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2011.11.6 ルカ 9章1-10節前半「12弟子でしの派遣はけん」

2011.11.6  聖書ルカ 9章1-10節前半

「12弟子でしの派遣はけん」

序)「あなた方がたを人間にんげんを取とる漁師りょうしにしてあげよう」と言いって、主しゅは弟子でし達たちを召めし集あつめられました。彼かれらはキリストの仲間なかまとなって生活せいかつを共ともにし、神かみの国くにについての教おしえを聞きき、祈いのり方かたや、生いき方かたを学まなび、同時どうじに、イエスがキリストである事ことの証拠しょうこを目撃もくげきして歩あゆみました。主しゅイエスはどこに行いかれても弟子でし達たちはついて行いきました。そしてこの9章しょうのところからは、この12弟子でし達たちが、主しゅイエスの全権ぜんけんを帯おびて、主しゅイエスの代かわりに神かみの国くにを前進ぜんしんさせるために近きん隣りんのまちまち村むら々むらに派遣はけんされることになりました。これは弟子でし達たちにとって初はじめての事ことでした。いわば実地じっち教育きょういくであったのです。キリストは彼かれらに本来ほんらいの使し命めいを果はたさせるために、第一だいいっ歩ぽをいよいよ踏ふみ出だされたのでした。弟子でし達たちの派遣はけんについてその範囲はんい、教おしえ、結果けっか、帰還きかんの順じゅんでまなびましょう。また派遣はけんにあたっての注意ちゅうい点てんは何なにだったかを学まなびましょう。

Ⅰ 派遣はけんの範囲はんい

主しゅイエスさまが弟子でし達たちに第一だいいっ回目かいめの実地じっち教育きょういくをしようとされた時ときに、その目もく的てきはあくまで主しゅの心こころを痛いためていた民衆みんしゅうの霊的れいてき必要ひつように応おうじるためでありました。12弟子でし達たちは、主しゅのお心こころを自分じぶんの心こころとして伝道でんどう者しゃ、使徒しととして,神かみのあわれみを待まち望のぞんでいる人々ひとびとに良よき知しらせを運はこんでゆかねばなりませんでした。

派遣はけんされた範囲はんいは、並行へいこう記事きじであるマタイ10:5,6に「異邦人いほうじんの道みちに行いってはいけません。サマリヤ人じんの町まちに入はいってはいけません。イスラエルの家いえの滅ほろびた羊ひつじのところに行いきなさい。」と命めいじられました。ルカの福音書ふくいんしょから察さっせられることは、弟子でし達たちは自分じぶんたちの生うまれた故郷こきょうであり、今いまイエス様さまと滞在たいざいしている地方ちほうであるガリラヤの小ちいさな村むら々むらに伝道でんどうをしました。

それでガリラヤの国くに主しゅヘロデの注意ちゅういを引ひくこととなりました。彼かれらは異邦人いほうじんの道みち、サマリヤの町まちに入はいる事ことを禁きんじられていました。このことは主しゅが神かみの国くにの基礎きそを据すえるために手始てはじめに選民せんみんたちの間あいだに働はたらきを始はじめ、その後あとに伝道でんどうの広ひろがりの拠点きょてん作づくりをするためであったのです。ですから、最終的さいしゅうてきな派遣はけんが命めいじられたときに「全ぜん世界せかいに出だて行いって」と主しゅは言いわれたのです。ペンテコステの約束やくそくのときは、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全ぜん土ど、及および地ちの果はてにまで」と語かたっておられます。

なぜイエスさまが、はじめから「全ぜん世界せかいへ」と弟子でし達たちにおっしゃらなかったか、という点てんで考かんがえられる理由りゆうのもうひとつは、12弟子でし達たちの信仰しんこうが、異邦人いほうじんやサマリヤ人を受うけ止とめる迄までに成長せいちょうしていなかったからではないでしょうか。今いまは、まだ彼かれらに「全ぜん世界せかいへ」と言いえなかった。彼かれらの心こころは狭せまく、しかも偏見へんけんが強つよかった。後あとになって、実際じっさいサマリヤの村むらで(ルカ9:54)ヤコブとヨハネが「主しゅよ,私わたしたちが天てんから火ひを呼よびくだして、彼かれらを焼やき滅ほろぼしましょうか。」と言いっているほどです。遣つかわされた地ちの人々ひとびとの救すくいや憐あわれみを求もとめるどころではなかった。12弟子でし達たちはキリスト者しゃとしての新あたらしい性せい格かくをもっと受うけ、神かみの豊ゆたかな愛あいとあわ

 

れみの心こころをいただく必要ひつようがあったのです。そうでないと「全ぜん世界せかいへ」ということができませんでした。生うまれながらのユダヤ人じんとしての肉にくの強つよさだけでは,主しゅの世界せかい宣教せんきょうの命めい令れいを果はたす事ことはできませんでした。ペンテコステによる聖霊せいれいの降臨こうりんは、弟子でし達たちを全ぜん世界せかいへと派遣はけんする力ちからといのちを十分じゅうぶんに備そなえさせたのでした。

 

Ⅱ 携たずさえていった教おしえ

弟子でし達たちが派遣はけんされるとき、主しゅイエス様さまは彼かれらに、主しゅが持もっておられる権威けんいと力ちからをお授さずけになりました。すべての悪霊あくりょうを追おい出だし病気びょうきをなおすための力ちからを彼かれらは無む制限せいげんに与あたえられました。しかし、伝つたえるべき教おしえについては「神かみの国くに」をのべつたえるだけでありました。別べつの福音書ふくいんしょでは「行いって天てんのみ国くにが近ちかづいた」と宣のべ伝つたえなさいとあります。12弟子でしが奇跡きせき的てきな働はたらきについては,彼かれらがうぬぼれたり、得意満面とくいまんめんになりさえしなければ、何なにも制限せいげんする必要ひつようはなく、イエスのみ名なによって行おこなわれたので、イエス様さまが行おこなったのと同おなじでした。ですから、ヘロデはこれらの出来事できごとがイエスによって行おこなわれたと正ただしく理解りかいしています。ところで、「教おしえ」にかんしては、「み国くにが近ちかづいた」とだけ伝つたえるようにと制限せいげんされました。その理由りゆうや必然性ひつぜんせいを考かんがえてみなければなりません。第一だいいちこの段階だんかいで、弟子でし達たち自身じしんが知しっていることは、み国くにが近ちかづいたことと、その為ためにどのような人ひとも悔くい改あらためて備そなえる事ことだけであったのです。バプテスマのヨハネから聞きいていたことを、メシアであるキリストの来臨らいりんを見みて、さらに確信かくしんし,神かみの小羊こひつじに従したがって歩あゆんできたのです。まだ彼かれらは十字架じゅうじかの上うえでの、わたしたちのためのイエスの身代みがわりの死しを少すこしも理解りかいしていなかったし、「み国くに」の性せい質しつについても深ふかく分わかっていたわけではなかったのです。ですから、当時とうじのイスラエルの人々ひとびととほとんど大差たいさのない理解りかいしかなかったのです。それは主しゅイエス様さまが教おしえ実じっ行こうしようとしておられることとは一致いっちしなかったのです。主しゅは彼かれらがそれについては、誤解ごかいを人々ひとびとにふりまいたり,政治的せいじてきな王様おうさまに自分じぶんを仕立したて上あげる運動うんどうに走はしったりしないようにするためにも「み国くにが近ちかづいた」とだけ語かたらせた。マタイによると「天てんの」ということばが付つけ加くわえられた。ルカは地上ちじょうの国くにではなく「神かみの国くに」と書かいています。このようにして、弟子でし達たちによる最初さいしょの伝道でんどうは、地上ちじょう的てきなことに望のぞみをおけないような人々ひとびとに、天てんのみ国くにを望のぞむようにと伝つたえることで、この地上ちじょうで重荷おもにを負おい、疲つかれ果はてている人々ひとびとを招まえき安息あんそくを与あたえられた。

12弟子でし達たちが後あとになって主しゅの十字架じゅうじかと復活ふっかつを目撃もくげきし、もっとくわしく神かみの国くにをおしえられ、贖いのめぐみを理解りかいしたとき,初代しょだい教会きょうかいのメッセージは、今いま私わたしたちに届とどけられているのと同おなじ内容ないようとして語かたられた。

 

Ⅲ 派遣はけんの結果けっか

彼かれらの働はたらきの反響はんきょうは大変たいへん大おおきいものでした。その評判ひょうばんは国こく主しゅヘロデの耳みみに届とどきました。また、彼かれらの行いく先々さきざきに、その恵めぐみに浴よくした者ものたちや多おおくの群衆ぐんしゅうがついてきた。「ところが多おおくの群衆ぐんしゅうがこれを知しって、ついてきた。それで、イエ

 

 

スは喜よろこんで彼かれらを迎むかえ、神かみの国くにの事ことを話はなし、また、いやしの必要ひつような人ひとたちをおいやしになった。」(11節)熱烈ねつれつな群衆ぐんしゅうではありました。しかしその成果せいかの質しつという面めんからは、不十分じゅうぶんでヘロデの耳みみに入はいった評価ひょうかでは、「ヨハネが死人しにんの中なかからよみがえった」とか「エリヤが現あらわれた」とか「昔むかしの預言者よげんしゃの一人ひとりがよみがえったのだ」という風ふうでした。18,19節でその答こたえが出でているとおりです。とうてい「神かみのキリスト」と告白こくはくできるような状態じょうたいではなかった。主しゅイエス・キリストによる神かみの国くにの到来とうらいのメッセージはいわば、表面ひょうめん的てきにしか受うけ取とられませんでした。

ヘロデはイエスに会あってみようとしました。このことばは「見みる事ことを求もとめていた。」という意味いみで、悪意あくいか好奇心こうきしんから出だていたにすぎませんでした。イエスが「神かみのキリスト・メシア」であることをガリラヤの民衆みんしゅうは理解りかいしなかった。最初さいしょの伝道でんどう活動かつどうは、多おおくの騒さわぎと興奮こうふんが生しょうじたが、その群衆ぐんしゅうの熱狂ねっきょうは、何なにかわけのわからぬはかないものでした。

しかし遣つかわされた弟子でし達たちは、主しゅによって与あたえられたこの訓練くんれんにより,将来しょうらいの働はたらきのためにはかりしれない深ふかい真理しんりを学まなび身みにつけました。伝道でんどうの働はたらきは、それにたずさわった者ものを最もっともよく励はげまし教おしえ力ちからづけます。

12弟子でし達たちは帰かえって来きた。宣教地せんきょうちでの行おこない、教おしえたことをすべて主しゅに報告ほうこくした。イエスさまがその報告ほうこくを聞きいて、どのように評価ひょうかされたかは、書かかれていない。ただ、イエス様さまは彼かれらを連つれてひそかにベッサイダに退しりぞかれた。これは弟子でし達たちを休養きゅうようさせ,出で会あった出来事できごとを反省はんせいさせ、あるいは慰なぐさめるためであった。同時どうじに間ま違ちがった反応はんのうを示しめそうとしたヘロデから身みを隠かくすためでもあった。若わかい弟子でし達たちの心こころに慢心まんしんや,高慢こうまんが生しょうじないように静しずまる事ことを命めいじられたとも考かんがえられます。

 

Ⅳ 派遣はけんにあたっての注意ちゅうい点てん

主しゅイエスさまが,遣つかわされるものに与あたえた注意ちゅういは、見み習ならい中ちゅうの使徒しととして,何なにをすべきかを示しめしたものです。その中ちゅう心しんは「心配しんぱいしない事こと」と「恐おそれないこと」の二ふたつでした。これは,今いまも受うけ継つがれて居いるすべての宣教せんきょうへの心こころ構かまえなのです。主しゅイエスは最初さいしょに弟子でし達たちを遣つかわすにあたって、あとから来くるあらゆる時じ代だいの教会きょうかいに対たいして、主しゅの祝福しゅくふくをうけるために,どのような心こころ構かまえで宣教せんきょうをし、従事じゅうじするべきか、その業ぎょうを遂すい行こうしていけばよいかを語かたられたのです。

1 生活せいかつの必要ひつようについて 用意周到よういしゅうとうではなく,摂理せつりにゆだねて宣教地せんきょうちに入はいるように。杖つえも袋ふくろもパンも金かねも,下着したぎも二枚にまいはいりません。」イエスさまは,今いまあるままで行いきなさい、食たべる物ものや着きる物もののことで心配しんぱいしてはならない。それらの必要ひつようのために神かみに信頼しんらいしなさい」と言いわれた。このようにおっしゃったのには,神かみのみ国くにのしもべたちは、その働はたらきに精励せいれいして行いくならば,神かみはその兵糧ひょうろうを引ひき受うけられるという確信かくしんがあるからです。

今きょ日うでも多おおくのしもべたちが、この霊的れいてき精神せいしんを守まもって来きたし、文字もじ通どうり守まもった者ものたちもいます。12弟子でしが使徒しととして今いま後あとの働はたらきをすすめるため、この最初さいしょの

 

 

経験けいけんにおいて信仰しんこうによって生いきなければならなかった。いまでも,イエスに従したがってきて、日々ひびに、明日あしたを思おもい煩わずらう事ことなく、生いきてきた。しかし、この実習じっしゅうにあたって、これからはイエスが共ともにおられなくても、そのように歩あゆむようにと求もとめられた。

2 そしてまた、弟子でし達たちが自分じぶんのために備そなえていなかったものを神かみが、その民たみを用もちいて備そなえて下くださる事ことを望のぞむように励はげまされた。「どんな家いえに入はいっても、そこにとどまり、そこから次つぎの旅たびに出でかけなさい。」イエス様さまは、どの所ところにも神かみと真理しんりへの純粋じゅんすいな愛あいにより、み国くにの使し者しゃを家いえに迎むかえ入いれてくれる暖あたたかい心こころの持もち主ぬしが必かならずいることを知しっておられた。それは勝手かってな想像そうぞうでなかった。ソドムのような町まちにも,知しらずに神かみのみ使つかいをもてなしたロトがいた。主しゅはイエスを信しんじるもの立たちに,いつの時じ代だいでも,イエスの使し者しゃが親切しんせつに取とり扱あつかわれるようにと勧すすめておられます。「マタイ10:40〜42」

このような思おもいやりを示しめされる主しゅイエスに仕つかえて、ガリラヤから全ぜん世界せかいに出でて行いく事ことは本当ほんとうに心こころ強つよいことです。

3 その上うえでなお、イエス様さまは現げん実じつの中なかには、万ばん事じ順調じゅんちょうであるとは、限かぎらない事ことを弟子でし達たちに教おしえられました。冷淡れいたんにあしらわれることもある。旅人たびびとをもてなす事ことを拒否きょひする無む愛あい想そうな人々ひとびともいる。メッセージを頭あたまから受うけ付つけない無む関かん心しんの人々ひとびとに出で会あう。その場合ばあい、みことばを聞きこうとしないとしても、弟子でし達たちの責任せきにんではない。足あしの塵ちりを払はらいおとして、次つぎにゆくように。

主しゅイエスが派遣はけんされた者ものの福音ふくいんの言こと葉ばを軽かろんじる罪つみは、主しゅイエスご自身じしんを無む視しする事ことに劣おとららないことを諭さとしておられる。

ルカ10:16[あなた方がたに耳みみを傾かたむける者ものは、わたしに耳みみを傾かたむける者ものであり、あなたがたを拒こばむ者ものは、わたしを拒むこばむ者ものです。わたしを拒こばむものは、私わたしを遣つかわされた方かたを拒こばむ者ものです。]

結び)「何なにも思おもい煩わずらわないで、あらゆるばあいに、感謝かんしゃをもってささげる祈いのりと願ねがいによって、あなた方がたの願ねがい事ことを神かみに知しっていただきなさい。そうすれば,人ひとのすべての考かんがえにまさる、神かみの平安へいあんが、あなた方がたの心こころと思おもいをキリスト.イエスにあって守まもってくれます。」ピリピ 4:6、7。

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