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2012年11月11日 礼拝

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2012年11月11日 ルカ13:1-9 「あと一年そのままに」

序文)先回は、今の時代が、神による最終判決のくだる途中にあって、和解するチャンスのある恵みの時代であるとまなびました。つづきとして、恵みの時代における神の憐れみと峻厳を学びましょう。ある人たちがやってきて、最近おこった一つの事件を神の審判の例として報告をしました。

Ⅰ 1−5節 事件とイエス様の反応と警告

1 事件概要 当時のパレスチナを管轄していたローマ総督はピラトでした。彼がエルサレムの神殿に来て祭壇に犠牲をささげていたガリラヤ人たちを虐殺して、その血を捧げ物に混ぜた、という報告です。なぜそのようなことをピラトがしたのかと推測すると、ガリラヤ地方の愛国主義者たちをローマ帝国の当局者たちがマークしていて、彼らが神殿の祭壇に進み出ている隙をついたのではないか。当時の歴史家はガリラヤ人について「彼らはいつも革新好きで、本性変革の気があり,騒動を喜ぶ」と書いており、どうもいつも何か政治問題に巻き込まれており、しかも激しやすいのです。ともかくも本来ならば神殿の中は安全な逃れ場であるのですが、神殿の祭壇の前で殺されるようなことになったのだから、よほどの極悪人であると風聞があった。そして彼らこそ総督ピラトに殺されるようになる前に,途中で和解すべきであったと、人々は考えた。さらにいうならば、彼らは神にたいしても罪深かったのではないか。報告にきた人々は、自分たちは彼ら程ではないと思っていた。

2 イエス様は彼らの報告を聞いて[2−3節]と答えられた。そして同様の例として、シロアムの塔が倒れて18人の人々が死んだ事件を話された。これは自然の原因でおこった災害であったが、その時死んだ18人はよほど罪深かったと人々により考えられていた。人間の行為による災害であれ、自然が原因の災害であれ、そのような事があると,すぐに人々は災害にあった人々の事を云々して、よほど罪深かったからだと批判する者たちも多くいた。人々はそうおもいこんでいるのです。イエス様は完全にそうではない。と否定しておられます。

人々は、他人の災害を自分とは関わりのない者と考えてしまうのです。私はあの人々のような目にあってはいない。自分は安全だったと、優越感?快感をさえ覚えるほどである。ガリラヤ人や、シロアムの被災者とは違う。

3 イエス様はそのような心得違いを戒められました。被災者を見て、自分は神の審判を受ける事は無いとか、大丈夫だと思うべきではない。他の人々が被った被災は、私たちへの警告である。これを聞いて神への自分たちの罪を省み、悔い改めないと同じように滅びる。

災害にあうことは、罪の故であるとは、限らない。旧約聖書に啓示しているように、ヨブの例がある。彼ほど信仰深い,神を敬虔におそれる人はいなかった、と神が認めておられる。にもかかわらず、おそろしい災害に次々と見舞われた。悪魔がその人の信仰を試して,だめにしようと試みることがある。

私たちは他の人々が受けた災害をみて、その人々の死後が滅びであると裁く権利は全く無い。そのような資格はない。むしろ自分の身を反省しなければならない。

Ⅱ 6-9節

1 主イエスは、私たちが置かれている立場は、どのような者であるかを教えられた。

神の裁きを前にして、悔い改める必要を強調されました。

ある人がぶどう園にいちじくの木を植えた。「ある人」とは神様の事です。「ぶどう園」とは世界のことです。「いちじくの木」はイスラエルのことです。ところが3年たっても実りがない。番人はイエス様です。3年間も面倒を見て来た。3年にわたるイエス様のはたらきにもかかわらず、イスラエルは神の前に霊的な実りが何も無い。

パレスチナでは、ぶどう園にイチジクの木を植える事は、少しも変な事ではなかったのです。3年もたつと実を結ぶはずでした。特別扱いをイチジクの木は受けていたのです。神からの豊かな恵みと、歴史を通じて特別扱いの中に育てられてきたのです。イエス様は彼らの中に生活し、奇蹟の数々をしてみせました。メシアである証拠を現しておられました。救いの福音を聞かされていました。しかし実を結ばないでいました。「切り倒してしまいなさい。」

場塞ぎである。神は審判をくだそうとしておられました。

 

2 イエス様は、神様の「切り倒しなさい。」という言葉を押しとどめて、取りなしをしてくださいました。今年一年そのままにしてやってください。木の周りをほってこやしをやってみますから。

ルカがこの話を福音書に書き留めたのは、イスラエルのためだけではなく、異邦人も含め私たち人間への神様のなさり方を知らせるためでした。

神は私たちに多くの物を恵み、託しておられます。それはまことの神のみこころに適って信仰の実を結ばせるためです。福音は伝えられて、その気持ちになりさえするならば、教会はその町にあって、いつでもはいることができるのです。集会も、あれこれ用意され、キリストの力は信じるものの中に,今もはたらいているのです。それなのに、長年にわたりいたずらに恵みをうけるだけで、信仰の実を結ばずに、忍耐と柔和と寛容の実を結ばずにいるのならば、神の峻厳をわすれてはならない。その人は切り倒されてしまうのです。神の恵みはうければ受けるほど、それは私たちを信仰から信仰へと進ませます。ところが、そうでなければ切り倒せといわれるのです。

3 なぜ、わたしたちは倒されずにいるのでしょうか? それは番人イエスさまの深い憐れみによる取りなしがあるからです。あと一年そのままにして、わたしが面倒を見ましょう。信仰を揺り動かして、目ざめさせ、みことばと聖霊をはたらかせて、肥やしをやってみましょう。それで、神はことし一年チャンスを与えてくださった。私たちが何の災いにも遭わないのは、神の憐れみによるのです。主イエス様の取りなしにより、一年の猶予をいただいたからです。神様の忍耐によるのです。

ペテロもマルコもパウロも、今一度のチャンスを神からいただいたのです。それで立ち返る事ができたのです。神の裁きの峻厳さとともに、深い憐れみをここに見せられます。浮き沈みの激しい人間に対して,神は忍耐を憐れみを増し加えてくださっているのです。わたしたちはこの事に甘えておなじ調子でもう一年を送ってしまうならば、神の裁きの峻厳さの前に立つ事になります。

Ⅲ ヨハネ15:5−6

一人一人が神に立ち返り、残されたチャンスを生かすと豊かな実を結びます。あなたが神から受けいてる特別扱いを考えてみましょう。日本にいるクリスチャンは、東南アジアのクリスチャンよりも、はるかに恵まれています。彼らの中には牧師が巡回してきて聖晩餐式に与れるのが、一年に一回しかない教会もあるのです。毎週、みことばの講解説教を聞く事など考えられない教会がたくさんあるのです。その中で主イエス様を見上げ、信仰を持って従っているのです。

私たちは,どのような実を結んでいるでしょうか。どのような心で主と教会につかえているでしょうか。

 

結び)今はめぐみのとき、救いの日であるという好機を、拒み、神の呼びかけにむなしく聞き流し、手遅れにならないようにしましょう。あなた方も、悔い改めなえれば滅びると主イエス様はいわれています。

 

 

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