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2012年7月15日 聖書朗読 ルカ 11:14-23
聖書の話し 「主と共に集める者」
序文)私たちの主イエス様は3年間の公の生涯を通して不眠不休といってよいほどに神の国を広める戦いをなさいました。悔い改めて、神を信じなさい。ひとりとして人間は神に逆いた生涯をこれ以上歩みつづけないように。神のさばきに合う事が無いように。神の国に入れと伝道されました。
それだけではなく、ご自分の言っておられることが本当であることを人々に確認させるために、聖霊の力によって力あるわざを次々と行われました。わたしたちは神のすくいのわざの事実を前にして、どのようにそれを受けつづければよいかを決めなければなりません。
Ⅰ 救いの事実と悪意の反応14-16節
1 主イエス様が物を言えなくする悪霊を追放しておられました。それまで口の聞けない人が物をいうようになった。群衆はこの出来事の中に、神の驚くべき力を見て驚嘆しました。ひとりの人が神のあわれみと恵みと力によって、それまでの古い人生、罪に取り付かれ迷いの中に日々をおくり、自らもみじめで他の人々も巻き込んで滅びの道を進んでいた歩みを止めました。その方向を転換していただき、救いに与って、罪の赦しと罪の力から解放され、神の子として勝ち取られました。そのとき、救いは事実として信じた人の中にあります。この口がきけなかった状態にあった人は、そのような悪霊に憑かれていた状態から、より明白に物が言えるようになったことで、救いの事実は確かめられ神の力は証明されました。礼拝に出席中の皆様の中にも、信仰をもって神の力により、救いの事実を受けた方々が大勢おられます。また、主は新しく救いに入れられる人々を増し加えてくださっています。このことをどのように受け止めればよいか。
2 群衆の中のある人々、すなわち、パリサイ人と律法学者たちでありますが、彼らは主の救いの力あるわざについて、これをそのとおりに求める事を良しとしなかったのです。そして「悪霊どものかしらバルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのだ」と悪意に満ちた中傷を言いました。この人々は日頃からキリスト教を快く思っていなかっただけでなく、かしらである主イエスをひそかに殺そうと付けねらっていました。
人間の常として、心よく思っていない物と、まともに太刀打ちできないと分かったとき、中傷をすることで、そこに示されている成果を無にしようとするのです。そして一般に、人々は成功したことへの賛辞よりは、中傷の方が心と耳に好んで受け入れるものなのです。
これが聖書の表している人間模様なのです。彼らは神の力によるわざを神の力としてではなく、悪魔の力に帰することによって、キリストご自身とそのわざにたいするマイナス反応を全面的に起こさせようとしました。中傷ほど罪深く残酷なものはありません。一度、世の中に中傷が出回ると、それは人から人へと速やかに伝わり、長く居座ります。たとえ後から訂正されるようなことがあったとしても、原状回復することは大変難しいのです。悪魔は神の国の働きが、マイナスに受け取られるように教会の中にも外にも多くの中傷をまき散らして救いのわざが進展しないように、人々の信仰が成長しないようにと働きます。中傷はその人の心に悪意がある事の証拠なのです。
Ⅱ 主イエス様の答え 17-22節
イエス様はすぐにその場で敵対者たちに対して答えられました。それは有無を言わせぬ答えでした。
1 答えの一 17-18節 およそ、国家や家が内部分裂を起こし内戦になると、それは自滅してしまう。ですから国を乗っ取ろうとする敵は戦術の一つとして、この内戦状態になるように働きかけます。現代でも世界中の紛争地帯に見られる通りです。一度、内戦になり、のちに共産化や独裁体制や、過激な回教化にしてしまうと、民主化への道はほとんど閉ざされてしまいます。回復への道のりはとてもむつかしくなります。悪魔の国も内部分裂したら立ち行きません。だから、イエス様の働きは、悪魔のかしらベルゼブルによる手下どもの追い出しではないのです。
2 答え二 19節 実は中傷しているパリサイ人、律法学者たちの仲間たちが魔除け、悪霊払いを現に行っているのです。主イエスのことを、このように言うのなら、彼らも同罪であります。二重の反論に対し、中傷するものたちは、何も答える事ができませんでした。
3 答え三 20-22節
ここに主は、第三の論証として、ご自分が悪霊を追放しているのは、神の国が既にあなた方のところに来ている証拠だといわれました。それはどういう事かというと、強い人が、すなわち、悪魔が十分に武装して、この地上に支配権を及ぼし、神のものを自分のものとして、守っていた。悪魔の支配下にあるものは、ある意味で安全無事で偽りの平安を喜んでさえおれるし、喜んでいた。エレミヤ6:14「彼らは手軽にわたしの民の傷をいやし、平安がないのに平安、平安と言っている。」
ところが、もっと強い者、すなわち神ご自身が、その権威をもって、この地上にみ子を遣わし、悪魔の働きの根っこを押さえてしまわれたとき、悪魔はもはや、その砦を破壊され、征服され、神の国が実現されるに至った。ルカ10:18「イエスは言われた。わたしが見ているとサタンがいなずまのように天から落ちました。」ここに一つの証拠があります。
また、イエスは公の生涯の始めに、荒野での戦いにおいて、サタンの誘惑に勝たれた。「サタンよ。退け。」このようにして、イエスを中傷しているパリサイ人のまわりに、すでに、キリストの支配による神の国は来ているのでした。サタンはまだ完全に息の根を止められたわけではありません。しかし本質的な勝利はすでにイエスの手の中にあります。サタンがあばれまわるとしても、それはかしらを砕かれても、まだ、しっぽがひくひくと動いているトカゲのようなものです。キリストを信じる人々は、悪魔の支配から、神の身元へと帰らせられたのです。「それは彼の目を開いて、暗やみから光りにサタンの支配から神にたち帰らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって、御国を受け継がせるためである。」(使徒26:18)。
Ⅲ イエスの味方、共に集める 23節
そこで、神の力ある働きが、わたしたちのまわりに示され、この群れのひとりひとりに現にあると分かるのですから、それをどのように受け止めようとするのか。人間の態度は責任重大なのです。「わたしの味方でない者は、わたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は、ちらす者です。」
キリストの福音と主イエスを信じる者にもたらした霊の実りを見る時、人は中立の立場に立っておれません。イエスが十字架の上で成し遂げてくださった。救いを信じ、主イエスを受け入れて、味方となるか、そうでなく、神の国がすぐそばに来ていても、傍観者の立場、すなわち、イエス様の言葉によると事実上は逆らうものの立場にいると言う事です。その人の信仰の歩みが、イエスに味方する者、またイエスがかしらとして働いておられる聖霊によって支えておられる教会を支持するものは、神の国にいるものである。聖霊の教えに対して現に神の国が来ているのに入らないものは、反対しているものなのです。再び主イエス様が来られる時に、このことは明白に判断されます。
今朝、イエスを信じて、イエスの味方である事を表明しましょう。
クリスチャンにとっても、「わたしとともに集めないものは、散らすものです。」ということばを心に銘記しましょう。主イエス様の神の国を伝え広げる働きに、共につくものは、ともに集めるものです。大牧者であるイエスが、教会に、その使命を与えられました。わたしと共に集めてくれと。牧師も長老も執事もセルリ−ダーたちも、すべての奉仕者も、信徒も、イエスとともに集める者なのです。しかしイエスとともに集めない者は散らす者です。教会が、外に対して、内に対して、その使命を果たそうとしてゆくとき、霊的にも、さらに新しく力強く、広がりを、深まりを、求めて行きましょう。皆が心を一つにして、集めるようとし、身の乗り出し公にも私的にも祈り、担い、労苦してゆくのです。ゆめゆめ、そのような働きはわたしのものではないと言って散らす者とならないように注意しましょう。神の国の一員であるのですから。まして中傷を持って神の国の働きをマイナスにしようとして、無にしようとするなら、それはイエスの味方でもありません。ですから、私たち一人一人は神の国への道を進んでいるか、その道を塞いでいるかのどちらかです。
結び)信仰によって、救われ、まずイエスの味方でありましょう。次にイエスと共に集める者として、懸命に神の国の道を進んでまいりましょう。