2011.10.30 ヨハネの黙示録 1章17後半-18節 聖書ルカ 8章40-56節
「いのちの主」
序)ルカの福音書を学んでいますが、先の章句で私たちは、主イエス・キリスト様が、自然世界に対して権威ある方であり、また霊の世界にも権威ある方であることを学びました。今朝は主が私たちの「いのちの主」であることを知り感謝したいと思います。
Ⅰ 主イエスを求めた二人
1 ユダヤ教の会堂管理者の一人ヤイロ氏には12才になる娘がいました。一人娘でした。神にも人にも愛され、両親の寵愛を一身に受けてだいじに育てられていました。12才はユダヤの社会ではそろそろ一人前というところです。これからが花という年頃でした。この少女が突然病に倒れました。死にかかっているのです。衰弱激しく臨終近くなのです。父親のヤイロ氏は主イエス・キリスト様の働きを伝え聞いていましたから、主イエス・キリスト様の前にやって来て、ひれ伏して懇願しました。「41節。」主イエスはこのような訴えを聞き流すことはせず、すぐに彼の家に向かわれました。
2 もう一人の女
その道すがら群衆の中に12年間も長血を患っていた女がいました。誰にも治してもらえないで、多くの医者からひどい目にあって財産も治療と薬代のために使い果たし、日々に悪くなるという状況でした。おまけにこの病は宗教的に「汚れ」というので、ユダヤ教の会堂からも閉め出されていました。人に言えない病気、ひっそり、こっそりと生きてゆかなければならい社会状況でした。隣近所と距離を置かれていました。彼女が主イエス・キリスト様に密かに治してもらいたいと考えて群衆の中に混じり込んでいました。
12才の娘は何の心配もない人生を歩んできました。12年間長血の女は苦しみと絶望の人生を歩んできました。希望のない人生を呪うような日々でした。 二人とも、死に直面しつつあり、人にはどうしようもない段階にきていました。「いのち」そのものは、わたしたちには何ともしがたいのです。二人共に、「いのちの主」を必要としました。
Ⅱ 主イエス様のお取り計らい
1 群衆の中で、長血の女がひそかに主のみころもにさわりました。堂々と群衆の前にでてイエス様に直してくださいとねがうことははばかられる。できなかった。我が身を恥じていた。群衆に押されて揺れている衣なら、そうっとさわっても分からないだろう。しかし、主から力が出て、直ちに彼女の病が治りました。血の源がかれて、ひどい痛みが直った事をからだに感じたのです。主イエス様はすぐに分かりました。群衆を見回してだれがさわったかを尋ねました。
女は自分の身に起こった回復を感じた途端に、イエス様の声を聞きました。「ひそかに」と願ってしたのに、イエス様は「誰か」と声を出されました。イエス様は群衆の前に明らかにしようとされました。それは彼女が願っていた以上の祝福を与えるためでした。もしひそかにそのまま家に帰ったら、彼女はどのようにして病気が治ったことを公に証明できるでしょうか。主の前ですべてありのままに語ることによって、公的にも社会的にも宗教的にも回復をする事が出来たのです。
主イエス・キリスト様はいつでも私たちに不完全な恵みではなくて完全な救いを与えようとされます。信仰は公に告白することで救いは完全に届けられます。34節、彼女が直ったのはイエス様のころもに力があったのではなくて、主ご自身に救う力があること、そして彼女の信仰がその救いを自分の者として結びつける事で直していただけたことを確認しました。大群衆は誰一人主イエス・キリスト様の救いの力を自分自身と結びつけることはしませんでした。おしあいへしあいしていましたが、だれも信仰によって主イエス・キリスト様を結びつけることをしなかったのです。それぞれに信仰で結びつけない理由があったことでしょう。しかしすべて信仰によらないことは罪なのです。救いの恵みはただ信じる者に与えられるからです。
2 さて ヤイロの娘はどうなったのでしょうか。
死にかけていたのです。すぐに出かけられたのです。それなのに道を急ぐ途中で、父親に取っては思わぬ邪魔が入りました。大切な時間が彼女の出現のために浪費されたと感じる長い長い時間となりました。そこへ家から知らせがとどきました。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、この上先生を煩わすことがありましょう。」恐れていた決定的な絶望的知らせでした。主イエスは、その言葉を聞いて、ヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい。」と彼の信仰を励まされました。この励ましでヤイロは主を家まで案内し、娘の寝室に招き入れました。
イエス・キリストは子供の手を取って「タリタ、クミ」と言われました。「少女よ。あなたにいう。起きなさい。」すると少女はすぐに起きあがって、歩き始めた。人々は非常な驚きに包まれました。「いのちの主」は力を発揮されて、人間にとって決定的な死にさえも支配権を持っていることを示されました。主はご自身が発揮されることが必要と思われた時はいつでも誰にも妨げられることなくいのちの力を発揮されました。
私たち夫婦の息子が生まれたときのことをあかししたいと思います。彼が生まれる三日前ぐらいから家内は妊娠中毒症状が急激にひどくなりました。夕方に入院して、陣痛が起こり、今か今かと生まれる時をまちましたが、夜中にだんだんと陣痛が止まってゆき、ついに代わりに分娩弛緩がおこりました。母親が意識不明になり午前6:30に意識がもどりましたが、医者は言いました。もう赤ん坊は助からない。あきらめてください。ただ母親は何とか助けましょう。麻酔医が遠くに住んでいるが呼ばないといけない。弛緩を起こした人の麻酔は特にむつかしい。看護婦も当直の人たちだけでは手が足りないので呼びだします。手術が始まるまで数時間たったのです。やっと9時過ぎて手術が始まりました。わたしと家内の母上は外で待っていました。ひたすら「恐れないで、ただ信じなさい」というヤイロへの主イエス様の言葉を思いめぐらして祈っていました。教会の兄弟姉妹にも連絡して祈ってもらいました。母親が助かるように。
手術室の扉が開いて看護婦長さんがなにやら白い布にくるんだ物をもって出てきました。こころなしか涙ぐんで私たちの前を黙ってとおりすぎてゆきました。やっぱりだめだったのか。がっかりしました。この上は母親だけでも本当に助けてもらいたいと、廊下に悄然とたたずんでいました。家内の母上がしばらくして思いなおしたように、看護婦長さんが行った先を探しにゆきました。しばらくして、飛ぶように戻ってきました。赤ん坊は元気で男の子だと言うのです。わたしはすぐに飛んでいって別室で産湯に浸かっているのをみました。「こいつめ。心配かけやがって。」と心の中で言っていました。その後だいぶ時間が経過して、母親も手術が終わり、二人とも命を助けていただいたのでした。彼は今44才結婚しており、二人の子供の父親です。前にここで説教しました。
Ⅲ 「いのちの主」の御手の中にいる私たち
私たちを日々に生かしつづけておられる主イエス様の御手の中に地上の生活を送らせていただいています。そして、「死」に直面しても、主のお心、お力、お計らいは「恐れないで、ただ信じなさい。」と迫られます。本人や家族が予想していた以上に、はるかに豊かで力強い死の彼方があり、ヤイロの娘、長血の女に現された、いのちの主のお計らいがあります。死で万事休すと思う信仰は、たしかにいのちの主イエスの目から見ると小さい信仰です。すべてを創造し、すべてを支配し、ご自身十字架に贖いを成し遂げ 三日目に死人のなかからよみがえり、天に帰られ、今も生きておられる主の、お心から見ると、私たちのために、新しい、もっと活気に満ちた生、神の御前での永遠の生があることを、何としてでも知らせたい、獲得してもらいたいと思い導いてくださるのです。
それは肉体を離れて主と共に住むことであり、終わりの日の復活の時にも、葬られたちりに帰った体にたいして、栄光のからだによみがえらせることです。いのちの主は再創造される主権者であることを示しています。
結び)神の御手の中で信じるわたしたちの全日々がある。主はその一生をお用いになるのです。あなたのとって主イエス・キリスト様は、いま、いのちの主ですか。それを密かに信じていますか。公に完全な救いにお入りください。永遠のいのちの主の御手の中で人生を全うさせていただきましょう。