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2012年4月22日 ルカ11:1−4「主のいのりとは」シリーズ 1

2012年 4月 22日 ルカ 11:1−4

「主のいのりとは」シリーズ 1

序文)世界中の国々では、人が神に祈るということが、どこででもおこなわれています。ごく自然に自分よりも大きな存在に向かって手を合わせて何事かを念じているのです。主イエス様の弟子たちであるユダヤ人たちも、先祖伝来「いのる」ということによく経験を積んでいました。しかしそのような弟子たちが主イエス様の祈る姿を身近に見、祈る言葉を聞いて、どうも自分たちの祈りは、祈りといえるかどうかと反省をしたのです。主イエス様のいのりと比べて弱々しく貧しいと思ったのです。それで、あるときイエス様に祈ることを教えて下さいと願い出ました。

海浜幕張めぐみ教会ビジョン項目の一つに「祈りのよって神を信頼し、その答え喜びます。」とあるのです。私たちが見よう見まねで、今までの生涯で祈ってきたのと、主イエス様が教えて下さった祈りとはどこがどのように、違うのでしょうか。

子供が成長するに従って親子の会話、意志疎通の方法が、だんだんと上手になってくるように、神様と私たちの人格的な交わりのやりとりも、だんだん適格で、正しい意志疎通を図るように成らなければ、いつまでも赤ん坊のようだと親に心配をかけることになります

1 11;1-4 弟子たちは、主イエス様が祈っておられる姿と、ことばに触れて、自分たちもそのように祈れたらと願って、祈りを教えてくださいと申し出ました。わたしたちは、祈りの基本から主イエスさまに教えていただく必要があるのです。そうすると後になって成長する度合いが違ってくるのです。基本形のマスターです。

主イエスさまは、模範的な祈りの基本形を教えてくださったのです。

全体として、主の祈りから分かる事があります。祈りは、何よりもまず、正しい言葉と、思考と願いと動機で祈ることです。くどくどと言葉数が多ければ多いほどよいかのような錯覚は、間違っています。仏教のお経は悟りを書いた教えの書ですが、それに節を付けて唱えたとしても、その意味が分からなければ、唱えている人の役に立ちません。聖書がどのようにすばらしい神様のいのちの言葉が記されているからといって、節を付けて、しかも漢語で唱えてみても何の役にもたたないのです。くどくどと何万回も同じ言葉を唱えても、意味はないのです。ハレルヤアーメンと5万回となえても、それは祈りとはいえません。

むなしい言葉の反復、軽率なことばや、無頓着な祈り方、紋切り型のことば、機械的な祈り、強引にくどくど繰り返して、お題目的に祈ることがあります。主イエス様は、そのような祈りは止めなさいといわれました。神様の真実さ、誠実さを疑ってはいけないのです。

2 主のいのりは、祈りの内容に伴う順序正しい配列と、秩序の世界です。混乱を招くような無秩序の世界とは違います。

まず、 「天にいます私たちの父よ」と呼びかけます。

次ぎに、神様に関係のあるいのりが三つ続きます。

「御名があがめられますように。」「御国が来ますように。」「みこころが天でおこなわれるように地でも行われますように。」

それから、私たち自身のために三つ祈ります。

「私たちの日毎の糧をきょうもお与えください。」「私たちの負いめをお赦しください。私たちも負いめのある人たちを赦しました。」「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」

そして結びが続きます。結びは、もともと、教えにはなかったのです。新約聖書時代の初めの教会の信者が、主の祈りを祈っているうちに、この内容をよく考え、終わりのところで、神様の国と力と栄えをほめたたえざるを得なくなって、栄光を帰する言葉をあらわしました。それが初代教会の早い段階で取り入れられたのです。

 

主の祈りの中には、祈りのすべての要素が含まれています。崇拝、礼拝と服従、日毎の必要、健全な霊性に対する祈り、礼拝の最後の帰結等です。

主の祈りに用いられている「ことば」の大部分は、旧約聖書の中に見られます。霊感を受けた聖書のことばが、主イエス様の祈りの用語となっています。聖書にある表現を、新しく、組み合わせたり、配列したりして祈られているのです。新約聖書を与えられている現代の私たちは、旧約ばかりでなく当然新約のことばも用いることができます。そして祈りに置いて聖書に精通すればするほど、ごく自然に神様の霊感をうけたことばと思想で正しく祈るようにな流のです。聖書の表現を生活の中で血となし肉となしていることから、神様のみこころにそった祈りがささげられて行くのです。

信仰を与えられてからしばらくは、自分の言葉で祈りますが、信仰生活が続いて聖書に親しくふれるに従って正しい思想表現を身につけるようになります。

 

3 さて、祈りは、はじめに呼びかけることがあります。今回は其の呼びかけの大切さをまなびましょう。

「天にいます、私たちの父よ。」

① 祈りの始まりは、呼びかけです。どのような状況の中でも、呼びかけから始まります。そして呼びかけは旧約聖書、新約聖書、共に非常に簡単です。長々しい呼びかけは美辞麗句となり、それは生き生きとした信仰、生命のたらない事をカバーするような仕業となります。交わりの深さにより、呼びかけは単純となります。もし、自分の子供が、お父さんと言わずに、日本長老教会海浜幕張めぐみ教会 牧師廣橋嘉信さんと呼びかけたらどうでしょう。そんなことはありえないでしょう。同様に私たちは祈るときに、神様に呼びかけるとき、単純に心を込めて呼びかけます。

 

② 父よ、私たちの、天にいます

お父さんと呼びかけます。このことにより、祈る人が神様とどのような関係にあるかを自覚するのです。愛と信頼の交わりにあるお方として、神様をおとうさんと呼びます。どのような確信に立って、お父さんと呼ぶか。

ヨハネ1:12「主イエス・キリストにあって、私たちはみな神の子としていただいた。」

ガラテヤ3:26「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって神の子どもです。」

「お父さん」と呼びかけるとき、主イエス様によって罪を赦され、神の子としていただいた自分であることをはっきりと確信します。また、そのように呼びかける事を赦された神様の愛の深さを覚えます。第一ヨハネ3:1「私たちが神のこと呼ばれるために、どんなに大きな愛を父から賜ったことかを、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。」

神様はいつくしみや、憐れみにおいて、すべての人をはるかに超えておられるように、愛においても、私たちの親よりもはるかに超えておられるのです。

ローマ8:14-15 聖霊の働きにより、お父さんと神を呼ぶことができ、神の子であるという確信に立ちます。私たちは主イエス様にあって、神の子とされたのです。これを聖霊によって体得できるのです。私たちが確信を持って「わたしの父」「私たちの父」ということができることが、祈りの出発点です。

「私たちの」主イエス・キリスト様を信じた一同にとって、自分だけが神の子ではないのです。父はわたしだけの父ではない。私たちの父です。これは信徒一同が兄弟姉妹であることを示します。クリスチャンは皆、同じ神様のこどもたちです。たとえ、人種が違い、言葉も違い、顔の色が違っていても、みな、同じ天におられる神様の子どもです。この共通の、神の家族意識が信仰生活の根本に流れています。

 

③ 「天にいます」と主は付け加えられました。

それは私たちが持っている、「父」という考えがしばしば低く常に訂正を必要とするからです。パウロが「私たちの主イエス・キリストの父なる神」と呼びかけるのも、同じ点からです。「父」についてこの世では、愛の父という概念を持っていない人々が多くいます。自分の父親の姿と思い浮かべて、それがよい場合はいいのですが、否定的な思いであった場合は、父よと祈り始めるのに抵抗があるでしょう。神様は、単に父というだけでなく、「天におられる」父です。主イエス・キリストの父、という呼びかけは、主イエス・キリスト様のような方の父は、きっとすばらしい父にちがいない。それでパウロは「主イエス・キリストの父」と呼びかけるのです。では「天にいます」とはどのような「父」をそれはさしているのでしょうか。

⑴ 場所、空間をさすのではありません。これは神様の臨在のきよさをさしています。ソロモンは、神殿を奉献するときに、列王上8:27「神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天も、あなたをいれることはできません。ましてわたしが建てたこの宮はなおさらです。」といいました。「天にいます」というのは、この地上におられないが、天のどこかにおられる、というのではないのです。きよい神様ということを教えるのです。人間の父のように、罪や欠点にそまっていないのです。それ故に、尊敬と敬虔なおそれを以て祈るのです。

⑵ また「天にいます」ということにより、神様の威厳、偉大さ、全能性を示します。その支配を示します。私たちが祈るとき弱さを覚え、心に苦痛を覚えていても、「天にいます」と祈り出すときに、神様が威厳をもってすべてのものを治めておられる、すべてをご存じで、力に満ち、正しい理解と、愛とをもって、ことに臨んでくださる事を知るのです。

⑶ 天の愛を示します。父としての柔和を示します。第二コリント1:3「もろもろの憐れみの父、いっさいの慰めの神」ルカ15:11-32

神様は単に父でありともうためばかりでなく、すべての父たちをはるかに超えて、もっとも慈しみ深く、もっとも寛容で、もっとも愛に富まれるのです。キリスト者は、神様をこのような父であると信じているのです。

 

結び)エペソ 3:14-21

こういうわけで、私は膝をかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストがあなたがたの信仰によって,あなた方の心のうちに住んでいてくださいますように。 また、愛に根ざし、愛に基礎をおいているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知を越えたキリストの愛を知る事ができますように。

どうか私たちのうちに働く力によって,私たちの願うところ、思うところを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、また、キリストイエスにより栄光が代々にわたってとこしえまでありますように。」

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