2012年10月28日 ルカ12:54-59 「今は恵みの時」
序文) 人は常に未来を予測しながら生活しています。その点では、さまざまな、賢さを発揮しています。経験の積み重ねにより、また、測定可能なものは、測定の積み重ねにより、将来を推し量ります。自然科学の分野、社会科学の分野、さまざまな分野で予測は重要な役割を担っています。商売をしている者に取っては、経済動向の予測は基本的なことがらです。見抜く賢さと、次にためにどのような手を打っておくかの知恵が必要です。私たちの家庭でも,子どもが5年後、10年後、20年後どのように成長して行くかを考えに入れて、今の生活を進めます。すべての予測は,結局,今の時代をどのように見るかによって、その結論を左右されるのです。そのための分別や知恵において、人間は歴史的な過去の記録や,経験から賢くふるまっています。
Ⅰ 12:54 ここにイエス様の時代の天気予報の例が載せられています。
ユダヤ人たちの天気予報はあたります。「西に雲が起こるのを見るとすぐに、にわか雨が来るぞ。と言い事実そのとおりになります。また南風が吹き出すと,暑い日になるぞ、と言い、事実そのとおりになります。西とは地中海上で、その時は確実に雨となります。南の荒野、砂漠地帯から熱風が吹くと暑くなるのです。
ところが,イエス様は、人間のそのような地や空の現象を見分ける,予測する賢さにもかかわらず、今のこの時代を見分ける事ができない。という愚かさを指摘しています。このような無知,盲目は実は、信仰の分野においておこっているのです。イエス様が天からのしるしとして、彼らの時代に地上に来られ,神の子として救い主としてかずかずの働きを示し証拠だて、教えを与えておられるのに、それらのしるしとして異教的,呪術的、偽メシア運動との違いを見分ける事ができない、伝承や迷信に染まっている現代人が多く居る。
片方で、合理主義、進歩主義を自認し、科学万能を未だに信奉している現代人がいます。いずれも、信仰の分野において、神の遣わされた救い主イエス・キリスト様については,全く無知で盲目であります。神が今の時至ってイエスを世に遣わされたのは、すべて彼を信じる者が、滅びないで永遠のいのちを得るためでした。イエスを信じる者はさばかれず、信じない者は裁かれるのです。群衆たちは、イエス時代のしるしを、良く見聞きすることにより、審判の時をわきまえて、救い主イエスを信じるべきでした。彼らはこの点について、自ら進んで,何が正しいかを判断しなかったのです。
この世の知恵については、自信と誇りに満ちた現代人も、当時の人々と同じで、自分の未来のいのち、永遠のいのちという重大な課題に関しては,何の予測もできないばかりか、賢い人間が、霊のいのちのことでは、全く無頓着で何の備えもしないで生涯を過ごしているのです。それでいいのでしょうか?
Ⅱ 57-59節
イエス様はここで時代の性格を知らせようとして、一つのたとえを話されました。今の時代は,告訴する者と告訴される者が裁判所に出頭して最後の判決を受ける「途中」である。この途中に和解をするのでないと、判決が出たら,最後の1レプタを支払うまでは、獄にいれられたままとなる。人と人との争いにお知恵、何が正しいかを判断しなかったら、そのとおりになる。
ところで神様と人の関係においては、最後の1レプタは,何をさしているのでしょうか。神の前の己の罪のつぐないはどうなるのか。人間は、神様の裁きの前に自分を償う事はできない。
[詩篇50:16-22] 神にさばきの座の前で対面する時どのような人間も全く不利です。悪い条件だらけです。だから、霊の目を開いて、賢く考えときのあるうちに神と和解しなければならない。今の時代は,最後の審判が出るまえ「途中」である。
別の面から,今が、判決に至ると悠であることを調べてみしょう。
マタイ24章。ここには、最後の神の裁きに先立つ時代のしるし。前兆が教えられています。おしえた方は裁き主となられる主イエスご自身です。
偽キリスト、偽預言者、まどわしが世に満ちるのです。背教がおこります。宗教問題の無政府状態、あらゆる領域に背教が起こるのです。政治、教育、道徳、文学、絵画、音楽、芸術、そこに全くの混乱がみちてくるのです。戦争、飢饉、疫病、地震、迫害、福音の世界伝播、天の現象の異常、富が一部分に集中するが裁かれる(ヤコブ5:1-3)。独裁者の出現(ヨハネ黙示録17:12)。平和、安全保障という(第一テサロニケ5:1-3)。知識の増加(ダニエル12:4)。このようなしるしは、終わりの日の近い事を表しています。
Ⅲ 一方で今の時代は第二コリント6:2 今は恵みの時,今は救いの日です。
この時代は途中であって和解のチャンスが残されているのです。和解の道を神はイエスによって用意してくださったのでした。
第二コリント5:17-21
和解の内容
「和解」の意味は、敵対関係にあったものたちが仲直りすることです。パウロが取り上げている和解は「神」と「人間」の関係です。
私たちは、神さまにたいして「不敬虔な者」でした。神様を無視して生きる者のことです。また「罪人」でした。的はずれの生活をしている人間です。「敵」でした。神に敵対する者、あるいは神に憎まれて生きる者です。
「神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあった。」(コロサイ1:21)これでは聖であり義であり創造者であり、唯一のまことの生きておられる神様が怒らない方が不思議です。どうでしょうか。私たちは生まれながらに、たしかにこのような生き方をしてきました。
わたしたちはこのままでは神の怒りをもろにかぶって裁かれ、永遠に滅ぶしかない。なんとかしなければならないのです。その責任は人間にあるのです。人間が一方的に背いたのです。人間の側からおわびして神に和解を求めなければならないのです。
しかしどうやってわびたら神様の怒りをやわらげることができるのでしょうか。神の義を満足させることが出来るのでしょうか。果たして、神に敵対して生きてきた人間が、罪の償いができるのでしょうか。また神の刑罰を受けないでほっかむりしたままで生き延びることが出来るのでしょうか。自分の罪と悲惨をしって、神の怒りの下でのほほんと生きて行けるでしょうか。
神におわびして和解を申し出なければならない。刑罰をうけなければならない。神の怒りをなだめなければならない。償いをしなければならない。しかし人間には不可能です。
罪を償い得ないわたしたちの身代わりとして、刑罰を受け、償いをし、神の怒りをなだめ、義を満足させ、罪の赦しと神との和解を得させてくださったのが、主イエス・キリストの十字架です。「神はキリストによって、私たちをご自分と和解させ」てくださった18節。歴史におけるあの十字架の死は、間違いなくこの意味での出来事でした。「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせない19節」。
本来私たちが罪を問われ、その責任を求められているのに、神は私たちにでなく、キリストにそれを求められた。21節「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」キリストは私たちの代表者・代理人として、私たちのために、神の怒りのなだめのそなえものとなったのです。私たちが神と和解したのでなく、神が私たちと和解してくださったのです。それもキリストが「罪を知らない方」であったから罪の身代わりになり得たのです。
罪におぼれ滅びて行く人を救うのに、自分までおぼれてしまっては救うことは出来ない。主イエス・キリストさまは罪なきかたでした。罪を知らなかった方でした。身代わりになることが出来た唯一の方でした。この方にあって、私たちは「神の義となる」のです。キリストなしに義と認められることはありません。
結び)神の和解を受け入れなさい。