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2012年12月2日 礼拝 

 

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2012年12月2日 礼拝 「洗礼の意味」マタイ28:19〜20。

序文)幸いな洗礼式を行なう事ができました。感謝いたします。この機会に、洗礼の意味を学びましょう。

1 キリスト教の洗礼は、その制定の起源をキリストご自身に負っています。新約の礼典であります。洗礼は人間の考えで必要とか必要でないとか云々できることではなく、キリストがこれを定めたという事実を認めることから始まるのです(マタイ28:19〜20)。

2 洗礼は「父と子と聖霊のみ名において」授けます。マタイの福音書のみことばでは「名によって一直訳、の中に(into)」とあります。ここで大切なことは、その名の中へ、洗礼を授けるという関係です。ロマ6:3−6,Ⅰコリント12:13,ガラテヤ3:27−28,コロサイ2:11−12などでわかることはキリストとのいのちの結びつき、継ぎ木という思想です。

洗礼はキリストの死、葬り、復活に受洗者が結び付いていることをあらわすのです。それで信者はキリストにあってひとつ身体であり、キリストの死の有効性、復活の力、恩恵の交わりにおいて共に与かっているのです。この結合のしるし、証印が洗礼です。

3 さらに、洗礼は父と子と聖霊の中へ(into)の洗礼でもありますから、このことは三人格との結合という関係が意味されている。ヨハネ14:16〜17、23、17:21〜23。このことにより洗礼は三人格が共有する名との一致とともに、各人格との特定の間係との結び付きをも意味するのです。

4 水を用いる洗礼には、潔めの意味があります。汚れからの潔めと、罪のとがからの潔めが行なわれます。新約聖書において、洗礼が罪の汚れからの潔め、すなわち再生をあらわすものである、と明言している箇所はどこにもないようです。しかし、洗礼は水による洗いであり、それは水の宗教的用法を含んでおりまた再生は他の箇所で(ヨハネ3:5,Ⅰコリント6:11)洗いに間係ある用語で表わされています。洗礼に含まれる水の洗いは、キリストとの結合の前提と考えられ、これなしには神の国に入ることができない潔めを表わしている、と考えることができます。

5 罪の咎めからの潔めを表わすことについては、何も問題はなりません。使徒2:38、22:16、Ⅰぺテロ3:21。洗礼は罪のゆるし、キリストの血のそそぎによる罪の咎めからの潔めをあらわす。

6 洗礼の様式については、主のご命令のなかに、浸礼、滴礼、冠水礼などの指定はありません。キリストとの霊的な結合は表わされておればよいのです。

7 見える教会に加入させるためです。Ⅰコリント12:13。洗礼は信仰者とキリストの関係、信仰者と神との関係だけでなく、信仰者と信仰者の関係(聖徒の交わり)、信仰者と教会の関係を確立する。神の家庭である教会への加入を意味する。キリストに結び付くことは、キリストを主とするからだに結び付くことであり、それは教会(エペソ5:23〜30)に結び付くことである。洗礼は受洗したひとが教会員であることのしるし、証印である。

8 教会という用語は、時にそれは文法的に単数形で用いられているが、それは一つの場所の信者たちの特定の群れという意味ではなく、統一的、全体的に神の民を指す絵画的な意味においてです。(Ⅰコリント10:32、12:28、15:9、ガラテヤ1:13、エペソ1:22、3:10、21、5:23〜25、27、29、32、コロサイ1:18、24)。新約聖書の用法のこの最後の面は、我々に公同の、または普遍的な教会という概念を与える。

「教会」という語がこのような関係においていかに広範な、また包括的なものであるかが分かる。新約聖書の教会は、それがどのような群れとして考えられているにしても、それは常に目に見える実体であり、観察することの出来る実体である。キリストとの結合、その信仰はそれ自体目にみえない霊的な事実であるが、それにもかかわらず、観察しうるものに現われる実体である。

9 さらに関連があり重要なことは、教会の主としてのキリストの指定と規定とによってこの教会制度があるということである。そしてこれは、この世におけるキリストの制度としてのまさしくその性質により、目に見えかつ観察され得る実体なのである。神の民は、集団的な証言や礼拝の目的、神に制定された儀式の執行、相互の建徳、また神に制定された政治や戒規を実行、これらのことのために、共に集りかつ提携するのである。教会の構成理念そのものは、この世の歴史において実現された理念として必然的に見える結合と交わりとを包含しているのである。

「われこの岩の上にわが教会を建てん。黄泉の門はこれに勝たざるべし。」(文語、マタイ16:18)。教会はキリストにより設立され保存される。そして彼の制度にふさわしく管理されるべき実体としてのその存続は、彼がすべてのものの上にある主であるという事実によって、ご自身のからだなる教会に保証されているのである。

教会にあっては、人間の活動と責任とが働くものである。この活動が行使される方法の一つは、人間に委ねられた管理である。キリストの教会には政治と戒規とがあり、これらはキリストの命令にしたがって、人間によって執行される。

この点において、人間は誤りを犯すものであるということは、どのように関係ずけるのか。見える教会への入会、除籍などに関して誤りうる人間に委ねられた責任を行使するにあたって人間の判断基準は何か?

新約聖書の中に見出すことは、交わりを構成する絆はキリストを信じる共通の信仰であってこの交わりに加わることを許される条件は、この同じ共通の信仰であった。(使徒2:38:〜42、8:13、35〜38、10:34〜38、16:14〜15、31〜33)。しかしこの信仰はそれを証明する自動的な方法がなかったので、結果として聖徒の交わりに入るのにあたって、それはただ告白・言明によってのみ有効になることが出きたのである。

このことは、信仰は告白によって公言されたこと、および教会が会員を受け入れるにあたって、管理の責任を実施したその基準は、告白であったことを意味している。イエスはキリスト、神の子であり主であるという告白。この告白をする者を教会の交わりに入れることは、神の制定によるのである。

「洗礼は教会の会員であることのしるしであり証印である。したがって、それは、イエスにたいする無くてならぬ信仰の告白をなす者に施される。洗礼は、諸国民を弟子とする方法の、欠くことのできない部分であり、したがって弟子たることの本質的な一つのしるしである。洗礼はこれによって弟子たることが完成されるしるしである。洗礼を拒否し、それにともなうキリストの故に受けるそしりを避ける人は、キリストの身体として受け入れられることはできない。また洗礼を棄て、そのことによってキリストの権威と主であることを拒否していることを証明する組織は、キリストの枝とみなされることは出来ない。」

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