コメントはまだありません

2012年10月14日 礼拝

121014_002

 

121014_001

 

 

2012年10月14日 ルカ12:41-48 「忠実な管理人は誰?」

序文)主の再臨を待つしもべのたとえ話しを先週まなびました。この話しを聞いたペテロは、イエス様が誰に向かって話しているのかを尋ねました。すなわち、主から特別の任務を与えられたしもべたちのことなのか、皆のためなのかです。イエスさまは、この質問に直接お答えをなさらずに、新しいたとえを話されて、再び再臨を待つものの、日常の歩み方を教えられました。イエス様は彼らに「忠実な賢い管理人は、いったいだれでしょう。」と問いかけられました。

ようするに、これは聞く者がそれぞれの立場から、自分は忠実な賢い管理人かどうかを、自問自答しつつ、教えられるべきことがらなのでしょう。適用としては、今日の譬え話しは、教会の働きにおいて牧師、長老、執事として、福音の管理責任を負っている役員たちを指しているのです。同時に、すべてのクリスチャンをも指しているのです。ペテロは年老いてから「ペテロ第一の手紙4:10−11」の中で、次のように書いて、この時のイエスさまの答えを適用しています。「それぞれが賜物をうけているのですから、神の様々な恵みの良い管理人として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かにそなえてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。」

 

Ⅰ 42節 管理人の忠実さ 忠実な賢い管理人は、このたとえでは、主人イエス様の権威によって任命された人だということがわかります。主人のしもべであります。主人の仕事を任され、財産を管理し、しもべたちを委託されています。主人の心にそって、主人のために自分で采配をふるって活用するのです。主人の召使いたちに、時に応じて食事を与え、主人が働きを十分できるように配慮します。このような働きに要求される態度は忠実と賢さ(思慮深さ)です。ことに忠実と言う事は、主人にたいするしもべとして管理者に要求される根本的資質です。タラントのたとえに出て来るしもべたちで、ほめられているのは、「良い忠実なしもべ」です。このことから忠実とは、主人から自分の能力に応じた与り物を、自分の能力に応じて活用することです。神から託されたその役目について、一切をどのように誠実に運用したかです。

忠実ということを、さらに分からせるために、忠実でないとはどういうことか考えてみましょう。45節。不忠実なしもべ、管理人は、まず、主人の帰りが遅いと心の中で思います。これは主イエスの再臨をさします。油断があります。実際には主人の帰りは無いとまで、思い込んでしまうのです。その結果、男女の召使いを打たたき、管理人の分限をわきまえず、主人になったような気分で、高慢になるのです。さらに食べたり飲んだりして、酔いはじめます。自分の職務への不平不満は、結局人間を怠慢と怠惰、怠りにと追いやります。忠実な管理人は、自分の忠実な働きによって、主人が喜んでくれる、その喜びに、自分のことのように参加しようとする心をもっているのです。

不忠実な管理人は、その結果「しもべの主人はおもいがけない日の思いがけない時間に時に帰ってきます。そして彼を厳しく罰して、不忠実な者どもと同じ目に会わせるにちがいありません。主人の心を知りながら、その思い通りに用意せず働きもしなかったしもべは、ひどくむちうたれます。」(46-47節)。「きびしく罰して」と言う原語は「二つ裂きにする」という意味です。主人の心を知っていながら、そのように従い、務めなかったからです。

テトス1:7〜9「監督(教会のリーダー)は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、喧嘩好きでなく、不正な利を求めず、かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。」

Ⅱ 管理人の働きの内容は?

1 管理者・管理人と翻訳されている原語はオイコノモスで、英語ではstewardship スチュワードシップです。この語はオイコス(家)+ノモス(配剤・律法・配置)という意味からなっています。管理者の任務は、三つあります。第一に主君の財産・しもべ・仕事を委託されている。第二は主君のために、自分の采配で指図、活用する。第三は主君に決算報告をする(その時が確実にくる)。

2 内容A:福音の奥義の管理者

私たちに託されている働きの内容は、どのようなものかを考えましょう。主の心を知って、それに従い、用意し、働く(47節)しもべになるためにも。

主のこころは何でしょうか? ルカ12:31-32「神の国を求めなさい。父である神は喜んで、あなたがたにみ国をお与えになる。」エペソ1:5「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによって、ご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた。」ヨハネ6:40「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちをもつことです。わたしはその人たちを一人ひとり終わりの日によみがえらせます。」

主のみこころは、人々が神を呼び求め、キリストを信じて、永遠のいのちを持ち、神の子とされ、神のご支配と守りとめぐみの内に生活することにあります。それは福音の宣教をとおしてキリストのからだである教会を建て上げてゆくことです。

教会の牧師、長老たちは、特に福音の奥義の管理人としてみことばに仕える働きを牧師が負い、みからだである教会を治めるはたらきを長老方が負っています。パウロはコリント教会の信徒たちに「こういうわけで、私たちをキリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。この場合管理者には忠実であることが要求されます。」(第一コリント4:1-2)と語っています。

主イエスから委託を受けて自分も信じているキリストの福音の奥義の管理者として、これを守り、これを伝え、主をお喜ばせするためにひたすら、忠実で誠実でなければなりません。教会の外のいかなる者が、何と言おうと、何を要求しようと、何とけなされても、また何かをもって誘惑しようとも、いっさい耳をかさずに忠実に福音の委託を保ち、伝え続けること、これが働きの内容です。

3 内容B:賜物の管理者

ペテロ第一の手紙4:10−11「それぞれが賜物をうけているのですから、神の様々な恵みの良い管理人として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かにそなえてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。」

① 主は信仰を告白したものたちの交わりとして、それぞれの地域に教会を建ててくださいました。そして信仰を告白したものたちは一人残らず教会の枝として何らかの賜物を恵みによって与えられています。神に仕えるために、生来の賜物、能力、タラントがあります。「キリストからの賜る賜物のはかりに従って、わたしたち一人ひとりに恵みが与えられている。」エペソ4:7このみことばによれば、誰一人として「わたしは本当に何も特別な賜物を持っていないのだ。」という偽りの謙遜を持つことはゆるされません。そのようなことばは、しばしば恐れや怠慢の口実であったり、神に対するいいがかりとなります。私たちの賜物の多くは隠されており、発達させ、磨かれる必要があります。「賜物」は使用することにより、はじめて自分のものとなるのです。あなたにとって重要と思えなくても、神が奉仕のために与えておられる賜物が一つ、あるいはいくつもあるのです。この事実を認めて自分の能力について、見せかけの謙遜をしてはなりません。さて、同時に神が信仰の測りにしたがって分け与えられた恵みを用いるときに、思うべき限度を超えて思い上がってはならないという点も注意しなければなりません。

神の賜物は謙虚に用いなければなりません。特別の賜物を与えられている者はうぬぼれやすく尊大になりやすいのです。キリスト教会は、種々の構成員が相互に奉仕する形で協働している社会組織です。「 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」

「教会の中の調和、よく整った秩序は、多くの部分が集まってできあがった統一の中に存在する。それはさまざまな賜物が同じ目的を目指すような場合である。丁度、音楽に置いて曲は雑多でありながら、互いにそれらが見事なハーモニーによって調和しあい規正し合って渾然一体となって一つの調べとなっているようなものである。だから、賜物や務めに関して違いのあるのは当然であるが、しかもすべては一つに帰せられるべきである。」主は聖霊によって、わたしたちにさまざまな賜物を与えて下さったのです。それは用いられ仕え合って「みなの益」(Ⅰコリント12:7)となるために役立てられるのです。

私たちは、「慎み深い考え方を」するために健全な自己評価しなければなりません。主が私に量ってくださった賜物とは何かを、信仰の量りに従って量る必要があるのです。賜物の発見と育成と行使は、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変える」ための霊的な行動になるのです。

② 教会の指導者たちにも彼らに従う信徒たちにも共に霊的賜物が与えられています。一人一人に与えられている霊的賜物が神の民を互いに信仰の歩みにおいて成熟し、キリストの福音を世界に広めるために役立つ者とさせてくれるのです。仕え合う交わりのために、霊的賜物が活用される教会となるように!牧師も信徒も、次の四つのことに注意して、まず自分自身を見つめることから始めてください。

⑴ 聖書に書かれている霊的賜物を理解する

聖書が霊的賜物について何を語っているかということに注目しましょう。霊的賜物について聖書が語っている主要な箇所は、Ⅰコリント12−14章、ローマ12:1−8、エベソ4:1−16、Ⅰベテロ4:7−11です。これらの箇所を学びながら、霊的賜物とは何かということを深く理解する必要があります。

⑵ 自分に与えられている霊的賜物が何であるかを知る

霊的賜物は教会の働きで担う役割とは違います。ですから、「私は牧師だから牧会の賜物があるに違いない。」とか「私は毎日曜日説教しているから教師の賜物がある」と言うのはおかしな言い方です。実際に牧会の賜物や教師の賜物が与えられているかもしれませんが、それは決して牧師自身が今までの経験を通して獲得したというようなものではありません。あるいは他の賜物が与えられているのに、まだ気づかないでいるということもあるかもしれません。そこで自分自身を少し客観的に見つめて、また周りのクリスチャンにも聞いて、自分に与えられている賜物が何であるか知るように努めましょう。

⑶ 自分に与えられている賜物が教会の働きとどのように関連するか考える。

自分の霊的賜物が何であるかを発見したなら、その賜物が教会の宣教の働きにとってどのような意味を持つかについて考えます。特に信徒リーダーたちを養成するのに、牧師に与えられている賜物が何かによって彼らがどのように養成されていくかが決まります。牧師に伝道の賜物が与えられているなら、やはり伝道の賜物が与えられている信徒たちがさらに伝道熱心になる可能性が高いですし、教師の賜物が与えられているなら、信徒リーダーたちはスムーズに新しいことを学んでいくことでしょう。また、牧師に与えられていない賜物を持っている信徒たちが、牧師が不得意としてきた教会の働きに積極的に関わってくることも考えられます。ですから、牧師に与えられた賜物と教会の働きの関連性を考えることで信徒リーダーたちの養成が効果的に進んでいくのです。

⑷ 自分に与えられている賜物に内在する強さと弱さを知る

霊的賜物には強さと弱さと両方が存在しています。例えばリーダーシップの賜物が与えられている人は他のクリスチャンたちを奉仕に整えることを巧みに行なうことができる反面、互いの愛をわすれて、使命にだけ集中してしまう危険があります。高慢になりかねない弱さを持っています。伝道の賜物が与えられている人は確かに未信者の人たちと上手に関わることができるでしょうが、他のクリスチャンも誰もが自分と同じようにすべきだと考えると問題が生じてきます。牧師も教会員たちを指導していく中で、自分に与えられている賜物のゆえに自分自身の中に強さも弱さもあるということを知ることが大切です。そして出来るだけ強さを活かし、弱さについては出来るだけ自制し、また周りの人々にもいつも自分の言動をチェックしてもらうようにして対処するようにしましょう。

Ⅲ  管理人への報い

多くを与えられた者は、多くを求められ、多くをまかされた者はさらに多くを要求されます。忠実なしもべには、神はその報いとして44節「主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」とあります。これはすばらしい約束です。天国の宝を管理させるというのです。主が地上でそのしもべとして管理人として、どのようにそれぞれが歩んだかに従って、報いを与えられることが、これによってわかります。救いはすべての信じる者に、無償であたえられる恵みですが、その救いを受けた者が入る、御国では、地上生活の歩み方によって報いがあるといっています。「あなた方も賞を受けるように走りなさい」(第一コリント9:24)。主人のこころを知っており、長く学んでおり、信仰経歴も多いといいながら、無為無策で、怠惰で、反抗的なしもべはイエス様からみると最低です。しらずにいたために鞭うたれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。知らなかったのに、なぜ打たれるのかと考えるでしょうが、世の中でも「法律を知らなかった」といってもちゃんと罰金はとられるのです。

主人の心を行う気さえあれば、主人の心を知ろうとするでしょう。知ろうとすれば、すぐに分かります。知らないとほっておくのは怠慢です。

多くゆだねられているものは、多くを主人から期待されています。多くを与えられたものが少ししかささげない、すこししか仕えない、少ししか時間を用いないなら、これは、あなたに多くを託された主人のお心を踏みにじっているのです。この世で多く託されている者は多く要求されている事を忘れないようにしましょう。

主は、託された者の責任、忠実さを問うておられるのです。そして、心から喜んで応じる者は、主が全財産をその人に任せられるのです。

 

結び)再臨を待つ、日々は、主のお心を忠実に実現してゆく生活態度によって、きたるべき日の大いなる報いにあずかるための、備え日であるのです。そのように歩む者は、だれでしょうか?

コメントを投稿