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2012年8月19日

 

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2012年8月19日 説教個所 ルカの福音書 12:1-12

「神を恐れなさい」

序文)主イエス様とパリサイ人、律法学者との対決が11章に描かれていました。彼らの問題点は、内側は強奪と邪悪でいっぱいなのに、外側だけを云々して結局は全生活が暗いといったところにありました。そこに生まれる生活は偽善という

ことでした。彼らが主イエス様をなおも陥れようとして、敵対心をあらわにしてしつこい質問攻めと言いがかりをつけようとしていました。そうこうしているうちに、おびただしい群衆が集まって来て、互いに足を踏みあうまでに混雑しました。主イエス様のメッセージを聞きにきたのでした。

12章は主イエスさまが弟子たち、継いで群衆に語りかけ、さらに弟子たちにと、語る相手を変えながらメッセージを与えられたことが集中的に記されています。

今朝の箇所は弟子たちに向けられたメッセージで警告と慰めがございます。

 

Ⅰ 警告

1 主イエスが弟子たちに語られたことで、先ずいわれたのは「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。」という点でした。「パン種」は粉のかたまり全体を変質させます。物事や存在のあり方を根本的に変えてゆく力をもっています。この場合イエス様は悪い意味で「パン種」をもちいておられます。パリサイ人のパン種、すなわち「偽善」に、弟子たちが染まないようにしなさい。パリサイ人は一見紳士風ですが、内心では「イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと、ひそかに計った。」(11:54)のでした。これはイエスを殺してやろうとたくらんでいたのです。それで風評を流し、弱点を次々とあばき、みことばの説教を間違っていると言います。その存在を目の前から消し去らせようというのです。彼らの根本的問題は、主イエスを救い主メシヤとして受け入れて、内的な大きな変化「キリストにあるならすべてが新しくなりました。」という変化を受けていないことです。新しい誕生の祝福にあずかっていないことなのです。

人はだれでも自分にはどうしても勝つ事のできない弱い部分、罪に汚れている部分、その性質があることを知ります。罪の力が強くて自分はいつも負けるのです。それを解決する道は、キリストによって罪を許していただくしかないのです。この赦しの恵みをいただくしかない。そうして主イエスの罪の赦しのみわざである十字架を、わたしのためと信じ、主イエスをうけいれるとき、実に罪のゆるしだけではなく、「神の子としての新しい誕生」までも、神は与えてくださろうとしていて、その内的大変化を経験するのです。キリストを頼って救われる。そうして始めて日常生活の外側にも、その変化の兆しが現れ、生活やいのちのもちようが改善されてゆくのです。

ところが、人にそのように働きかける神がおられて、みことばを持って語りかけ、聖霊が心の扉をたたきつづけておられるのにいっこうに応じない。実は心の中で主イエスを全面的には受け入れないときめているのではないでしょうか?パリサイ人たちの場合は、心を閉ざして、かたくなにがんばって、反対するためには何だって種をあつめよう式に、あらゆる事柄のあら探しをする。その場合、弟子のふうをしているのだけれども本当はイエスを迎え入れるつもりはない。そのような心は遠からずあらわになる日がくるのです。人間同士で隠すことができても、神様からは隠すことはできないのです。パリサイ人のパン種は始め小さいのでかくすことができますが、全体がふくらむ時にはあきらかになります。同様に主を心から受け入れて、恵みによって生きる歩みをしていないならば、はっきりとその結果は、人生にあらわになります。「おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。」(2−3節)とあるとおりです。暗やみで密かに主イエスを悪く言った事は、明るみで聞かれます。家の中でささやいたことは屋上で広められます。

イエスの弟子である者は、パリサイ人の偽善にならって道を誤ってはいけません。むしろ救いの原点にいつも立ちかえって、そこから主イエスのみからだである教会に謙虚に仕えて行かなければなりません。

2 人を恐れないように。

パリサイ人を恐れる必要はありません。なるほど彼らはその偽善性をいかんなく発揮して侮辱を加え、嘲笑を投げ、迫害し、おびやかすでしょう。そのうえ、からだを殺す事もできるでしょう。しかし、あとはそれ以上、何もできないのです。主イエス様を信じて、神からのいのちにより、新しくされたあなたの霊を滅ぼす事は決してできません。主イエス様の深い愛と結びつけられているわたしたちを、そこから切り離す事はできません。敵対するものたちの力には限りがあるのです。彼らはこの地上の人生にだけしか力を行使できないのです。

人を恐れると罠に陥ります。自分の周りの人をいつも恐れて生活するならば、何事も前に進めなくなる危険性があります。パリサイ人たちの偽善は彼らが何よりも神様よりも人を恐れたためにおこりました。人の顔色を伺ったからです。「殺した後でゲヘナに投げ込む権威を持っている方をおそれなさい。」(5節)永遠の滅びに至らせる神をこそおそれるべきです。この地上だけではなく、来るべき永遠の世界においても力を発揮される神様をこそ恐れるべきなのです。

わたしたちは自分の手や足や内蔵が病んで、そのままであると命取りになると分かったら、手術をして切り離す事をしてでもからだ全体の命を守ろうとします。

同様に、神のみ前に永遠のいのちを選ぶか、一時的な迫害による痛み苦しみ、あざけり、侮辱に合いたくないために、人を恐れて、滅びにいたるかといわれたら、永遠のいのちをやっぱり選ばないでしょうか。ぎりぎりの選択のところで、神を恐れていのちを選ばせるでしょう。永遠のいのちに入りたいと言う人間の本能への執着は、神への恐れとともにあります。

Ⅱ 慰め

弟子達、クリスチャンが、なぜ、人を恐れないで神を恐れるのが良いのか、それは神が大きい慰めを与えてくださっているからです。

1 6−7節 父なる神と主イエス・キリストの目に、ひとりひとりが価値高い者と見積もられているのです。五羽の雀は二アサリオンで売っている。雀は貧しい人の食料として二羽が一アサリオン(一日の労働賃金の16分の1)で売られていた。二アサリオンならば四羽買えるのだが、おまけが一羽ついて五羽買えた。要するにそのような見積もられ方をする雀さえも、神の前に忘れられることはない。まして、神を信じる人間おや。忘れられる事は決してない。神は主イエス様のいのちを持って買い戻されたほどにひとりひとりを値積もりされている。まもるために特別の摂理を働かせられる。頭の毛さえもみな数得られている。黒髪の人で12万本ぐらいあると言われています。それだけではありません。実にキリストのためにあなたが受けたあざけりも、あなたの流した涙も、あなたの支払った犠牲も、キリストのみ前にあなたが用いた時間も、みな覚えられているのです。

神が尊いとご覧くださっている。あなたの存在のすべては特別な摂理のみ手の中にあります。父なる神が、み子イエス様が、聖霊なる神様が、あなたとあなたの全生活を覚えておられるのです。なぜ、人を恐れ、人の顔色をうかがうのですか。

2 8-10節 神を恐れ人のまえでキリストを受け入れる者は、「神と天使の並ぶ天上の大法廷で」喜び受け入れられるのです。私たちは地上の反キリストの並ぶ法廷でキリストを知らないといいながら、天上の神と天使の居並ぶ本物の大法廷で、主イエスに、私を知っている言ってほしいと願ったりはできません。

地上で神を信頼して死をかけてもキリストを告白する者にたいして、天上でキリストは、あなたはわたしの者と言ってくださるのです。ステパノは地上の法廷よりもあざやかに天上の法廷を見たはずです。福音を恥としないで、人を恐れないで、キリストを告白する生活は、神のこの約束と守りと助けを信じ、みつめつづける事から来るのです。このように人の前で告白する勇気は、聖霊がくださるのです。これに反して故意に信仰を捨て福音に耳を塞ぎ、信仰に立ち帰るようにとの聖霊の促しを拒む者は背教であり、聖霊を拒否して汚す者となります。

 

3 11-12節 わたしたちが神を畏れる方を選ぶ時、聖霊は勇気を与えて守り支えてくださいます。弟子達はユダヤ人の会堂で、また、ある時は役人や権力者の前であかしすることがありました。その時何を言おうか、どのように弁明しようか、と心配するには及びません。いうべきことは、その時聖霊が教えてくださるからです。語る内容、いいまわし、順序までもはっきりと教えてくださるからです。

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結び)神の守りと最後の受け入れの保証と、勇気と知恵を与えられる聖霊の故に、慰めを得て、神を畏れるほうを選ぶ。これらのことをすべて包んで表現している神の約束は「ローマ8:35-39」に示されています。

キリストの深い愛と私たちとの結びつきにあります。私たちのために日々ほふられる小羊となってくださった、キリストの愛に守られています。人をおそれず神に従う。偽善的な芝居をする必要は全くない。キリストの愛に支えられてますます、内側を豊かにしていただくのです。

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