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2011 年6月12日バイリンガル礼拝「キリストの手紙」Ⅱコリント3:1-3

2011 年6月12日バイリンガル礼拝   廣橋嘉信

       「キリストの手紙」    Ⅱコリント3:1-3

序文)初期の教会では、地中海地方を旅行してどこかの教会を訪問する場合、先方の教会に便宜を図ってもらうことを願って、自分が主に忠実で、評判の良いクリスチャンであることを証明する手紙を持ち歩いた。

パウロはローマ16章1節「ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなた方に推薦します。」と推薦状を執事フィベのために書いている。アポロがアカヤに渡るとき、パウロはやはり推薦状を書いている。使徒18:27。

何故その様な推薦状が必要だったのかと言えば、初代教会で特に発足間もない異邦人教会は「偽教師」や「偽預言者」に悩まされた。

教会を訪れる伝道者はいつもチェックされる必要があった、名前の知れたクリスチャンの推薦状でもなければなかなか安心して受け入れられなかった。

 

Ⅰ 自己推薦か?  3:1

コリント教会に入り込んで、パウロの伝えた福音を破壊しようとした者たちは、どこからか推薦状を手に入れて、それを振りかざして威張っていたのかもしれない。

パウロがその様な推薦状を持っていないと言って、彼が使徒であることを否定したのかも知れない。

コリント第一の手紙を読んだ者たちの中で、パウロに「お前は自分のしたことを自慢しすぎていないか」と反論を仕掛けてきた者たちがいたのでないか。

パウロの卓越した働きのために、自分たちがしていることが色あせて見え害を被った連中がいたのかも知れない。

それでパウロは「またもや」自分を推薦しようとしているのでしょうかと、皮肉を込めて書いている。

自己推薦とは、むやみに過度に自慢すること、野心にかられて自画自賛することです。パウロを中傷する者たちの悪意を非難している。

パウロには推薦状は必要でない。コリントの教会とパウロは未知の関係でない。それどころかコリントの教会を生み出したのはパウロ自身であった。

チェックされて危険視されるような関係ではない。使徒18:1-11。

何もないところから開拓したのはパウロである。アクラとプリスキラ夫婦、テモテ、シルワノが手伝った。しかしパウロはコリントの兄弟姉妹たちと主イエスの日に互いに誇り合うことが出来る関係であった。1:14。

 

Ⅱ あなたがたが推薦状 3:2

推薦にあたっての注意を宗教改革者カルヴァンは二つしるしている。

「①   人にへつらってやっとありつく推薦であってはならない。慎重に真実に判断し尽くした後でなされる真の証言でなくてならない。

②推薦が行われるのは、人を引き上げるためではなく、ただキリストのみ国を進めるためでなくてはならない。」

パウロの推薦状は書かれた一片の手紙でなく、生きているコリント人たちである。

「あなた方が名実ともなるクリスチャンになってくれることが、わたしにとって十分な推薦になる。」あなたがたが信仰者として存在しつづけていることだけでパウロが使徒であることの印である。

「それは私たちの心にしるされていて」私たちとはパウロとシルワノをさす。推薦する側として推薦状はひらひらと風に飛ばされるようなものでなく、私たちの良心にしるされている。

心にしるした推薦である。あなたがたのことは、すべての人が知っている。クリスチャンとしてあなた方は読まれている。

Ⅲ キリストの手紙 3:3

コリント人たちの信仰はキリストの御業だからである。パウロの奉仕によって、伝道によって回心したものたちである。

パウロの奉仕という筆で書かれたキリストの手紙である。

しかも墨によってではなく、活ける神の御霊によって書かれた。

それも石の板にでなく、コリント人たちの心の中に書かれた。

それがパウロの働きの推薦状である。告白しているクリスチャンの存在は、人々が知り読むところの聖書といえる。

彼らはパウロにたいし、人々にたいして、キリストの手紙である。

「心の板」はいのちのない石の板でなく、聖霊によって柔らかくされた肉の心に書き込まれている。

自分の全存在、全人格にキリストが書き込まれている。

人々が知り読むので、ときどきクリスチャンのくせにといわれてしまう。

牧師のくせにといわれてしまう。そのときキリストの香りがなく、キリストの手紙として読みとれないと、相手は言っている。

なんと痛いことばでしょうか。聖名を汚してしまっている。

この場合腹たち紛れにクリスチャンといっても人間なんだ、失敗や落ち度や罪を犯すこともあると開き直ってしまうとサタンの罠に落ちってしまう。

そうでなく、主よお許しくださいと見上げて行くときに、新たな恵みに触れていやされる心と潔められる心にかえられて行く。

クリスチャンはキリストの手紙としてすべての人に知られている。

読まれている。だから大切なことは受洗証明書でなく、その人となりが信仰、生活、人柄においてキリストの者であることが分かることである。

御霊によって書かれたので見えない業である。

御霊の実は人格を通して現れる。ガラテヤ5:22-23「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」

 

結び)キリストの手紙にふさわしい生き方が出来るように、聖霊の助けをいただきたい。

信仰による義を大切にしつつ、実際の生活で少しでもキリストをあらわす歩みに励みましょう。

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