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2012年12月9日礼拝 

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2012年12月9日主日礼拝  説教(せっきょう)題:救(すく)い主である神。

聖書(せいしょ):テモテ第一1章18節から2章7節

 

序文)私(わたし)たちは前回(ぜんかい)の説教(せっきょう)で、律法(りっぽう)の正(ただ)しい使(つか)い方(かた)について学(まな)びました。また、パウロが私(わたし)はその罪人(つみびと)のかしらであると告白(こくはく)したことも学(まな)びました。それは自分(じぶん)の罪(つみ)深(ぶか)さに直面(ちょくめん)したパウロの本当(ほんとう)の告白(こくはく)です。今日(きょう)は今日(きょう)の御言葉(みことば)を通(とお)して祈(いの)りについて、そして、救(すく)い主(ぬし)である神様(かみさま)について学(まな)びたいと思(おも)います。私(わたし)たちの救(すく)いがどれぐらい深(ふか)い神様(かみさま)のめぐみであるかをともに学(まな)びましょう。

1.信仰(しんこう)と正(ただ)しい良心(りょうしん)

パウロはテモテに人々(ひとびと)が不法(ふほう)に律法(りっぽう)を使(つか)うことがないように指導(しどう)し、教(おし)えるように命(めい)じています。それで彼(かれ)らがキリストに戻(もど)ることが出来(でき)るように助(たす)けることを命(めい)じています。また、パウロはテモテにテモテが神様(かみさま)から召(め)された時(とき)にパウロを通(とお)してもらった神様(かみさま)の預言(よげん)を覚(おぼ)えなさいと言(い)っています。それはテモテが御国(みくに)のために働(はたら)く時(とき)合(あ)う苦難(くなん)と試練(しれん)の中でも耐(た)えることが出来(でき)る力(ちから)を与(あた)える御言葉(みことば)でありました。その御言葉(みことば)から力(ちから)をもらって勇敢(ゆうかん)に戦(たたか)うことを命(めい)じています。パウロはテモテが勇敢(ゆうかん)に戦(たたか)いをするためには信仰(しんこう)と正(ただ)しい良心(りょうしん)を保(たも)つ必要(ひつよう)があると教(おし)えています。信仰(しんこう)と正(ただ)しい良心(りょうしん)という言葉(ことば)はこの手紙(てがみ)の中(なか)で3回(かい)言及(げんきゅう)しています。それを見(み)るとこの言葉(ことば)は大切(たいせつ)な言葉(ことば)であり信仰(しんこう)と正(ただ)しい良心(りょうしん)は深(ふか)い関係(かんけい)を持(も)っていることが分(わ)かります。ですから、信仰(しんこう)と正(ただ)しい良心(りょうしん)について学(まな)ぶ必要(ひつよう)があります。まず、良(りょう)心(しん)について少(すこ)し考察(こうさつ)するようにします。良心(りょうしん)は神様(かみさま)が堕(だ)落(らく)した人(ひと)の心(こころ)に残(のこ)した良(よ)いものです。しかし、人間(にんげん)の生(う)まれつきの良心(りょうしん)は正(ただ)しい判断(はんだん)ができません。ですから聖霊(せいれい)によって生(う)まれ変(か)わった良心(りょうしん)が必要(ひつよう)です。その良心(りょうしん)が破(は)壊(かい)されると道徳的(どうとくてき)な腐(ふ)敗(はい)とともに霊的(れいてき)にも破(は)滅(めつ)することが起(お)こります。ですから、パウロは正(ただ)しい良心(りょうしん)を捨(す)てると信仰(しんこう)の破(は)滅(めつ)に至(いた)る事(こと)が起こると警告(けいこく)しています。ですから信仰(しんこう)を守(まも)るために正(ただ)しい良心(りょうしん)、すなわち、聖霊(せいれい)によって生(う)まれ変(か)わった良心(りょうしん)を持ちなさいと勧(すす)めています。正(ただ)しい良(りょう)心(しん)はキリスト者(しゃ)が安全(あんぜん)な信仰(しんこう)の航海(こうかい)するための助(たす)けになります。ですから、ここでパウロは正(ただ)しい良心(りょうしん)を捨(す)てることにより起(お)こる破(は)滅(めつ)を警告(けいこく)しています。正(ただ)しい良心(りょうしん)を捨(す)てることは自(みずか)ら正(ただ)しい良心(りょうしん)の働(はたら)きを拒(こば)むことを意味(いみ)します。良心(りょうしん)による正(ただ)しい判断(はんだん)ができなくなると自(みずか)ら正(ただ)しい良心(りょうしん)の働(はたら)きを拒(こば)むようになることで信仰(しんこう)にも影響(えいきょう)が及ぼすのです。パウロはその例(れい)として20節(せつ)に信仰(しんこう)の破(は)船(せん)に会(あ)った者(もの)の中(なか)で、ヒメナオとアレキサンデルがいると教(おし)えています。彼(かれ)らはエペソ教(きょう)会(かい)の中(なか)の強烈(きょうれつ)な異端(いたん)になりました。第二テモテ2章17節、18節によるとヒメナオは真理(しんり)からはずれてしまい、復活(ふっかつ)がすでに起(お)こったと言(い)って、ある人々(ひとびと)の信仰(しんこう)をくつがえしているのですと書(か)いています。アレキサンデルは使徒(しと)の働(はたら)き19書33節と第二テモテ4章14節に書(か)いている人物(じんぶつ)の中(なか)でどちらかがは確(たし)かではないです。けれども彼(かれ)はユダヤ人(じん)でユダヤ教(きょう)からキリスト教(きょう)に改宗(かいしゅう)しましたが、再(ふたた)び異端(いたん)になったと推測(すいそく)するだけです。いずれにせよ、彼(かれ)らは律法(りっぽう)先生(せんせい)になることを切(せつ)に願(ねが)って、自(みずか)ら正(ただ)しい者(もの)になりました。しかし、彼(かれ)らは限度(げんど)を超(こ)えた過(あやま)ちに落(お)ち、教会(きょうかい)に大(おお)きな問題(もんだい)を起(お)こしました。その結果(けっか)、パウロは彼(かれ)らをサタンに引(ひ)き渡(わた)しましたと書(か)いています。それは教会(きょうかい)から追(お)い出(だ)されてサタンの領域(りょういき)に追(お)い出(だ)されるの意味(いみ)であり肉体的(にくたいてき)にも苦(くる)しみを受(う)ける意味(いみ)も含(ふく)みます。いずれにせよ、彼(かれ)らに起(お)こったことは裁(さば)きであります。しかし、彼(かれ)らが滅(ほろ)びることが目的(もくてき)ではなく、神(かみ)をけがしてはならないことを、彼(かれ)らに学(まな)ばせるためです。また、彼(かれ)らが自分(じぶん)の罪(つみ)を悟(さと)り、悔(く)い改(あらた)め、それ以上(いじょう)には真理(しんり)を妨(さまた)げることをしないで、神様(かみさま)に立(た)ち返(かえ)るためでありました。

 

 

2.祈(いの)りについて

パウロは2章からは祈(いの)りについて教(おし)えています。まず、すべての人(ひと)のために祈(いの)ることを勧(すす)めています。それは、この世(よ)のすべての人(ひと)のために祈(いの)りなさいという意味(いみ)ではなく、お祈(いの)りの対象(たいしょう)を人間(にんげん)の慣習(かんしゅう)と制度(せいど)を超(こ)えて、人種(じんしゅ)と国籍(こくせき)と社会的(しゃかいてき)な地位(ちい)による区別(くべつ)をしないことです。また、特(とく)に、王(おう)とすべての高(たか)い地位(ちい)にある人(ひと)たちのために祈(いの)りなさいと勧(すす)めています。神様(かみさま)は人類(じんるい)の生存(せいぞん)のためにこの世(よ)に権力者(けんりょくしゃ)を置(お)いています。彼(かれ)らは神(かみ)のご計画(けいかく)によって立(た)てられています。彼(かれ)らがひどい権力者(けんりょくしゃ)である時(とき)にも、彼(かれ)らのために祈(いの)るべきです。この聖書(せいしょ)が書(か)かれた当時(とうじ)の背景(はいけい)が皇帝(こうてい)ネロがキリスト者(しゃ)を激(はげ)しく迫害(はくがい)された事実(じじつ)を考えるならパウロの命令(めいれい)はどれぐらい多(おお)くの意味(いみ)を持(も)つのかが分(わ)かります。パウロはキリスト者(しゃ)が敬虔(けいけん)に、また、威厳(いげん)をもって、平安(へいあん)で静(しず)かな一生(いっしょう)を過(す)ごすために、彼(かれ)らのための祈(いの)りをしなさいと教(おし)えています。国家(こっか)の権力者(けんりょくしゃ)のための祈(いの)りは国(くに)の安寧(あんねい)と社会(しゃかい)秩序(ちつじょ)の保(たも)つことに重大(じゅうだい)な影響(えいきょう)を及(およ)ぶものであると聖書(せいしょ)は教(おし)えています。政府(せいふ)と社会(しゃかい)が安定(あんてい)すると、キリスト者(しゃ)も自分(じぶん)の安定的(あんていてき)な信仰(しんこう)生活(せいかつ)を保(たも)つことが出来(でき)ます。それで、平安(へいあん)で静(しず)かな一生(いっしょう)、すなわち、外面(がいめん)には戦争(せんそう)がないし、内面的(ないめんてき)には悩(なや)みがない生活(せいかつ)を過(す)ごすことが出来(でき)るのです。そのためにキリスト者(しゃ)は国家(こっか)の為政者(いせいしゃ)のために祈(いの)るべきです。それは、ただ、為政者(いせいしゃ)たちと国家(こっか)の指導者(しどうしゃ)から自分(じぶん)たちの利益(りえき)を得(え)るためではなく、すべての人々(ひとびと)のために秩序(ちつじょ)と安寧(あんねい)を保(たも)つためです。

また、パウロは祈(いの)りについて、四(よっ)つの祈(いの)りを教(おし)えています。それは願(ねが)い、祈(いの)り、とりなし、感謝(かんしゃ)であります。願(ねが)いは緊迫(きんぱく)な状(じょう)況(きょう)から特別(とくべつ)な願(ねが)いをする意味(いみ)です。祈(いの)りは神様(かみさま)に対(たい)するすべての敬虔(けいけん)な願(ねが)いであります。とりなしは他(ほか)の人々(ひとびと)のためにとりなしすることです。感謝(かんしゃ)は神様(かみさま)のめぐみに対(たい)する感謝(かんしゃ)であります。祈(いの)りは緊急(きんきゅう)で特別(とくべつ)な祈(いの)りと神様(かみさま)に通常(つうじょう)に願(ねが)う祈(いの)りと他(ほか)の人(ひと)々(びと)のためのとりなしと神様(かみさま)のめぐみに感謝(かんしゃ)する祈(いの)りがあると教(おし)えています。パウロはそうすることが、私(わたし)たちの救(すく)い主(ぬし)である神(かみ)の御前(みまえ)において良(よ)いことであり、神様(かみさま)が喜(よろこ)ばれるのであると教(おし)えています。

 

3.すべての人(ひと)が救(すく)われ

パウロは4節で神(かみ)は、すべての人(ひと)が救(すく)われて、真理(しんり)を知るようになるのを望(のぞ)んでおられますと教(おし)えています。この節(せつ)の解釈(かいしゃく)はとても難(むずか)しいです。この節(せつ)の解釈(かいしゃく)によって17世紀(せいき)はオランダ教会(きょうかい)のカルヴァン主義者(しゅぎしゃ)たちとアルミニウス主義者(しゅぎしゃ)たちの間(あいだ)に激(はげ)しい論争(ろんそう)が起(お)こりました。アルミニウス主義者(しゅぎしゃ)たちはこの節(せつ)の解釈(かいしゃく)を世(よ)のすべての人々(ひとびと)が救(すく)いを受(う)ける普遍(ふへん)救(きゅう)済(さい)主義(しゅぎ)を主張(しゅぎ)しました。それはイエス様(さま)を信(しん)じることは関係(かんけい)なく、神様(かみさま)は愛(あい)ですから結局(けっきょく)はすべての人(ひと)が救(すく)いを受(う)ける万人(ばんにん)救(きゅう)済論(さいろん)とは違(ちが)う主張(しゅちょう)です。その内容(ないよう)は信仰(しんこう)の予知(よち)による選(えら)びに基(もと)づきますが、すべての人々(ひとびと)が救(すく)われる普遍(ふへん)救(きゅう)済説(さいせつ)で、抵抗(ていこう)可能(かのう)恩寵(おんちょう)、すなわち神様(かみさま)の救(すく)いの恵(めぐ)みを人間(にんげん)が拒(こば)むことが出来(でき)ると考(かんが)えました。また、恵(めぐ)みからの堕(だ)落(らく)の可能性(かのうせい)、すなわち救(すく)われた者(もの)が救(すく)いの恵(めぐ)みから落(お)ちる可能性(かのうせい)があると教(おし)えました。それで、これは大(おお)きな論争(ろんそう)になり、オランダ改革派(かいかくは)教会(きょうかい)により、1618年-1619年にかけてオランダのドルトレヒトで大会(たいかい)が開(ひら)かれました。それが、ドルト会議(かいぎ)と呼(よ)ばれるものです。この会議(かいぎ)には8か国(こく)から改革派(かいかくは)教会(きょうかい)の代表(だいひょう)が招待(しょうたい)されました。それで、その会議(かいぎ)で決(き)められた信仰(しんこう)基準(きじゅん)がドルト信仰(しんこう)基準(きじゅん)あるいはドルト信条(しんじょう)であります。その基準(きじゅん)は、改革派(かいかくは)教会(きょうかい)、長老派(ちょうろうは)教会(きょうかい)といったカルヴァン主義(しゅぎ)の特徴(とくちょう)を5つの特質(とくしつ)として明確(めいかく)にしたことで神(しん)学(がく)史上(しじょう)大(おお)きな意味(いみ)があります。それは長老派(ちょうろうは)教会(きょうかい)でにも深(ふか)く関係(かんけい)を持(も)つものです。その内容(ないよう)は全的(ぜんてき)堕(だ)落(らく)、無条件(むじょうけん)選(えら)び、限定的(げんていてき)贖罪(しょくざい)、不可抗(ふかこう)的(てき)恩寵(おんちょう)、聖徒(せいと)の堅忍(けんにん)であります。 これはカルヴァン主義(しゅぎ)の5特質(とくしつ)としてTULIPだと呼(よ)ばれています。簡単(かんたん)に5特質(とくしつ)を見(み)てみると全的(ぜんてき)堕落(だらく)—堕落後(だらくご)の人間(にんげん)はすべて全的(ぜんてき)に腐敗(ふはい)しており、自(みずか)らの意志(いし)で神(かみ)に仕(つか)えることを選(えら)び取(と)ることが出来(でき)ません。無条件(むじょうけん)選(えら)びー神(かみ)は無条件(むじょうけん)に特定(とくてい)の人間(にんげん)を救(すく)いに、特定(とくてい)の人間(にんげん)を破(は)滅(めつ)に選んでいます。限定的(げんていてき)贖罪(しょくざい)—キリストの贖(あがな)いは、救(すく)いに選(えら)ばれた者(もの)だけのためにあります。不可抗(ふかこう)的(てき)恩寵(おんちょう)ー予定(よてい)された人間(にんげん)は、神(かみ)の恵(めぐ)みを拒否(きょひ)することができないのです。聖徒(せいと)の堅忍(けんにん)—いったん予定(よてい)された人間(にんげん)は、最後(さいご)まで堅(かた)く立(た)って耐(た)え忍(しの)び、必(かなら)ず救(すく)われます。当時(とうじ)のカルヴァン主義者(しゅぎしゃ)たちとアルミニウス主義者(しゅぎしゃ)たちの論争(ろんそう)はこの会議(かいぎ)を通(とお)して一段落(ひとだんらく)されましたが、その考(かんが)えは教会(きょうかい)の歴史(れきし)の中(なか)に残(のこ)って、今日(きょう)も続(つづ)いてある問題(もんだい)です。さらに4節を原語的(げんごてき)に詳(くわ)ししく見ると[救(すく)われ]と訳(やく)されている言葉(ことば)のギリシャ語(ご)の意味(いみ)は受(じゅ)動態(どうたい)を取(と)っています。それは、救(すく)いの主体(しゅたい)は人間(にんげん)ではなく、神様(かみさま)にあることを意味(いみ)します。ですから、人(にん)間(げん)は神様(かみさま)の救(すく)いの恵(めぐ)みによって救(すく)われるのです。救(すく)いのためには人間(にんげん)の意志(いし)が必要(ひつよ)です。しかし、人間(にんげん)の意志(いし)が救(すく)いを決(き)める条件(じょうけん)になることや、人間(にんげん)が最後(さいご)まで救(すく)いを拒(こば)むことが出来(でき)ることを意味(いみ)することではありません。また、パウロはここで言(い)っているすべての人(ひと)はどんな地位(ちい)や民族(みんぞく)であれ区別(くべつ)の無(な)い意味(いみ)で使(つか)っています。世(よ)のすべての人々(ひとびと)が救(すく)いを受(う)ける意味(いみ)で使(つか)う言葉(ことば)ではありません。また、神様(かみさま)は、その人々(ひとびと)が真理(しんり)を知るようになるのを望(のぞ)んでおられます。真理(しんり)を知(し)るようになるのは救(すく)いに至(いた)る知識(ちしき)に至(いた)ることを意味(いみ)します。それは救(すく)いに至(いた)る知識(ちしき)が人間(にんげん)の自(みずか)らの力(ちから)で得(え)られるものではなく、神様(かみさま)のめぐみであるのを現(あらわ)します。神様(かみさま)が人間(にんげん)が救(すく)いに至(いた)る知識(ちしき)である真理(しんり)を分(わ)かるように導(みちび)き、そのめぐみによって人(ひと)は救(すく)われます。堕落(だらく)した人間(にんげん)はすべて腐敗(ふはい)しており、自(みずか)らの意志(いし)で神(かみ)に仕(つか)えることを選(えら)び取(と)ることができません。ですから、神(かみ)は無条件(むじょうけん)に特定(とくてい)の人間(にんげん)を救(すく)いに、特定(とくてい)の人間(にんげん)を破(は)滅(めつ)に選(えら)んでいます。キリストの贖(あがな)いは、救(すく)いに選(えら)ばれた者(もの)だけのためであります。キリストの十字架(じゅうじか)はすべての人々(ひとびと)を救(すく)う十分(じゅうぶん)な力(ちから)と働(はたら)きをしました。しかし、それは、救(すく)いに選(えら)ばれた者(もの)たちだけのものです。もし、キリストの贖(あがな)いが救(すく)いに至(いた)ることが出(で)来(き)ない人々(ひとびと)も含(ふく)んだ世(よ)のすべての人(ひと)のためなら、救(すく)われない人々(ひとびと)のための贖(あがな)いは無効(むこう)になり、無駄(むだ)になる結果(けっか)になります。ですから、キリストの贖(あがな)いは、救(すく)いに選(えら)ばれた者(もの)だけが受(う)け取(と)るめぐみです。それは、とても難(むずか)しい教(おし)えであります。しかし、神様(かみさま)は自(みずか)ら判断(はんだん)する主権(しゅけん)を持(も)っておられる方(かた)であることを忘(わす)れてはならないのです。ですから、それは神様(かみさま)の主権(しゅけん)の領域(りょういき)であり、人間(にんげん)が干渉(かんしょう)したり主張(しゅちょう)することができません。また、そのめぐみによって予定(よてい)された人間(にんげん)は、神(かみ)の恵(めぐ)みを拒否(きょひ)することができません。神様(かみさま)にいったん予定(よてい)された人間(にんげん)は、最後(さいご)まで堅(かた)く立(た)って耐(た)え忍(しの)び、必(かなら)ず救(すく)われるのです。それが私(わたし)たちが信(しん)じている福音(ふくいん)であります。すべてが神様(かみさま)の一方的(いっぽうてき)な選(えら)びと恵(めぐ)みによるのです。ですから、私(わたし)たちはただ感謝(かんしゃ)することだけです。

 

4.神(かみ)は唯一(ゆいいつ)です

パウロは5節で、唯一(ゆいいつ)なる神様(かみさま)について語(かた)っています。この5節はギリシャ語(ご)聖書(せいしょ)にはありますが、「なぜなら」の意味(いみ)を持(も)つ接続詞(せつぞくし)が省略(しょうりゃく)されています。この接続(せつぞく)詞(し)は、神様(かみさま)だけが人間(にんげん)に救(すく)いを与(あた)えることが出来(でき)る方(かた)であり、本当(ほんとう)に人々(ひとびと)が救(すく)いを得(え)ることを望(のぞ)んでおられる方(かた)であることを強調(きょうちょう)するために使(つか)っています。ですから、5節は5節前(まえ)の御言葉(みことば)の理由(りゆう)と根拠(こんきょ)を現(あらわ)しています。私(わたし)たちの救(すく)いが唯一(ゆいいつ)なる神様(かみさま)によるもので、それが真(しん)の理由(りゆう)と根拠(こんきょ)になると言(い)っています。パウロはそれを強調(きょうちょう)していています。救(すく)いの理由(りゆう)と根拠(こんきょ)が私(わたし)たちの意志(いし)にあることではなく、唯一(ゆいいつ)なる神様(かみさま)にあります。ですから、私(わたし)たちの救(すく)いは、確(たし)かなものであり、揺(ゆ)るがないと言(い)えるのです。また、パウロは神(かみ)と人(ひと)との間(あいだ)の仲介者(ちゅうかいしゃ)も唯一(ゆいいつ)であって、それは人(ひと)としてのキリスト・イエスですと語(かた)っています。人間(にんげん)の罪(つみ)のゆえに壊(こわ)れた神様(かみさま)と人(ひと)との関係(かんけい)が、キリストの十字架(じゅうじか)の死(し)によって、再(ふたた)び回復(かいふく)出来(でき)る唯一(ゆいいつ)の道(みち)が開(ひら)かれました。ですから、キリスト・イエスが神(かみ)と人(ひと)との間(あいだ)の仲介者(ちゅうかいしゃ)も唯一(ゆいいつ)であると教(おし)えています。救(すく)いは唯一(ゆいいつ)の神(かみ)と人(ひと)との間(あいだ)の仲介者(ちゅうかいしゃ)であるキリスト・イエスを通(とお)して得(え)られるものです。他(ほか)には救(すく)いがありません。その唯一(ゆいいつ)の道(みち)がイエス・キリストです。パウロは続(つづ)けて、人(ひと)であるキリスト・イエスであると教(おし)えています。パウロはキリストが、すべての人(ひと)の贖(あがな)いの代価(だいか)として、ご自身(じしん)をお与(あた)えになったことを教(おし)えています。キリストが贖(あがな)いの代価(だいか)として、私(わたし)たちを罪(つみ)から解放(かいほう)してくださいました。しかし、その贖(あがな)いはそれを受(う)ける者(もの)だけが罪(つみ)から解放(かいほう)されるめぐみであります。7節ではパウロはそのあかしのために、私(わたし)は宣伝者(せんでんしゃ)また使徒(しと)に任(にん)じられ―私(わたし)は真実(しんじつ)を言(い)っており、うそは言(い)いません―信仰(しんこう)と真理(しんり)を異邦人(いほうじん)に教(おし)える教師(きょうし)とされましたと語(かた)っています。パウロは自分(じぶん)が宣伝者(せんでんしゃ)また使徒(しと)に任(にん)じられたと言(い)っています。ここで使(つか)っている宣伝者(せんでんしゃ)という言葉(ことば)は本来(ほんらい)は王(おう)、君主(くんしゅ)、総督(そうとく)、等(など)の公(おおやけ)の通信(つうしん)文(ぶん)を配(はい)達(たつ)することや公(おおやけ)の文章(ぶんしょう)を配(はい)達(たつ)する者(もの)を指(さ)す言葉(ことば)として使(つか)われた言葉(ことば)です。この言葉(ことば)は新約(しんやく)聖書(せいしょ)では神様(かみさま)の御言葉(みことば)を宣(の)べ伝(つた)える者(もの)の意味(いみ)で使(つか)っています。また、使徒(しと)は神様(かみさま)が立(た)てた神様(かみさま)の僕(しもべ)の意味(いみ)です。パウロは神様(かみさま)の僕(しもべ)で、彼(かれ)の人生(じんせい)をキリストをの宣(の)べ伝(つた)えることに捧(ささ)げました。パウロは私(わたし)は真実(しんじつ)を言(い)っており、うそは

言(い)いませんと言(い)っています。それはエペソ教会(きょうかい)の中のユダヤ教(きょう)の偽(いつわ)り教師(きょうし)たちが彼(かれ)の使徒(しと)的な権威(けんい)を疑(うたが)ったからです。それは当時(とうじ)、使徒(しと)とはイエス様(さま)の働(はたら)き、すなわちイエス様(さま)の死(し)と復活(ふっかつ)を直接(ちょくせつ)に見(み)て、それを宣(の)べ伝(つた)える者(もの)である認識(にんしき)があったからです。それで、パウロは自分(じぶん)が使徒(しと)であることに多くの疑(うたが)いと攻撃(こうげき)を受(う)けました。しかし、パウロは自分(じぶん)が使徒(しと)になったのは信仰(しんこう)と真理(しんり)の中(なか)からであることを強調(きょうちょう)し、自分(じぶん)とテモテの権威(けんい)に対(たい)する疑(うたが)いに弁論(べんろん)しました。しかし、実際(じっさい)にはパウロはギリシャ文(ぶん)学(がく)の三(さん)大中(だいちゅう)心地(しんち)であるタルソ出身(しゅっしん)であり、ヘブル人(じん)であり、厳(きび)しいパリサイ人(じん)として教育(きょういく)を受(う)けました。このような適切(てきせつ)な背景(はいけい)の下(もと)でパウロはイエス様(さま)から異邦人(いほうじん)のための使徒(しと)として主(しゅ)の摂理(せつり)の中(なか)で召(め)されたのです。

結び) パウロは信仰(しんこう)と正(ただ)しい良心(りょうしん)を保(たも)つことにより、信仰(しんこう)の破(は)船(せん)から自分(じぶん)の守(まも)るように教(おし)えています。また、願(ねが)い、祈(いの)り、とりなし、感謝(かんしゃ)をもってお祈(いの)りし、すべての人(ひと)のために祈(いの)り、さらに王(おう)とすべての高(たか)い地位(ちい)にある人(ひと)たちのために祈(いの)りなさいと勧(すす)めています。パウロは神(かみ)は、すべての人(ひと)が救(すく)われて、真理(しんり)を知(し)るようになるのを望(のぞ)んでおられる方(かた)です。救(すく)いは唯一(ゆいいつ)なる神様(かみさま)にありますと教(おし)えています。神(かみ)と人(ひと)との間(あいだ)の仲介者(ちゅうかいしゃ)も唯一(ゆいいつ)であって、それは人(ひと)としてのキリスト・イエスですと教(おし)えています。すべての人(ひと)が救(すく)いを得(え)るのが神様(かみさま)の御心(みこころ)です。しかし、堕落(だらく)した人間(にんげん)はすべて全的(ぜんてき)に腐敗(ふはい)しており、自(みずか)らの意志(いし)で神(かみ)に仕(つか)えることを選(えら)び取(と)ることができません。また、神様(かみさま)は無条件(むじょうけん)に特定(とくてい)の人間(にんげん)を救(すく)いに、特定(とくてい)の人間(にんげん)を破(は)滅(めつ)に選(えら)んでいます。そのキリストの贖(あがな)いは、救(すく)いに選(えら)ばれた者(もの)だけのためにあります。また、予定(よてい)された人間(にんげん)は、神(かみ)の恵(めぐ)みを拒否(きょひ)することができません。いったん予定(よてい)された人間(にんげん)は、最後(さいご)まで堅(かた)く立(た)って耐(た)え忍(しの)び、必(かなら)ず救(すく)われます。私(わたし)たちは予定論(よていろん)を聞(き)くと神様(かみさま)が不公平(ふこうへい)であり、不正(ふせい)であると言(い)えるかもしれません。また、予定(よてい)された通(とお)りになるので、何(なに)も意味(いみ)が無い(な)と思(おも)うかも知(し)れません。しかし、聖書(せいしょ)は神様(かみさま)は救(すく)い主(ぬし)ですだと教(おし)えています。それは救(すく)いに対(たい)する主人(しゅじん)であり、主権(しゅけん)を持っておられる方(かた)であることを意味(いみ)します。神様(かみさま)は自由(じゆう)ある主権(しゅけん)を持(も)っておられる方(かた)であることを意味(いみ)します。その自由(じゆう)ある選(えら)びは無条件(むじょうけん)の選(えら)びです。それは私(わたし)たちが選(えら)ばれた理由(りゆう)が、私(わたし)たちには全(まった)くないのを意味(いみ)します。選(えら)ばれる条件(じょうけん)がないから公平(こうへい)です。ドルト信条(しんじょう)の第一条(だいいちじょう)は「全(すべ)ての人(ひと)がアダムの下(した)のもとで罪(つみ)を犯(おか)しました。それで、裁(さば)きの下(もと)にあり永遠(えいえん)の死(し)を受(う)けるべきです。神様(かみさま)が全人類(ぜんじんるい)を罪(つみ)と裁(さば)きの下(もと)に残(のこ)して、その罪(つみ)のゆえに審判(しんぱん)を受(う)けるようにしても、神様(かみさま)は何(なに)も不義(ふぎ)をなさる方(かた)でありません。」と告白(こくはく)しています。私(わたし)たちが神様(かみさま)に何(なに)かを要求(ようきゅう)する前(まえ)に、自分(じぶん)が有罪(ゆうざい)判決(はんけつ)を受(う)けた罪人(つみびと)であることを自覚(じかく)する必要(ひつよう)があります。神様(かみさま)が人間(にんげん)を救(すく)うために何(なに)かをしなければならないという何(なん)の義務(ぎむ)も理由(りゆう)もありません。私(わたし)たちは自分(じぶん)の罪(つみ)のゆえに滅(ほろ)びるのが当然(とうぜん)であった者(もの)です。神様(かみさま)が私(わたし)たちを破(は)滅(めつ)に選(えら)ばれのは当然(とうぜん)の事(こと)であるにもかかわらず、神様(かみさま)の憐(あわ)れみを受(う)けています。私(わたし)たちは選(えら)ばれない者(もの)と全(まった)く同(おな)じ者(もの)ですが、選(えら)ばれるための理由(りゆう)が全(まった)くないにも関(かか)わらず選(えら)ばれました。ですから、めぐみだと言(い)っています。全(まった)く資格(しかく)がない者(もの)がもらうことだからめぐみになります。私(わたし)たちは人間(にんげん)中心(ちゅうしん)の信仰(しんこう)から神様(かみさま)中心(ちゅうしん)の信仰(しんこう)に変(か)える必要(ひつよう)があります。人間(にんげん)の視線(しせん)から神様(かみさま)の視線(しせん)に変(か)える必要(ひつよう)があります。また、パウロもローマ9:13-16でヤコブとエサウのことを話(はな)し、神様(かみさま)に不正(ふせい)があることが絶対(ぜったい)にありませんだと語(かた)っています。したがって、事(こと)は人間(にんげん)の願(ねが)いや努力(どりょく)によるのではなく、あわれんでくださる神(かみ)によるのです。と告白(こくはく)しています。すべてがあわれんでくださる神(かみ)によるのです。私(わたし)たちは人が神様(かみさま)に請求権(せいきゅうけん)を持(も)っているように考(かんが)え、行動(こうどう)するのは注意(ちゅうい)するべきです。むしろ、その逆(ぎゃく)です。すべてが神(かみ)によるのです。それが人間(にんげん)中心(ちゅうしん)ではなく、神様(かみさま)中心(ちゅうしん)であるの意味(いみ)です。しかし、人間(にんげん)は自分(じぶん)の中(なか)に何(なに)が少(すこ)しでも良(よ)いものがあるのだと思(おも)うのです。何(なに)も無(な)いと言(い)われるとプライドに傷(きず)つくことでなるから、何(なに)が価値(かち)があるものを自(みずか)ら証明(しょうめい)したいと思(おも)っています。しかし、無条件(むじょうけん)で、一方的(いっぽうてき)であるめぐみという意味(いみ)は本当(ほんとう)に深(ふか)い意味(いみ)を持(も)っています。私(わたし)たちはパウロが「キリスト・イエスは、罪人(つみびと)を救(すく)うためにこの世(よ)に来(こ)られた」と告白(こくはく)したことを改(あらた)めて覚(おぼ)える必要(ひつよう)があります。そして、自分(じぶん)の中(なか)には何(なに)も良(よ)いものがないことを認(みと)め、神様(かみさま)の前(まえ)にひざまずいて心(こころ)から叫(さけ)ぶのです。「主(しゅ)よ、あわれんでください。ここに罪人(つみびと)が来(き)ました」と。また、私(わたし)たちは自分(じぶん)が苦難(くなん)に会(あ)った時(とき)や自分(じぶん)が思(おも)う通(とお)りにならないと「なぜ、私(わたし)に苦難(くなん)が、なぜ、私(わたし)ですか」と言(い)いながら神様(かみさま)と環境(かんきょう)と人(ひと)々(びと)に対(たい)して不満(ふまん)を現(あらわ)す高慢(こうまん)な者(もの)になったりします。しかし、私(わたし)たちが覚(おぼ)えなければならない事実(じじつ)があります。それは、世界(せかい)の70億人(おくにん)の中(なか)で、また、1億(おく)2千万人(せんまんにん)が住(す)んでいる日本(にほん)の中(なか)で、私(わたし)たちは選(えら)ばれたことです。しかも、それが滅(ほろ)びではなく救(すく)いに選(えら)ばれているのです。この選(えら)びは自慢(じまん)になることや人々(ひとびと)と比較(ひかく)する為(ため)のものではありません。なぜならば、私(わたし)たち自身(じしん)にはその選(えら)びに根拠(こんきょ)になるものは全(まった)く何(なに)も持(も)っていないからです。それは、無条件(むじょうけん)で、一方的(いっぽうてき)にあわれんでくださる神(かみ)によるのです。ですから、私(わたし)たちはそれを考(かんが)えると高慢(こうまん)な姿(すがた)を捨(す)てることが可能(かのう)になるでしょう。そして、私(わたし)たちの祈(いの)りも変(か)えるでしょう。「なぜ、私(わたし)に救(すく)いが、なぜ、私(わたし)ですか」と。

お祈(いの)りします。

キリスト・イエスは、罪人(つみびと)を救(すく)うためにこの世(よ)に来られました。この御言葉(みことば)は今(きょ)日(う)も私(わたし)たちに対(たい)する神様(かみさま)の御心(みこころ)であると信(しん)じます。神様(かみさま)は自由(じゆう)ある主権(しゅけん)の中(なか)で、失(うしな)われた人々(ひとびと)の中(なか)で、無条件(むじょうけん)で特定(とくてい)のある人々(ひとびと)を救(すく)おうと選(えら)ばれます。無条件(むじょうけん)で特定(とくてい)のある人々(ひとびと)は滅(ほろ)びに選(えら)ばれます。それは、救(すく)いに選(えら)ばれた人々(ひとびと)の中(なか)に何(なに)か善(ぜん)なるものやその条件(じょうけん)に満(み)たされるものがあることを意味(いみ)する事(こと)ではありません。それは人(にん)間(げん)の知識(ちしき)では理解(りかい)出来(でき)ない神様(かみさま)の奥義(おうぎ)であります。しかし、聖書(せいしょ)には神様(かみさま)は唯一(ゆいいつ)な方(かた)で、すべての人(ひと)が救(すく)われて、真理(しんり)を知(し)るようになるのを望(のぞ)んでおられる方(かた)であると書(か)いています。また、自分(じぶん)には神様(かみさま)の選(えら)びの根拠(こんきょ)になるものは全(まった)く何(なに)も持(も)ってない者(もの)であり、地獄(じごく)に行(い)く裁(さば)きを受(う)けても当然(とうぜん)な報(むく)いを受(う)けた罪人(つみびと)であることを認(みと)め、御前(みまえ)に出(で)て憐(あわ)れみを願(ねが)う者(もの)はあわれんでくださり、見捨(みす)てることはないと聖書(せいしょ)に書(か)かれています。今日(きょう)もあわれんでくださるめぐみを期待(きたい)し、御前(みまえ)に行(い)きます。救(すく)い主(ぬし)である神様(かみさま)の憐(あわ)れみが私(わたし)たちの上(うえ)にありますように。全(すべ)ての事(こと)を感謝(かんしゃ)し、

イエス・キリストの御名(みな)によって祈(いの)ります。アーメン。

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