コメントはまだありません

2011.7.17 マタイの福音書28;16-20「あなたがたは行って」

2011.717 招 第一ペテロ2章9節 聖書 マタイの福音書28;16-20

「あなたがたは行って」

序)バングラデッシュの情報をみました。主イエス・キリスト様が世界と私たちになさっている宣教のすすめと実践を共に理解して、私たちの心を自分中心から、世界大へとますます広げていただきましょう。そして祈りと支援ができるように求めましょう。

 

Ⅰ 主イエス・キリスト様の権威のもとに行く

12弟子たちにより、世界中に福音が伝道され初めて、2000年をへて摂理的に私たちの所まで届いた。そのすばらしい出来事の出発点は主イエス・キリスト様の勝利宣言、全被造物世界に対する勝利と主権の宣言にあります。罪の究極的・総合的な姿の象徴ともいうべき十字架と、死の力が存在物の全てにたいして勝っていたと思われた結果である墓からの復活により、キリストが全被造物にたいして勝利され、罪と死を征服したことの宣言です。

神様が創造された宇宙、自然の世界での雄大さとか威厳を示しておられますが、霊的な世界でも、同じような働きをしておられるのです。その偉大さ尊厳は救いのために十分に発揮されています。神に逆らい、人間を罪におとして権威をふるっていたサタンの力を十字架は滅ぼしました。「神は、私たちを暗闇の圧制から救いだして、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1:13)「神は全てに支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」(コロサイ2:15)罪の責めは消し去られました。子としての身分はすべての信者に及び、そして聖霊は、教会のいのちと聖化のために与えられました。

最後の敵である死も、復活の主によって「死は勝利にのまれてしまった。死よおまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント15:54〜55)です。

神様の救いのみわざは余りにも偉大なので、誰でも無視することはできません。これを受け入れるか、退けてなお罪の圧制の中にとどまり、死の滅びの中にとどまり続けるかなのです。ですから、この主イエス様の宣言は、私たちにチャレンジを与えます。わたしはこの宣言にたいしてどうするのか。さらにこの宣言は確信を与えます。

それは主の天地の上に高く上げられた勝利と主権が裏打ちされているからです。

 

Ⅱ 福音を伝える

主の主権のもとで、「それ故、あなた方は行って」と命じられました。このようなすばらしい権威を獲得された主が、その救いを私たちにくださったばかりでなく、わたしたちのうちに成し遂げてくださった解放と恵みと光を、他の人々にも届けるようにと言われたのです。このすばらしいみわざを、わたしたちが宣べ伝えるために存在している。ここに、すべてのクリスチャン(教会)の存在理由がはっきりとしるされている。教会は教会のために存在し、その自己中心的な利益に仕えるために存在しているとは言っていない。まず、他の人々に仕えるために存在するとも言っていない。教会は神のために存在する。すばらしいみわざを宣べ伝えるために存在する。預言者的な働きが目指されるのです。栄光を神ご自身に帰するために存在する。行って伝える為にです。

わたしたちとの関わりにおける、神の栄光の現れは、福音をもってこの世の暗闇を照らすことです。そのために御子は栄光の御國から地上に降りて来てくださった。神の栄光はどのように認識されるか。それは聖霊によって福音が罪人に適用されるときに生じる。かつては放蕩と欲望と酔酒と馬鹿騒ぎといまわしい偶像崇拝との中に生きていて、さまよい、目的なく、深く傷ついた罪人であった者が、神の聖なる民となり、聖霊の力を受けて、生まれ変わり、それにふさわしい行いに変わったという、その相違が神の栄光である。イエス・キリストの血によって勝ち取られた贖いの福音は、信じる者を霊的、道徳的、感情的破壊から救い、彼らの生活の中に大変革をもたらす。生まれ変わったクリスチャンは聖霊を内にもっており、この世の闇の中で栄光を輝かすことができる。

だからすべての生まれ変わったクリスチャンと教会は、その関心やエネルギーを外側のまだ救われていない人々に向ける。第一義的に伝道のわざに向かう。そのことが栄光を輝かすことになるからである。

主は教会の行動として選択科目を提示されたのではない。伝道の賜物を持つ人にだけ選択的に命じられたのではない。王の王が語られたのだから、仕えるしもべであり、民であるわたしたちは無条件に遅滞なく従うことを期待しておられることは明らかである。

皆様におたずねしたい。あなたの主イエス様は、あなたの生活の真ん中に今も働いておられ、あなたの生活を光と恵みによって絶えず変革しつづけ、お互いに心を開いた交りがあるでしょうか。あなたは悔い改めをしますか。あなたは自分の生活を、キリストの価なしの義認と彼にあって価なしに子とされていることの上に築いていますか。それとも内面の罪意識に変わることなく悩んでいますか。あなたは神の所有とされていますが、いのちがけで救ってくださって今も守り支え恵み続けてくださっている主を愛するという理由のために、最近何か一つでもしましたか。あるいは、イエス様を愛するというので,悪い習慣をやめましたか?

 

Ⅲ 公の告白と従順

主は、今朝の聖書の箇所で他にも大切なことを言われました。以下名注解者ジョン・ライルの説明を紹介します。「ご自分の福音を信じる者らに対してイエスが求められる公の告白である。主は使徒たちに、弟子として受け入れた者たちには「バプテスマを授けよ」と命じておられる。

このことばから明らかに得られる実際的教訓は、人はキリストに対する信仰を公に告白する必要があるということである。隠れ信者でいるだけでは十分でない。自分が何者か、だれに仕えているかを人に知られることを恥じてはならない。キリスト者だと思われたくないかのようにふるまうのではなく、むしろ自分の十字架を負い、世の前で自分の主人を告白しなくてはならない。主のことばは非常に厳粛である。「わたし……を恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます」(マコ8:38)。

さらに、主の弟子と告白するすべての者にイエスが求めておられる従順である。主は、ご自分が命じておいたことをみな守るよう彼らに教えよと、使徒たちに命じておられる。

これは心探られるおことばである。これは名目だけ、形式だけのキリスト教では何の役にも立たないことを示している。真のキリスト者とみなされるのは、主のことばを実生活で守り行なう者、主が命じておかれたことを行なおうとする者であることを示している。バプテスマの水や、主の晩餐のパンと葡萄酒だけでは、だれの魂も救われない。礼拝に出席し、牧師の話を聞き、福音に同意するだけでしかない信仰は、何の役にも立たない。私たちの生活はどのようなものか。自分の家の内外での行動はどのようなものか。山上の説教は私たちの基準、規範となっているだろうか。私たちはキリストの模範にならおうとしているか。主が命じられたことを行なおうとしているか。自分が新しく生まれたこと、神の子どもであることを証明したければ、これらの問いに肯定の答えを出さなくてはならない。従順だけが真実の証拠である。「行ないのない信仰は」、それだけでは「死んでいる」(ヤコ2:17、20、26)。イエスは云われる。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です」(ヨハ15:14)。」

 

結び)主イエス・キリスト様の天地を越えた権威のもとに、私たちにまで福音が届きました。それは行ってという命令にまごころから従った使徒たち初め信仰の勇者たちが数え切れないほどいたことを示します。また福音を信じた者たちが三位一体の神の名の中に洗礼を受けて、日々の信仰生活を通して恵みを味わいと栄光を表し続けて来たからです。

私たちも行って同じようにしましょう。

コメントを投稿

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church