安息日の主イエスが来られてからは、儀式としての安息日からは解放されたのです。しかし主が来られたことは、本来の意味で、第四戒が与えられた目的を問うことになったのです。第四戒が与えられた目的は、カルバンによれば、三つあるのです。第一は、霊的な安息のため。第二は教会の規律のため、第三は人に仕えている人々の慰めでした。この中心には、神礼拝をとおして人のいのちを救うことと善を行うことが据えられているのです。
1 神は、イスラエルの民に、第七日の休みというかたちで霊的な安息を象徴しようとさました。霊的な安息とは、わたしたちの内に、神が働かれて、神のもとに憩いを得ることでした。これは,主イエスの福音が信じる者にもたらす福音の奥義でした。信じる者の内に主イエスは住みたまい聖霊が働かれて、神のみわざがその人におこなわれることです。
この救い主キリストによって,私たちのうちに始められた霊的な永遠の安息のために,実にキリスト者は,日ごとに自分に死んでキリストのいのちに満たされることをもって全生涯を歩むのです。一週の一日だけでよいというのとは違うのです。
2 旧約時代、安息日に人々は会堂に集まり、律法の学びや儀式を行うために集まりました。また、神のみわざを瞑想して敬虔へと訓練されるためでした。今日でも、主の日の集まりは、神への敬虔の成長のために聖書を学び、共に祈り、聖礼典にあづかり、神を礼拝することが求められています。「使徒の働き」のクリスチャンたちは、週に一度だけはなく、「日々心をひとつにして,絶えず宮詣をなし、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美し、すべての人に好意をもたれていた。」このように可能ならば、毎日でも集まって敬虔への訓練を受けることができる。でも実際には、今日、神は人の弱さを覚え、週の中に一日を定め、主の日を選んで、すべての信徒を招かれるのです。教会が主の日を重んじて、それぞれを招くのは,実にこの理由なのです。
3 第三に「仕え人の慰め」について安息日はしもべや他の人の支配にある人々に休息を与え、肉体的安息を与えて慰めるためにありました。神はすべての労働者に休息をあたるために雇用主や支配者にこの日を命じました。
Ⅲ 6〜11節 安息日にしなければならないこと
主は弟子達の行為を取り上げて攻撃をしてきたパリサイ人に向かって積極的な反問を行われました。それは「安息日に善を行うのと悪を行うのと、いのちを救うのと殺すのと,どちらが良いのか」というのです。「安息日に人をいやしてよいかどうか」ではなくて、「善をおこなうか、悪をおこなうか」という、より高度な領域での質問です。主の日には「善」と「悪」の中間は無い。いのちを救わねば、殺すことになる、という理解があるのです。
安息日に右手のなえた人をいやさなくても,明日にすれば良いと、パリサイ人はいうけれども、主にとってあすになっても、パリサイ人らはいやしをしないと言うことを見抜いていました。それは,人を救うこと、善を行うことは、その日になすべきであって、安息日の中心的意味にもそれは適っていたのです
教会の中で、主の日におこなわれること、毎日におこなわれることは、その中心を見据えて救いと善のために,神礼拝をしっかりと守りつつ、神からの励ましといのちを受け、力を受けて、すすめてゆかなければなりません。
どれほどの悪意と偏見を持って非難されても、実際に非難する人々は他の日なら神をまごころから礼拝し、人の救いと善のために尽くすかというと、そうではないからです。もし、まことに主についているものとしてウィークデーの日々にまごころから神に礼拝をささげ、力と励ましといのちに溢れて歩んでいるならば、主の日にも、おのずと、なすべき善をおこない,主の御前に仕えてゆくのですから。
パリサイ人たちは、マルコの福音書によると、イエスの反問「どちらが良いか」に対して、「沈黙」を守ったのです。主は、それに対して、怒りを含んで彼らを見回し心のかたくななのを嘆かれました。そして、右手のなえた人に「手をのばしなさい。」と言われた。彼らの偏見と敵意が、彼らに沈黙を守らせたのです。その心はかたくなでした。この病人を治された主を、彼らは憎みました。殺そうと決めのでした。およそ、これほど異常な道が他にあるでしょうか。
ここで、日本長老協会の大会が定めている礼拝指針から「2章主の日の聖別」について奨励されていることを紹介しておきます。
(主の日の準備) 2−1 主の日を覚え、そのために前もって備えることは、すべての信徒に求められている。聖書が要求する安息日の聖別が妨げられないよう、この世のすべての働きを整理する。 (終日の聖別) 2−2 主の日を、終日、主に対して聖く守り、礼拝、安息とあわれみのわざのために用いることが求められている。したがって不必要な労働と、この日の聖さにふさわしくない娯楽はさしひかえる。 (聖別が困難な人への配慮) 2−3 公的礼拝と安息日の聖別が困難な人々を覚えて祈り、励まし、助けるように努める。 (公的礼拝への準備) 2−4 信徒とその家族は、公的礼拝における神との交わりを行うための準備として、自分と他の人のため、特に説教者とその奉仕のために祝福を祈り、聖書を読み、みことばに基づいて瞑想をする。
結び)今日、安息日の主は、教会の主であり、みからだなる教会のかしらとして,私たちが、果たすべき使命を託しておられます。主の日ごとに、そして、可能ならば毎日でも、その使命を担って栄光を神に帰し、主の救いのみわざに一人でも多くあづかり、なすべき善をなしうるように積極的に主に従ってまいりましょう。