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2012年5月20日主の祈りシリーズ5マタイの福音書6章9-13節「日ごとの糧を」

2012年5月20日 主の祈り シリーズ 5

マタイの福音書 6章9-13節 「日ごとの糧を」
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序文)主の祈りの前半部分を終わりました。天の父よ、と祈り、御名があがめられますように,御国がきますように、みこころの天に行われるように地にもおこなわれますように、と先ず神の国と義を第一として祈るとき、私は、この神の恵みによって生かされていることを感謝のうちに確認します。

ローマ14:7-8「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」主のものです。といった日々において、何を自分たちのために求めますか。

主イエス・キリスト様が教えられた三つのことがあります。

第一は パンのことです。体のことです。この世で体のいのちが保てるようにしていただくことです。第二は、肉体的いのちは、私たちの生きることの一面にすぎないことを知らされて、神様との交わり、他の人との交わりの中にいきることのもう一面があります。その時、罪のゆるしや、罪責からの解放を必要としていることがわかります。第三は、罪やその力から守られることの必要を覚えます。それらのことにより、神との交わり、かみにあるいのちが豊かになります。

これら三つの祈りにより、神のために生き、神のために死ぬという日々は、要するに神に自分のいのちを全面的に依存しているということを認めることになります。

Ⅰ では、最初の「日ごとの糧をきょうもおあたえください」を学びましょう。神様のみこころが地上で私たちを通して行われるために、クリスチャンは、まず地上で生存できるだけのパンを求めます。その日、その日に必要なものを求めます。

パンに代表される、生存に必要なものをすべて求めます。箴言30:8-9「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

私たちの主はパンのことを軽視したりはしません。無視したりはしません。物質を悪として精神を善としているのではありません。ここではっきりと人間が神にあって生きることを知った

ならば、その必要の第一はパンのために祈りなさいと、勧めされました。多くの人は時にはクリスチャンでさえも、神様にあっての最初の三つの求めを抜きにして、何よりも先ずパンだといって生きています。「パン代をかせがなければならないから、教会に行っている暇はありません。」というのです。暇人が教会に来るとおもっているのと、先ず、神の国とその義を求めなさい。そうすれば必要なものはすべて添えて与えられます。との主の約束を嘘だと思っているのです。

ですから、主は40日間断食した後に、飢えを感じておられたとき、この石をパンに変えなさいと誘惑してきた悪魔に「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と答えました。生活問題や経済問題を解決してから、神様のお話をでも聞きましょう。といった姿勢をとらせようとの誘惑なのです。イエス様は、これに対して断固退けました。

神のこと、たましいのこと、心のこと。霊のことを、第一にする。神を第一とするのをやめると、人間は自分を失ってパンの奴隷になる。イエス様・神様を第一とする生活を送るとき、そのゆえに自分のことを求めるときは、先ず第一にパンを求めなさい。神様のみこころを行うために自分が生きる必要がある。

 

Ⅱ きょうもお与えください。

「きょうも」と祈るときに

1 まさに「今日」の必要を求める。主が言われました。「一日の苦労は一日で十分です。」明日も,あさっても、一年のちも、10年後も,老後もといったのではなくて、「今日」の必要です。遠い世界のきよらかな事柄を祈ると思っていたら違います。それは祈りの世界がつまらないものになって、つづかないのです。今日の必要です。ごたごたしてことがらもすべて。身に付く祈りが必要です。ごく個人的な事柄を祈ります。御名で一緒に祈るときも、個人的だからといったり、このようなつまらないことをねがったりとか、考えて気が引けるとかおもうのは間違いです。もっと立派なことならいいのにと考えるものまちがいです。立派な事柄だけを祈るのは難しくてすぐにやめてしまいます。

そうではなくて「きょう」のために具体的にもっともっといのることが大切です。私の祈りが聞かれないとおもっている多くは、あまりにも立派なこと,高遠なことを祈りすぎるからではないかと思います。さらにはその祈りを神様が聞いてくださると本院がこまることになるので聞かれない場合があるのではないでしょうか。神様は恵み深く祈りを聞いてくださるお方かを発見されることを勧めます。あれこれこまかなことを、明日でなく、きょういのりましょう。

2 「きょうも」というのは信頼を顕しています。神様を信頼していなければこのように祈れません。昨日もくださいました主よ、「きょうも」と信頼する。また、明日ではなく、今日ください。信頼のない人のいのりは「そのうちでよい」「いつでもいいから」といった祈りになって、いかにも神様にもご都合がおありでしょうからといった風でありますが、本当は「与えられない」時に困るから、逃げ道を供えた祈りとなっているのです。いわば「疑いつつの祈り」です。

子供はよく「今すぐして」とか「今日してちょうだい」「あしたはいや」というのは、親に信頼しているからいえる言葉です。わがままというけれども、親はきっと聞いてくれると思っているのです。

またこの祈りは、「天の父が、きょう、私たちを養ってくださるならば、明日もゆるがせにはしない」という信頼もこもっています。

3 マタイ6:8には「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」としるされています。

天の父がお願いする前に必要なものを知っておられるなら、なぜ「きょうもおあたえください。」と祈るのでしょうか。

このことは私たちに祈りとは何であるかを悟らせます。私たちがきょうもお与えくださいと祈るのは、神様がご存じないからではなく、むしろ、祈りは父と子の関係として考えられるのです。祈りの価値は私たちをたえず父との交わりの中に保ってくれる所にあります。

もし、神様が私たちの必要を「日ごとに」「きょうも」与えられるのではなく、まとめて全部一時に大量にくださったら、きっと私たちはすばらしい賜物に夢中になってしまって、神様のことをすっかり忘れてしまう危険があるからです。

私たちは、自が全面的に神様に依存していることを自覚しなければなりません。日ごとのパンでさえもそうです。神様のお心ひとつで、私たちは日ごとのパンを食べられなくなる。そうなさろうと思えば太陽の恵みを差し止めることができます。雨を降らさないでおくこともできるでしょう。預言者のエリヤの祈りに応えて3年6ヶ月雨がユダヤの地に降らなかったのです。農夫がどのように近代的な機械を用い、科学肥料を注ぎ込んでも一本の作物もできないようにすることができます。

万物を作られた神様は、万物を支配しておられます。すべてが神様のみ手の中にあるのです。現代の人間が神の作られた自然法則をしって知識を得て利用することが亜できるとして、それで神様から独立して、神なしで無関係に生活できると主張しているところがおろかです。

実に私たちのいのちは、神様なしには生きられない存在なのです。摂理的な神様の支えがなければ一日も持たないのです。それで「きょうも」お与えくださいと祈るのです。全面的に神のみ手の中にある自分を自覚するのです。

Ⅲ 最後に「わたしたちに」

自分だけに与えてください。ではなく祈りは「わたしたちに」です。自分だけ満足して、ほかの人は見殺しにできるようなパンや富それは個人的な欲望の富です。「わたしたちに」ということで、神の子たち全員にとってなくてならないもの、兄弟姉妹みんなに与えられねばならないものという意識がここに示されています。神様のみこころを行うために神の国のために、み名があがめられるために、日常のこまごました必要を求めるとき教会的な視野が示されています。神と強化の働きのために捧げられる必要を求める祈りです。神の国の家族として毎日御名心を合わせて祈りもとめます。分かち合います。それは進行にある人々だけでなく、世界中の必要のためにも、祈られ支援します。

この主の祈りにおいて私たちの必要も祈られており、それぞれが賜物をもちいてささげる。財産を用いる。主のみこころの実現のためにです。

 

結び)さて、この祈りをする者は、いただく恵みを集める必要があります。昔、イスラエルがエジプトから脱出して荒野をモーセに率いられて約束の地を目指していたときに、神様は、毎朝、民のためにマナを与えられました。それは毎朝、一日分を外に出て集めるという必要がありました。神様はさまざまな種を与えて、太陽と雨と整え、成長させられます。けれども人間はその種を植えて、雑草を取り除き、養い育て、刈り入れをしなければなりません。日ごとの糧をお与えください、と祈るとき、人は働かなければなりません。勤勉に努力します。不正な方法で食べ物を求めてはいけません。

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