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2011.4.17 マタイ26:35〜46 「ゲッセマネの苦悩」

聖書マタイ 26:35〜46   「ゲッセマネの苦悩 」

序)主イエス・キリスト様が、十字架の死を目前にされたゲッセマネの園の祈りは苦しみもだえて、苦悩に溢れていました。聖書に記されている祈りの中で一番深く、神秘的な部分です。人間の知恵を持って十分に解明しつくしえない祈りです。最も賢い神様の智恵を含んでいるのです。然しそれでもなお、この祈りを学ぶ者にとり、主の祈りの姿勢は最も重大な真理の一端を明らかにしていただけると信じます。私たちのための主イエスの犠牲の十字架を深く受け止めようとすれば、この祈りから、先ず、その苦しみを汲み取らなければなりません。

Ⅰ 祈りの背景

この祈りは十字架の死を目前にした祈りです。苦難に直面するために主が祈りの場を守られたのです。主の霊が異常な悲しみに満ちていた時に祈られたということを知るときに、まして私たちが悲しみにうち倒されたときに祈らざるをえません。苦難に耐えるためにこれ以上の良い処方を他に見つけることは出来ません。自分が直面している事を最初に訴えるのは人間相手ではなくて、神様に向かって祈りにおいてです。

「この杯をわたしからとりのけてください」という祈りは、主に向けられた誘惑との激しい戦いでもありました。十字架を回避させてくださいという祈りです。誘惑との戦いは、ただ祈りに祈ることで勝つのです。

 

Ⅱ 祈りの友

死ぬほどの苦しみと、それから逃れたい誘惑との戦いのために主は祈りの友を要請されました。ペテロ、ヤコブ、ヨハネです。この三人は他の福音書にはっきりと書かれているように「主といっしょに目を覚ましている」ようにと「目を覚まして祈っていなさい」と要請されたのです。弟子たちは、ともに、目をさまして祈っているようにと言われて、祈っていました。自身のためだけでなく、主イエスの祈りの戦いにも召されていたのです。信仰の友、祈りの友を人間は必要としています。ことに苦難に直面し、深く悲しんでいるときはそうです。悲しみ悩んで祈る主と、ともに悲しみ、泣き、祈るものとなるように。

教会の祈祷会や二人以上の者がともに祈る場は、この意味で主イエスのとりなしや、苦しみや、悲しみ、伝道の戦いに、そして、その民の中に働いておられる導きにともにあずかる場なのです。それは自分が祈れなくなっていても、兄弟姉妹が一緒に祈ってくれるそのような場なのです。そこに一緒に座っているだけでも、豊かに神はそれぞれのうえに働いてくださるのです。苦しみに会うとき、信仰から離れたり集いを避けがちですが、それは違うのです。むしろ、そこに集まって、祈ってもらうこと、ともに泣き、ともに嘆き苦しみ、重荷を分けあうことにより、回復が進むのです。立ち上がる近道は、このようにして、誘惑についに打ち勝つことなのです。弟子たちは、ルカ22:45、を見ると、悲しみの果てに、眠りこんでしまっていた。彼らは始めから眠るつもりはなかった。しかし悲しみの果てに緊張した神経から疲労がおそってきて、眠ってしまったのです。主イエス様は、ルカの福音書によれば22:43「そのとき、み使いが天から現れてイエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、ますます切に祈られた。」とあります。

 

Ⅲ.主イエスの祈りの内容

1 39節「、わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしのねがうようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」この時の祈りは、主の受難物語の中で、最も激情の荒れ狂う場として書かれています。それは十字架上での姿よりももっと激しいものです。恐れ、おののき、悩みはじめ、死ぬほどである。地にひれ伏して「汗が血のしずくのように地に落ちた。」(ルカ22:44)主の十字架への苦痛は特別な探さをともなっていた。弟子たちが分かちあえるような生易しいものではなかった。その原因は「この杯をわたしから取りのけてください。」といわれた「この杯」にあった。わたしたちの罪の身代わりのために、主イエスが受けてくださろうとしていた、「杯」とは何か。旧約聖書で「杯」はその人の運命を表し、時に神の怒りと審判を意味して度々用いられています。イザヤ書51:17「憤りの杯」。主イエスは正真正銘の人間でした。死に反発し、死を本能的に嫌悪する人間です。この祈りは、この点で人間性の極致をあらわしているのです。彼は罪を犯したことがなく、生ながら聖霊により罪の汚れから守られていた義人です。罪の罰を受けて死ぬことはありえませんでした。しかし、父から受けた救い主としての職責を果たすために、身代わりの死を遂げなければなりませんでした。すべての罪人に対する神の怒りの杯が一挙にキリストに注がれようとしているのです。イエスがわたしたちのために呪われ、罪を知らなかったかたが罪となられた。彼の聖いご性質が、その上にのせられた罪の重荷を直接感じられた。ここに通常でない、異常なキリストの苦しみがあらわれた。

それは死にたいする恐怖というよりは、それがもたらす神の裁き、地獄の実体を知っているものとしての恐怖、苦しみでありました。イエス・キリストは神のみ子として、罪あるものたちが死んでどうなるかを御存じでした。神の怒りと裁きの実体を知っているがゆえの苦悩でした。わたしたちは、この点鈍感です。それで、永遠よりも目の前の瞬間をみて歩んでしまいます。主は永遠の裁きを知っておられ、それからわたしたちを免れさせる為に、苦しんでくださったのでした。主のこの祈りがイエス様が人間ばなれした存在でなく、地に足のついたもので、わたしたちの弱さ、死への恐怖、おののきを知るかたとして、手の届くところに立っておられることを悟らせます。多くのキリスト者がこの祈りを自分の祈りとして祈るときにどんなに支えられたことでしょうか。愛する夫や、妻や、子供がこの世から取り去られようとするとき、不治の病が自分の体を蝕むとき、その他さまざまな苦杯が信仰厚き者に与えられる時、主イエス様も、このように祈られたことは、わたしたちにどれほどの力と慰めとなることでしょうか。

この祈りの最中に、み使が現われて苦悩し祈るイエスを力づけた。このような出来事は、天の助けなくして負いきれるものではない。天からの助けは、杯を取り去るためにではなく、飲み干すための力を主イエスに与えました。わたしたちが同じいのりを祈るとき、みたまは同じ力を与えて、その苦難に耐えさせ、みこころをなさせたまえと祈る力を与えられるのです

 

2「みこころのとおりにしてください。」

もしも、この杯を取りさらないことが、天の父のみ心であるなら、それに従います。全き従順をこめて従います。自分の思いを神の思いに一致させます。これこそが、まことの祈りなのです。神の意志、神の目的、神の永遠のご計画に自分を従わせます。ここに、主が十字架にかかられるにあたっての自発性がはっきりと示されています。強制的に、いやいや杯を飲ませられたのでなく、ほんとうに心から従順に飲めるようにと戦った祈りでもあったのでした。

神があなたにかかわる永遠のご計画を、この地上の分としてはたそうとされる時、わたしたちは同じ祈りの戦いをして、心から主に従えるようにと自分をととのえねばなりません。「みこころのなるよう」との祈りは完全な信頼を込めてなされるとき、本来の意味のとおりであります。神の愛と、ご計画と、善意と、力とみちびきとを熱望して祈るのです。この受け入れがたいことを自発的に受け入れることが此のいのりの真意なのです。ですから茫然自失して、みこころをなどと祈るのは、希望を放棄することなのです。激しい攻撃に降伏せざるをえない人が、みこころをなさせてくださいと祈るのは、完全な敗北を認めることばとなるのです。荒れた、苛立ちのことばとなるのです。そのような祈りでなく、全幅の信頼をこめて「みこころのとおりしてください。」と祈るなら、神は、まことにみ心を成就してくださるのです。

結び)わたしたちは、この主イエス・キリスト様の御足跡をたどって、祈りに祈って神様に従う人生を進めなければなりません。またこの主イエス・キリスト様こそ死の恐れも苦しみも知り抜かれ、激しい叫びと涙で、裁きの杯を飲まれた方です。人間イエス様はまことと憐れみに豊かであり、同情できる方であり、神様の前に私たちのために執り成しできる永遠の大祭司です。私たちも祈りのいて主イエス・キリスト様と出会いましょう。

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