コメントはまだありません

2012年1月15日 ルカ 9:46-48「一番偉いのは誰?」

120115_001.mp3

2012年1月15日エペソ4:1-3 聖書朗読  ルカ 9:46-48

聖書の話し    「一番偉いのは誰?」

序)イエス様は終焉の地エルサレムに向かって、弟子たちとともに歩みを進められた。その途中で「人の子は、いまに人々の手に渡されます。」(44節)と逮捕されることを話されました。マルコ福音書では、ご自分が十字架にかけられ、死に葬られ、よみがえることも、弟子たちに教えられたとあります。弟子達はこの言葉が理解できなかったのです。其の証拠には、彼らの関心事は、誰が一番偉いかということで、この議論が持ち上がっていたのでした。主イエス様がやがて王国をたて上げられた時に、誰が右大臣、左大臣になるか、その次席はどうなるのか、という議論なのです。特に山の上で変貌したイエス様を目撃したペテロ、ヨハネ、ヤコブは、その特別な恵みの経験をさせていただいたので、御国でも他の弟子達よりは優位にあると考えたのでしょうか?他のお弟子たちはなんとしてもそれは認めたくなかったのかもしれません。なぜあの3人であって、わたしたちではないのだ、という風にですね。

名声を求めるこころ、地位を争うこころは、いつの時代にも人間の集まるところ、どこにでもつきまとうわけです。主イエス様の弟子たちでも、例外ではないのです。そしてイエス様は彼らのこのような気質を訓練して、その意志を正しく導くためにおしえられたのです。一番偉いのは誰か式の論議が、主イエス様の前に置かれるとき、本来のあるべき歩み方を教えます。あるべき姿を教えます。イエス様が自分たちの議論や、心の思いをご存じない、聞いておられない、見ておられないと、彼らが思っている限りでは、誰が一番偉いのかの論議は立派に見えました。ところがイエス様の前に、この主題が置かれた時に、それは価値のない、言う事も恥ずかしい事でしかなかったのです。

 

1 このような課題へのイエス様の処置

イエス様が十字架に向かってエルサレムを目指し、それを弟子たちに教えておられる道順で、驚くべきことに、弟子たちは誰が一番偉いかという議論をしていた。いかに彼らの祈りが失われ、謙遜が失われていたかが分かります。イエス様は彼らの心の思いを知っておられて,一人の子供の手を取って、自分のそばにたたせました。

ご自分のすぐそばに立てられたのはだれか?それはこどもだったのです。ペテロでもなく、ヨハネでもなくヤコブでもありません。一等席に立たせたのは子供だったのです。その上で「誰でも、このような子供を、わたしのゆえに受け入れる者は、私を受け入れるのです。私を受け入れる者は、私を遣わした方をうけいれるのです。あなたがたのすべての中で一番小さい者が一番えらいのです。」と話されました。

神様に近く歩むときに祈りと交わりをとおして聖められる道を歩めるように導かれる。それはどれほど平安であろうか。謙遜を失ったために、人々を支配しようとする思いがあったのが、それが変えられて、互いに仕える姿勢になる。もし人々がほかの人のために生き始めるとき、多くの地上の問題は解決してゆく。お互いが主イエス・キリスト様がかしらである教会とその構成員であるクリスチャンの兄弟姉妹たちに仕えあうことを始めるなら、多くの口論や分裂分派は起こることはないでしょう。

自分の勢力を広げようとか増やそうとかすることは影を潜めるでしょう。

2 イエス様がここで、「このような幼子を受け入れる者は」といわれました。「このような幼子」の特徴は、弱い存在です。無力です。取るに足りない存在です。年がら年中誰かに手をやかせているのです。時には手足まといになります。おまけに自分の立場しか主張しないのです。それも自分がしたいときにすぐにです。夜中だろうと、早朝だろうと、集会中でもおかまいなしです。

この幼子を受け入れ、イエス様ご自身が親切に取り扱われたように,同じようにする者が一番偉いと言われたのです。

イエスさまの選ばれた12弟子たちが、この幼子を受け入れるには、謙遜でなければ到底できません。親は、自分の子供なので放っておく事ができないために、渋々でも要求を聞いてあげるのです。しかし、他所の子供だったらどうでしょうか?どこ迄うけいれることができるでしょうか?

この世で軽んじられている者、手足まといの者、無力者と言われている人々を、主イエスの名前の故に受け入れることができるでしょうか?相手を見下す冷酷無情な態度をとらないでしょうか。この世で地位があり、名声があり、財産があるもの,有力な者らは、冷酷無情な心を抱くようになる可能性があります。其の心は時には幼子に代表される小さな者を困らせます。すると、怒りが込み上げてきて相手を侮辱するような考え、あるいわそのような考えがあると伺わせるような態度をとります。これらは人間が自分本位の野心を持っているときに生じてくるのです。

幼子をイエス様の故に受け入れる者は、一番偉い。イエス様が受け入れておられるこどもだからというので、受け入れる。イエス様が受け入れておられる罪深い人だからというので、受け入れる。世間の目がどうであってもイエスの名前がかぶらせてあるので、受け入れる。さらに、私たちのような、わからずやをイエス様が受け入れてくださった事を思うと、謙遜にされて、私たちはお互いに受け入れあう。

幼子を受け入れるのに謙遜でなければ到底できない。そして其のような謙遜な心を持つ人はイエス様を受け入れる。どのようなイエス様を受け入れるのかというと、十字架の上に死んでくださった方です。このイエス様を受け入れる者は、このお方を遣わされた天の父なる神様を受け入れるのです。

 

もともと人間は罪を犯す以前は神様の創造による存在でしたので、神様に対して謙遜な心をもっていたいのです。謙虚だったのです。黙示録に登場する24人の長老は、御座に着いておられる方の御前にひれ伏して,永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出します。「主よ。我らの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころのゆえに,万物は存在し、また創造されたのですから。」黙示録4:10.11. 神様のめぐみの前にひれ伏し金の冠をなげだします。それは神が彼らに与えられた権威と栄誉をさします。それらを投出て、神にのみ栄光を帰することが、被造物のなすべきことです。それこそ真の礼拝です。

実に神に対して被造物のこの全面的な従属関係が,はっきりと理解されるときに、被造物にとって謙遜であるという事は、第一義的な義務であります。被造物がこの謙遜を失ったとき、天使は堕落し、悪魔となり、悪霊となりました。アダムが堕落したのもそうでした。ですから、逆に謙遜にみ子を受け入れる者は、み父を受け入れるのです。

誰が一番偉いかの議論は、堕落の原因である謙遜の喪失に始まりがあるのです。人間としての本来の立場を見失い、イエス様が勝ち取って下さろうとした救いを見失っているのです。世俗的な言葉と思いに満ちた日々を送ってしまうのです。

イエス様が十字架の犠牲を払い、新しい御国の秩序、神のお心にかなう世界を実現しようとしておられるのに、神の民である教会の中で,そのような事に我関せずと、自分のためにだけ一番偉いのは誰と論議していることは、何とはずかしい、つまらないことでしょう。12弟子に取って、12使徒であるということは、その人の名誉であるというよりは、むしろ責任であるのです。主の側近の弟子としての責任にめざめるならば、もっと、主の教えられた事柄を正しく理解し、行動し仕えただろうにと思います。

教会における奉仕も、牧師はもちろんのこと、長老、執事、教会学校の教師、伝道委員、各種類の奉仕、働き人、リーダーたち、それぞれに名誉というよりもそれは責任ある職務に、主から召されたと考えて、仕えてまいりましょう。人々にもてはやされるために選ばれるのではありません。そのように考えるとき私たちは自分のおかれた位置、責任をどれほど主に喜ばれるようにはたしているだろうかと思い、謙遜ならざるをえません。主の教会のために仕えるとき謙遜を持って働きましょう。自分のメンツや、威信、などは心を占めなくなります。

 

お互いに天国で一番偉くなるためには、一番謙遜になるようにと競うあう事が実際どれほど豊かな実りをむすぶことでしょうか。はかりしれません。

クリスチャンにとって謙遜は、はっきりした弟子のしるしなのです。高慢の高嶺にめぐみの雨が降り注ぐことがあっても、それはすぐに流れ下ってしまいます。しかし謙遜の谷には恵みの雨は、ある余るほどに流れ下ってたまります。草木を潤します。他の人々を潤して十分な祝福がとどまるのです。

結び)ピリピ2:1-11

コメントを投稿

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church