マタイの福音書 6章9-13節 「負いめをゆるし」
聖晩餐式礼拝
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「私たちの負いめをお赦しください。私たちに負いめのある人たちをゆるしました。」
主イエス様を信じて、父よ、と祈り始めた者が、パンのこと、日常必要ないっさいがつさいを祈ることを先週学びました。そのように祈っていますか。次に、祈ることはこの体の必要は私たちが生きるための一面でしかないことを、主は教え、他者との交わり、神との交わりの中に生きるという、もう一面があることを知らされます。生き生きとした交わりの生活が成り立つために、自分の心の中にある罪のとがめや、負いめからの解放が現実に必要なのです。
1 主は、そのために私たちの負いめを、お赦しくださいと祈るようにと教えられました。負いめと、翻訳されている言葉は、負債、借財とも訳すことができます。当然払うべきものを払わなかったこと、すなわち義務を果たさなかったこと、に当てはめる言葉です。それは新約聖書で、罪を表現する五つの言葉の一つなのです。ちなみに他の四つは「的をはずす」「踏み越える」「すべってふみはずす」「不法」です。
わたしたちは、みこころが地上でもおこなわれますように。そのためにパンをくださいと祈って、パンを与えられたのです。ところが、では、そのパンで、神様の目的に自分を用いているかというと、どうもうまくいかない場合が多いのです。やっぱり自分の心のままに用いて、自分の名があがめられるために用いてしまいがちです。いうならば神様のために生かしていただいているのですが、どういうわけかしらずしらずのうちに、神様の栄光を表す以外の目的に、向けて生きているのです。ある者は意識的にそのように生きています。当然ささげるはずの感謝を神様に捧げていないのです。賛美もささげていないのです。
いやそのようなことはない。ちゃんとささげている、といいますが、それでも何とはなしに負い目を感じているのです。事実、神様の恵みの豊かさに対して、私たちは損害と負債だけを与えているのではないかと思わせられます。受けている恵みほどに十分に、あふれるように感謝と賛美と栄光を神様に帰しているでしょうか。それで、そのような神様との関係の悪化を改善していただくために、赦される以外に道はないのです。この負いめは、自分の力では払いきれないし、償うことができないのです。そこで主イエス様に祈ります。おゆるしくださいと。ですから主の祈りを祈る者は、自分が神様に対して日ごとに罪を犯している負いめがあるということを明白に率直にみとめて赦しを願っているのです。
はたして、あなたはそのように、このことを胸にしみじみと感じて祈っておられるでしょうか。私たちが、真心から、神様の憐れみを覚えて、自分は主の道に万全でなく、まだまだ欠け目が多く、主に負いめをもつものだとくだかれて、天の父に近づくなら、神はそのくだかれたものの魂に近くおられます。赦しを宣言してくださっているのです。
私たちの、神様への負債が、イエス・キリスト様の十字架の死によって支払われたのです。それ以外に償う方法がなかったのです。それほどの犠牲代価を払うほどに大きいということを知っています。
神様が私たちを赦すためになされた御子による十字架の犠牲を、一人静かに思い巡らしましょう。「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。・・・彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」イザヤ53:5-6、12。
ローマ3:23-24「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
2 今朝の祈りは、自分の何かの努力や、良きこと、あるいわ他人の功績によりすがって、神様を満足させようとするような考えでするのでは決してありません。ですからこの祈りは、私たちが負債のある者を赦しましたから、それを条件として、私たちを赦してくださいと祈っているのでは決してありません。
主はここで、神様の赦しの根拠を論じておられるのはありません。赦しの根拠はただただキリスト・イエスの十字架上に身代わりの死によってだけです。
ここでは、赦しを求める者の態度が問われているのです。人と人との間の負いめを赦すのには、大変な憐れみと必要としています。そのように一方的なあわれみをもって、私を赦してくださいと祈ります。クリスチャンは、この祈りの前提として、神様の一方的な赦し、憐れみを受けたのです。それで、もし私たちがあくまでも自分の側の権利を主張して、他の人の義務を強要するのならば、それは負債を一方的に神様から赦されたことを理解していないのではないか。
また他の人は赦したりしない。古い負いめを帳消しにはしない。悪意、憤り、憎しみという心の奥底につもっているものが、他人との関係をくもらせ、依然として償いを要求しておりながら、一方でどのようにして良心を持って自分を赦してほしいと神様に祈れるでしょうか。非常に偽善的な態度しか取りえない。神様はこのようなごまかしはすぐに見抜かれるのです。
マタイ18:23-35 一万タラントの負債。新約聖書時代は一タラントは約36万円、一万なら、36億円です。100デナリ・・一デナリは57円60銭・5760円正確な換算とはいえませんが、比喩として見てください。36億円の借財を、主人の憐れみでゆるしてもらった者が、5760円の負債を負っている者を赦せないというのです。そのような法外なことがあるでしょう。主人はいいます。「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」
私たちが兄弟の罪を心から赦さないなら、天の父も私たちの罪を赦さないということ、また私たちが神様に犯した罪は一万タラントよりも遥かに大きな額であること、しかし人が私に向かって犯す罪は100デナリ程度の小ささだと言うことです。
罪を悔い改めて、主イエス様を信じるなら、罪の許しを受けます。ではなぜ、イエス様は他人の罪をゆるすなら、私の赦しを受けると言われたのでしょうか。
自分の罪を悟り、まことに神様の前で自分の罪を悔い改めるなら、自分自身は救われることのできない罪人であることを悟り、主に全面的に信頼することで赦されたことを知った者は、自分にたいして罪を犯した人を赦してあげたいとの心が自然にわいてくる。そうではなくて、兄弟の罪を赦すこころがないような人だとすれば、それこそ自分の罪が神様の前にどれほど大きいかを悟らないで悔い改めることもできない人です。ですから、そのような人は当然に神様から赦されることはないのです。
私が他人を赦すことができ、また自ら進んで赦そうとする度合いは、私が自分にたいする父なる神様の赦しを個人的に経験した度合いの明確な現れです。また、自ら進んで他の人を赦そうとしない人は誰でも、神の愛に満ちた赦しを確実には知っていないということです。
結び)最後に 赦しに伴う祝福
たましいにおける平安。他の人をゆるした人。自分の負いめをゆるされた人は、こころからの平安を与えられます。さらに人間関係における平和、たましいに平安を持っている人は、他の人とのあいだに平和な関係をつくりだすことができるのです。ゆるしと和解のあるところに平和があります。これは人間生活の日常に大切な祝福をもたらします。
コロサイ3:12-14「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」