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2012年5月13日イングリッシュバイリンガル礼拝 使徒信条の連続「我は・信ず」

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今月から 使徒信条の連続 説教開始

     「我は・信ず」

我は天地の造り主 全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によってやどり、処女マリヤより生まれ、

ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ

死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえリ、

かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、

身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。  アーメン

序文)イエス・キリストが弟子達に全世界に出ていって宣べ伝えるように命じられた福音の内容は、それを受けた使徒たちと初代教会によって簡潔にまとめられ、伝えられました。それは使徒信条と言われました。(SINBOLUM  APOSTOLICUM)これは歴史的キリスト教が信じている偉大で中枢的な教理を宣べ明かにしています。そしてキリスト教会の中で書き記されたものとしては最も古い信条であり、後代の諸信条の基礎となりました。

私たちはこの信条が神の言葉と一致しており、使徒たちの宣教によってもたらされ、初代教会が告白してきたものですから、これを尊重し、正しいものとして受け入れます。そして、これを本来の歴史的な解釈に立って受け入れます。

1 使徒信条の最初のことばは「我信ず」です。

この言葉から信条CREEDという言葉がでてきました。

新約聖書の記者は、ギリシャ語で「わたしは神の中に向かって信じる」と表現しました。それは、神についてなんらかの真理を知的に理解し信じるということ以上に、神を信頼し、神と結びつくことにより、神に自分をゆだねるという関係をもって生きていることなのです。それで「わたしは神を信じる」といいますとき、わたしは神がこのような関係にわたしを招いてくださったという確信を告白し、また、その招きを受け入れたことを宣言しているのです。

「信仰」ということばは、「・・・の中に向かって信じる」という表現に含まれる動詞からできた名詞なのです。このことばは「確信」ということばよりも、あるお方への生き生きとした信頼関係の概念をよりよく表しています。

神を信じて自らそれにゆだねるとは実際に何をすることなのかを決めるのは、神が提供し、要求するものできまります。わたしの神への信仰は、神がわたしの創造主として、救い主として、わたしを治め、わたしを扱われるというご要求を受け入れることによって、また御子イエス・キリストを自分自身の主、贖い主として受け入れることによって、そしてわたしを今からいつまでも祝福してくださるという約束に頼ることによって示されるのです。

 

2 人間の証言と神様の証言

わたしはどのようにして信頼するに至ったかということですが、それは証言を信じるということでした。人は証言をことごとく信じるかというとそうではありません。人は伝えられた証言を評価する。ある証言は信じますが、ある証言は信じません。その場合、その選択基準は何でしょうか。それは 証言をおこなった証人の誠実さ、さらに証言者の証言能力の如何であります。

証言には二種類あります。

人間の証言–日常生活の基調です。しばしば間違えます。なぜかというと、証言能力の点で、人間の知識はあらゆるものに不完全であり、その経験も不十分であるから。それゆえに、人間の証言は常に絶対的真実性をもつということでない。事実誤っている。誠実性の点で、人間はだらく後、聖と義において腐敗し、心は不誠実と虚偽にみち不確実なものとなり、人を欺きます。

神の証言–ローマ3:4「人はみないつわりとするとも、神は常に真実です。」第一ヨハネ5:9「わたしたちがもし人の証言を受け入れるのなら、神の証言はさらに大いなり。」聖書が示すように、神の証言は真実で誤ることがない。

なぜでしょうか。

人間の不完全さ。制限ある知識に対して、神は無限で全知である。人間の本質は不真実である、神は聖と義と善に真実で永遠に絶対的に正しい方です。

神よりの証言を信じないものは、神の聖、義、真実、知識を否むものです。

神の証言は、特別に啓示され、昔の聖徒たちは、アブラハムであれ、モーセであれ、預言者たちも、さらに使徒たちも、直接神様からお言葉をいただいて、自分と人々に伝え、適用し、書き留めるようにとの命令に従って書き留め、後の時代の人々に、それが読まれるようにとはかられたのでした。それは聖書が完結していらい、現代の私たちにとっても、間接的に書き記された証言をもとに信じるという事柄が起こっているのです。聖書が書き記された当時も、直接証言を神様から受けた方々が、そうでない方々に間接的に伝えたときに、それを聞いた人々は皆、絶対的な神様のことばとして、伝えられる証言を一字一句受け入れたのでした。

主イエス様のことばです。「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう」ヨハネ5:46-47.

 

3 疑い

とはいうものの、でも無批判な先入観や偏見は問題を引き起こしますから、聖書の神の啓示は真理であり権威があるというのは、ある疑いと困惑を生むことを知っています。これらの疑いは信仰とどう関わるのでしょうか。

疑いとは心が分かれている状態です。ヤコブは二心と表現しています。疑いは信仰の外にも、内にも見いだすことができます。外とは、信仰を持とうともがいている状態があります。ほかに、神が自分に向かってくることに直面したくないので神から逃げ出そうともがいている状態かのいずれかです。内にとは、信仰が病原菌に犯され、病を持ち、気分が悪くなっている状態です。

疑いを持つとき、私たち自分が完全に自分に正直になることは、この世では無理な話ですし、自分でも気づかないで、神のことばを受け入れたくない思いが、信仰の項目のあれこれについて疑いの土台に横たわっていることが多いのです。その原因は、ある種類の学問的なものへの敬意であったり、人から馬鹿にされることへの恐れであったり、自分自身が深く関わっているためであったり、その他いろいろな動機からです。よくあることですが当座はそういうことがよくわからなくても、後になって振り返るとはっきりわかることがあります。

疑う人をどうしたら助けることができるでしょうか。問題になっている範囲を説明することです。疑う理由で多いのは誤解していることですが、それは説明して解決できます。

次に、その問題点においてキリスト信仰は合理的であること、また受け入れることができる根拠を示すことです。第三に、何によって疑いが起こされたかを調べることです。単純に好き嫌いとか、感情が傷つけられたとか、が理由の場合が多いのです。また時には社会的、知的、文化的に思い上がっている場合もあります。

 

結び)使徒信条は礼拝の式順で皆と一緒に告白したりします。しかし、これのはじめが「我・・信ず」です。「我々は信ず」ではないのです。いわば礼拝に出席している一人一人が、自分のこととして告白するのです。個人的に!

人はそうすることで、自分の幸せがどこにあるかを証言しているのです。わたしは神様を信じますと、自分から賛美と感謝と告白を日々に新しくできる者は幸いです。

ローマ10:9-11「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

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