2012年12月30日 ルカ13:18-20 「神の国の成長?」
序)主イエス・キリスト様は、神の国について、ここで二つのたとえをはなされました。からし種のたとえと、パン種のたとえです。神の国の成長力と、パン種としての福音がもたらす神の国の民の変化について説明されました。順次、学びましょう。
Ⅰ 18-19節 からし種のたとえ
1 からし種は、イエス様の時代「くろがらし」の種をさしていました。あぶらな科の一種です。栽培用と野草にわかれていました。成長はとても早くすぐに2-3メートルになりました。大きいのは4メートルぐらいで、良く小鳥が群がり、黒い小さな実を好んでついばんでいると言われています。庭に蒔くものなら、手入れも良くするので成長する条件が良い。はじめは、どこにあるか分からないほどの小さな種が、自分の成長力によって意外な程大きさとなって感化を及ぼす、空の鳥が来て枝に巣を作り宿るようになる。
2 旧約聖書では、空の鳥が来て宿る木というたとえで、大帝国を示していました。その支配にある国々を木の枝に宿る鳥のように描いています。ダニエル書4:19-22.「ベルテシャツァルは答えて言った。「わが主よ。どうか、この夢があなたを憎む者たちに当てはまり、その解き明かしがあなたの敵に当てはまりますように。 あなたがご覧になった木、すなわち、生長して強くなり、その高さは天に届いて、地のどこからも見え、その葉は美しく、実も豊かで、それにはすべてのものの食糧があり、その下に野の獣が住み、その枝に空の鳥が宿った木、 王さま、その木はあなたです。あなたは大きくなって強くなり、あなたの偉大さは増し加わって天に達し、あなたの主権は地の果てにまで及んでいます。」
バビロンのネブカデネザル王の夢を解き明かしたダニエルの説明にあるとおりです。
3 ですから神の国のたとえとして、このことを考える時、神のご支配の完成した姿は、世界の諸国が、そこに望みをかけ、その中に入ってくる世界的広がりを見せるということです。神の国ははじめ個人から始まり、最後は全世界に及んでいく。世界中のすべての国民がそこに含まれるのです。
当然、神の国は多様な民によって成立している。信仰の表現も、経験も礼拝様式もさまざまな物を持つ、多様な人々によって実現されてゆきます。神のなさることが完成した時には、主イエス・キリスト様のもとに一つとなるのです。
人間が作り出すものは、さまざまな障害をもうけて国家間、人種間に差別をし、その割れ目を深めてゆこうとします。しかし神がへりくだってくださって、ご自分の側から罪人に和解の手をさしのべ、御子イエス様によって和解させてくださったので、成立した神の国、その現れである神の支配に服する教会は、人間の生み出す障害を排除するために戦い、キリストにある多様性を認めて、しかも一つとなって行かなければならないのです。
神の国は、あなたがたの中に既に来ていると主イエス・キリスト様がおっしゃったとき、確かに神の支配徒力は、私たちの中に今、働いていることをさしておられるのです。12人の弟子から始まった福音宣教は、現在世界中に広がっているのです。ヨハネの黙示録7章9節「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。」
Ⅱ 30-31節 パン種のたとえ
1 これも福音は次第に広まり、実を結ぶが静かで気づかれないということである。そして、みことばによって益を受けるのは、それを受け入れる心を持ったものである。パン種は、すりつぶされていない麦の中では始動し始めない。同様に、福音も、罪のためには砕かれていない魂、失意を味わっていない魂の中では働かない。律法が心を砕き、それから福音がパン種として働く。3サトンの粉は、39リットル、かなりの量である。「わずかのパン種がこねた粉の全体を発酵させる」(ガラテヤ5:6)からである。(良いパン種も悪いパン種も)
粉はパン種が入る前にこねなくてはならない。我々の心も同様で、みことばから影響を受け取るためにすりつぶされた麦と同様に、心は砕かれて、湿っていなければならず、苦痛とともに受けるのである。乾いた小麦粉のなかに、イースト菌を入れても何も起こらない。
パン種は、心に蓄えられねばならない。(詩篇119:11)「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」それは隠しておくためではなく、みことばはそれ自身を表すものであるが、私たちの安全のためにたくわえるのである。私たちは、みことばを基礎としなければならない。ちょうど、マリヤがキリストの言われたことをみな心に留めていたようにである。(ルカ2:51)女が粉にパン種を入れるのは、それによってパンを作るためであるが、我々もまた自らの魂にみことばの宝を積み、ヨハネ17:17にあるように、それによって聖別、聖化され、ついに栄化されるためである。「真理によって彼らを聖めわかってください。あなたのみことばは真理です。」私たちを成長させ、聖化させるのは、真理によって、即ち、福音の真理を知ることによってである。
2 このようにパン生地に入ったパン種は、そこで働き、発酵する。
「みことばは生きていて、力がある」(ヘブル4:12)ように、パン種は速やかに働く。しかし、みことばも同じように、働くが、ゆっくりとである。
(マルコ4:26-27)「また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。」みことばは(福音は)、静かに、しかし強くて抵抗できないように働く。植物の成長と同じで、その働きがなされても、音を立てることはない。それが、「霊のやり方で」あり、しくじることなく行われる。パン生地にパン種をわずかでも入れるなら、その働きは、誰にも見えないし、音を立てることもないが、双方が交換しあって、徐々に「全体がふくらんで来ます。」 (33節)
この世においても、このようであった。使徒たちが、説教すると、大多数の人間に一握りのパン種が入った。やがて不思議な効果が生じた。世界は発酵状態になり、ある意味で「世界中を騒がせた。」(使徒行伝17:6)しかし、それは徐々に味や風味が素晴らしいものへと変っていった。福音のかおりが「いたる所で放たれて」いた。(2コリント2:14)「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」みことばは、このように効果があるわけだが、それは外からの力、抵抗可能な力、征服可能な力に押されてのことではない。万軍の主のみ霊が働く所では、誰も逃れることが出来ない。
心においても、このようである。福音が魂の中に入ると、変化が起こる。といっても、実体そのものが別のものになるのではない。パン生地は同じでも、質が変わるのである。これまでの私たちとは別のかおりを放ち、別の風味となる。また他のものごとも、私たちにとって、以前とは別のかおりを放つものへと変るのである。(ローマ8:5)「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」
即ち、全体的な変化が起こってくる。福音は魂のすべての力や機能に溶け込み、からだの手足の特性まで改造する。(ローマ6:13)「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」
この変化は、パン生地にパン種が入ったのと同様、魂がみことばの本性に与ることから起こる変化である。(2ペテロ1:3-4)「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」
私たちは、鋳型に投げ込まれたようにその中に入れられ、ろうそくの上で印を押したように同じ形に姿を変えられる。(2コリント3:18)「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(ローマ6:17)「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」
福音は、神のかおり、キリストの香りを放つ。そして、自由なるめぐみと来るべき世の香りを放つのであるが、これらのことは、わたしたちの魂から放たれるのである。それは、信仰のことばと悔い改めと聖なる性質と愛の言葉であるが、これらは福音によって魂に植え付けられるのである。このような香りが伝わるのは気づかれないほどだが、それは 「われわれのいのちは隠されてある」からである。(コロサイ3:3)しかし、決して分離されない。み恵みは、それを持っているものから「決して取り上げてはいけない」「マリヤは良い方を選んだ」からである。(ルカ10:42)
パン生地がふくらむと、それをオーヴンで焼く。パンが出来上がるには、試練や苦悩によって、焼かれねばならない。このようにして、聖徒達は主なるキリストの聖晩餐式のテーブルのパンになるにふさわしいものへと変えられる。
結び)2012年もおわります。この一年 神の国は、私たちの間でどれほどの成長をしたでしょうか。蒔かれたイエス・キリストの福音は、どのように芽を出して、枝を伸ばしたでしょう。
また、福音の力と恵みにより,私たちの本質は、どのように古い生まれつきの自分に死に、神の子の新しい自分に変質したでしょうか。聖霊様の助けは、迎える新年度もさらに溢れるように必要であると期待して、祈りをもって今年をとじましょう。