2011年6月19日 ルカの福音書 6:37 招 ヨハネ5:24
「さばいてはいけません」
序文)主イエス様の「さばいてはいけません」ということばは、正しくは、何を意味しているのでしょうか?まことのクリスチャンたちは他の人々について、どのようなかたちでもさばいてはいけないのでしょうか。常に寛大で、寛容で、気安く、平和と、平穏のために、どのようなことでも、赦さなければならないのでしょうか。これらのイエス様の言葉は今日でもおおくの誤解を伴って用いられています。
Ⅰ さばいてはいけません。主イエスさまは、このあとの47節で、「まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟のちりがはっきりと見えて、とりのけることができるのです。」といわれています。11章39,40節では、「なるほどあなた方パリサイ人は、杯や大皿の外はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたではありませんか。」と言われました。マタイ福音書では「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げるな。」といわれました。私たちがしての事を犬、豚とさばくのでなければ、どうしてこの勧めを実行できるでしょうか。偽預言者に警戒するようにと戒められていますが、さばくことなしにどうして偽預言者だと判断できるでしょう。
テトス3:10「異端者は1,2度訓戒をした上で退けよ。」と命じられています。ヨハネ7:24では「人をうわべによってさばかないで、正しいさばきをしなさい。」と言われています。主は愛の使徒ヨハネに、反キリストの使い、キリストの教えのうちにとどまっていない者が、来たときには、「家にいれてはいけません。その人に挨拶の言葉をかけてもいけません。そういう人に挨拶すれば、その悪い行いをともにすることになります。」(ヨハネの手紙第二10節)と書かせています。パウロは、復活はすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしていると非難して、ヒメナオとピレトを罪に定めています。第一テモテ1:19[ある人たちは、正しい良心を捨てて信仰の破船に合いました。その中にはヒメナオとアレキサンデルがいます。私は彼らをサタンに引き渡しました。それは神をけがしてはならないことを彼らに学ばせるためです。]
主イエスさまは、マタイ18:15〜18で、教会の戒規について命じられました。これらは教会が行う公式の「さばき」ですし、判定です。
Ⅱ 以上を見ることで、どのような種類のさばきもしてはいけないといっておられるのではないことがわかります。今から100年ほど前にイギリスで牧師として深い霊的洞察力にみちて、敬虔な人であったF.B.マイヤーという方が次のように説明しています。「主が禁じられたさばきは、他の人の近づくのを待ちながら暗がりに潜んでいる、ひどく批判的で不親切な霊のことである。そして相手の行動の背後にある動機や置かれている立場上の困難を理解しようとはせずに、先方のことばや行為をごく表面的に受け止め、愛の無い強い言葉で批評する。生まれつきのままの人は高慢で横柄で、しかも自己を過大に評価する。自分の派やグループに属していない人には、侮りを覚え偏見を抱く。そのため自分に同調しない人には、きわめて批判的になり、相手に欠点がないのに、無理に欠点を探し出し、すこしでも欠点があれば徹底してたたく。
そのような人が早急であるにせよ、何かの判断を固めると、それを自分の頭にしまっておくことで満足できなくなり、ありとあらゆる機会を用いて、ことばと行為で表現する。しかし、相手を自分の陣営に引き入れることに成功するなら、先方の欠点は大目にみるようになる。そうでなければ、隣人や同年輩の人たちの思いに毒を入れることにより、彼の存在と影響を抹殺することをさせ、ためらわなくなる。このような先方をひどく批判的に判断し、さばく罪はきわめて危険なものである。そのようにならないために警戒し祈る必要がある。 非の打ち所がない人が失敗するのを見て密かな喜びを抱かないように注意しよう。十分な証拠が無いのに、無責任な話し、思い込み、暗示、憶測などで人を評価しないように注意しよう。うわさ話しに飛びついて、性急に人の批評を決めいように、このようなうわさ話しには、誘惑がつきものだから。」(「主の山に座れ」218〜219頁)
このようなさばきの精神の中心に,何があるかといえば、それは「自己義認」です。他の人にひどく批判的で不親切な霊、あやまった非難をする心は、自己義認と優越感とによっています。他人や兄弟姉妹や長老や牧師や、教会に対して、あらさがしをし、人を傷つけるような態度をとり、その相手をさげすみ軽蔑の目をもって見る。
これらに対してまことの批判は、すぐれた働きをうみだします。大変に建設的であります。単なる破壊ではありません。批判した事に責任をもって建設しようとします。批判の為の批判、愛のない精神に、いつも欠点や傷をさがして、確実に狙った者を見つけ出して、自己の優越感を持とうとする、ささいなことがらに神経を集中して、それらを実に重大な事柄に仕立て上げてしまう。そういう事を決してしてはならない。
Ⅲ 以下、ロイド・ジョンーンズが語っていることの紹介をします。(山上の説教263〜265頁)
「このようなさばく罪を犯すとき、実際にどのような行動となるか。
1 自分には全然無関係な事柄にあれこれと口出ししやすい。という形で姿を現す。私たちは自分と直接関係を全然もっていない人々について、とやかく意見を発表することに、どれだけ多くの時間を費やしていることであろう。
2 次に、この精神は原則の代わりに偏見によって、ことを見る。原則に基づいて物事をさばくべきである。そうしなければ、教会の戒規を行う事はできない。自分個人の偏見を取り上げて、さも原則のようにいう人がいれば、まさにこのさばきの精神の状態にある。
3 さらに、このさばく精神は、ややもすると原則の代わりに、特定の人物をもちだす。わたしたちの議論は、いかに個人や特定の人物のほうに流れやすいか。すぐに原則から離れてします。聖書の教理に反対する人々のおおくは、この傾向を持っている。彼らは、教理を把握したり、理解したりしていないために、ただ特定の個人の面からしか、語ることができない。それで、聖書の原則や教理に基づいて、誰かが、話し始めると、すぐにそのような人物を難しい人だという。いつもむつかしい話をするんだから、という。神の与えられた聖霊の原則を占めるべきところに個人をわりこませる。そして、少しでもそのような教えの真理を支持する者がいると,今度はそのような人々のことを云々して、なぜ支持するのだろうとその動機を詮索して押し付けようとする。
4 自分が人をさばいているかどうかを知るための、もう一つの方法は事実を全部知らないのに、すぐに自分の意見を言いたがる習慣があるか否かを自問してみることである。私たちは事実を知らないで、事実に精通しようという努力をしないで、さばきを口にする権利はない。全部調べて、その上で判断すべきである。
5 次に事実を理解しようとする労を決して払わず、また容赦しようとする心備えが全然ないことである。赦すとか、あわれみとかいう心が全くない。
以上のようなさばきの結果として、わたしたちは人々に対してお互いに対して、最終判断決定をくだしやすい傾向をあらわす。これはおそるべきことである。なぜなら、その人自身への最終判決は、神ご自身がくだすからです。
結び)神が、わたしたちために、なさったことは「まだ罪人であった時にキリストが私たちのために死んでくださった」ことでした。この福音が他人をさばくことによって、自分を罪に定めてきたわたしたちを赦し解放しキリストの義によってたてるようにしてくださるのです。この心の痛むいましめは、主イエスによって、あわれみをもってカバーされ、一人一人信じるものを「さばきからいのちへ」と移らせてくださったのです。
「まことに、まことに、あなたがたに 告げます。私のことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」ヨハネ5:24