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2012年9月30日

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2012年9月30日 ルカ12:35-40 「思いがけない時に」

序文)主イエス様は弟子たちに対して「いのちは神による」と言う事を教えられました。人間が物にたいする態度は,神を第一として天に宝を積む生き方と、地上だけに宝を積んで、いのちを失う生き方に分かれる事も示されました。

今朝の35節からは,弟子たちの主イエス様への態度も二通りあることを示しつつ、ご自分の再臨(再び天から栄光をもっておいでになること)にそなえることの重要性を諭そうとしておられるのです。

主キリストが、私たちを救うために、十字架上の身代わりの死をもって行うために、地上にマリアを通して人となって生まれて下さった事を初臨といいます。そして、その救いのみわざが成し遂げられて人々に受け取られ,救われるべき人々の数が満ちる時、天に帰えられた主キリストが、再び地上においでくださり、この世界に関する救いのみわざを最終的完成へと進められます。このキリスト再臨の約束は、旧約聖書ではメシア預言の少なくとも半分を充てており、新約聖書では、319節即ち新約聖書の25分の1を充てていることで、どれほど重要であるかがわかります。

宗教改革者カルバンは「あざける者たちが、私たちに最後の復活を疑わせるとしたら、きわめて危険な欺きである。最後の復活がなければ福音はもはやなく、また、キリストのみわざは無にされ、すべての信仰は滅ぼされる。だから、悪魔は福音を殺すために福音の喉元へまっすぐにやって来て、キリスト再臨の信仰を奪い取るのである。というのは、キリストは、われわれを死より再び贖われたのち永遠のいのちの中へわれわれを拾いたもうことを除くと、なぜキリストは死し、また復活したもうたかという疑念がのこるからである。」(第二ペテロ3:4の注解)と書いています。

キリスト再臨の信仰は、福音の喉元である。全キリスト者の最大の希望です。「み国をきたらせたまえ」との日々の祈りが究極的に完成する日なのです。主イエス様が弟子たちに「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また、来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいるところに、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:3)と約束しておられるのです。

Ⅰ 35−36節 腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。

キリストが再び来られる日に備える事の大切さを教えておられます。備えは、日常生活における、しもべとしての主人に対する態度で決まるということが示されています。キリストは私たちの主です。このたとえでは「主人」をさします。わたしたちは「しもべ」です。主人は婚礼に出かけました。ユダヤの婚礼は、前日の夕方に始まりました。そして翌日はお祭りのように遊んだり、歌ったり、踊ったりがあって、夕方に食事がふるまわれました。結婚の儀式が荘厳に行われました。その日新夫妻は退出し、結婚式は完了します。しかし祝宴は7日間ときには14日間続きました。新夫妻は次の日から祝宴に出て、歌と踊りに参加します。招かれた客は、この間のどの時点で帰るかは決まっていませんでした。だから、送り出した側は、主人は何時帰ってきてもよいように、腰に帯を締め、あかりをともして準備していなければなりませんでした。主人が帰宅したらすぐに戸を開けようと、その帰りを待ち受けているのです。主イエス・キリスト様の再臨への準備は、まさに、その人たちのようでありなさい。と弟子たちは教えられました。

私たちの主人・イエス・キリスト様は天の父のものに帰って行かれました。しかし再び来ると約束されました。その時は,主イエスの栄光のあらわれる日です。しもべたちは、認められて受け入れられるのです。

 

Ⅱ 37節 目を覚ましているか?

目を覚ましてあかりをともして待つことの幸いは、ここでは「主人の方が帯を締め、そのしもべたちを食卓につかせ、そばについて給仕をしてくれます」と表現されています。主人にたいしては、しもべは仕える立場であるのに、ここでは逆のことが起こると語っておられます。これは再臨の日に続いて起こる事の祝福を示しており,真のしもべたち、真の弟子たちの日常への励ましとなっています。実は主イエス様は、この教えの後で、あるとき実際に、このことをしてみせたことがありました。ヨハネ13:4-5「イエスは  夕食の席から立ち上がって,上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って,腰にまとっておられた手ぬぐいで拭き始められた。」14節「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなた方も互いに足を洗い合うべきです。」この時は、弟子たちが互いに仕えあうようにと教えるために、ご自身で手本を示されました。主がしもべに仕えると言う事は、あり得ない事ではないのです。

再臨の日には、主イエスに贖われた者たちが、主人の食卓に共につかせていただく光栄に浴するのです。「わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし,彼もわたしと共に食事をする。勝利をえる者を、わたしと共にわたしの座につかせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同様である。」(ヨハネ黙示録3:20-21)

この光栄を覚えて,主人に対して義務感からではなく、主人の思いを知り,主人を愛する者、主人の好意を日頃から感謝している者として、しもべは仕えるのです。主人をどのようなお方として信じたかによって、また、日常にどのような方として主人に出会っているかによって、しもべの態度が決まってくるのです。それはへりくだって、このような罪深い者のために、いのちを投げ出してくださった主であり、救い、守り、支え、めぐみ、忍耐し、完成して下さる主であるのです。従って仕える者に、さらに愛とめぐみとあわれみと祝福を経験させてくださる主です。喜びと賛美と感謝をこめて仕えます。

くれぐれも、あの一タラントを預けられたしもべののようであってはなりません。主人をひどいかた、怖い方とおもっているなら、其れによってさばかれるのです。

 

Ⅲ 38-40節 喜びと賛美と感謝をもって仕えるしもべにとっては、主人がたとえ夜遅くなっても,何時帰るかわからなくても、その帰りを帯を締めて、あかりをともして待つくらいの犠牲は喜んで払います。何時帰るかわからに、思いがけない時に、不意に、と言われています。そのことは、39節で「泥棒の来る時間が分かっていたら、おめおめとは自分の家に押し入られはしなかったでしょう。」のたとえでも念を入れて教えています。主の再臨は、泥棒の来る時間のたとえで示すのは良く用いられています。「第一テサロニケ5:1-5」。これらのたとえは、主の再臨が、人々の油断している時、不意に、考えもしない時を強調しているのです。

目を覚ましている者にとって、光の子にとって、今か今かと主人の帰りを待っている者にとっては、思いがけない時とか、不意とかいうことはないのです。油断して居眠りをしている人々に取って、不意に,思いがけないと言う事があるのです。ルカは21章34-36節でこの点をさらに書き綴っています。

主人の帰ってくるのが遅れている。いや、帰ってくることなど無いのではと、たかをくくり、再臨の確実さを疑い、その油断によって、放蕩や深酒、この世の煩いのために沈み込んでいると、その日が罠のように突然に臨むのです。

どのように自分に気をつければよいのでしょうか。「いつも祈っていなさい。」と奨められています。イエス様がいつも祈っておられたのは、自分の心のままに日常を過ごしてしまわないためで、父のみこころのままに使命を果たそうとしておられたからです。みこころをなしとげることのために、身も心も整えられる道が,祈りにあったのです。祈り整えられている者にとって、再臨は不意に、おもがけない時にとはならず、今日でしょうか、それまでに、なにをしもべはしましょうか、と日々に歩からです。主の再臨の前兆は、祈りに内に見極められてゆき、希望を持って備えをしてゆくことができます。教会もまた、その日に備えて、御国のために今日果たすべき働きをつづけてゆくために、祈りつづけましょう。

共に祈る事を軽んじてはなりません。一人で目を覚ませないときでも、二人、三人、わが名によって集うところに主はご臨在くださるので、ついまどろもうとする私たちに声をかけてくださるのです。祈祷会や、セルグループの祈り、早天の祈り、いろいろの集会毎のいのり、主は、私たちを目覚めさせ、再臨の備えをさせて下さるのです。

結び)第二ペテロ 3:3-14

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