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2012年7月1日 主の祈り シリーズ8
ピリピ2:9-11 エペソ3:20-21
「国と力と栄えとは」
序文)主イエス様が教えてくださった祈りを一ずつ順番にまなんできました。最初に神様に関する祈りを捧げます。御名があがめられますように、御国がきますように、御心が天のごとく地でもなされますようにと、神様を第一として祈ってゆくうちに、後半を自分たちのために祈りました。イエス様が先ずパンのために祈りなさいとおしえました。それはあらゆる生活において全面的に神様に依存していることを謙虚にみとめ求める祈りでした。その次に、罪を赦してくださいと祈るときは、神様に負債ばかりを与えており、御名や御国やみこころを妨げることの多きことをお詫びしつつ、神様の一方的なあわれみ、ゆるしを感謝し、試みに会わせず悪より救いだしくださいと祈るときは、試みに負けやすい自分の弱さを告白し、ともかく今日ありえているのは、主イエス様のとりなしによることを感謝します。
1 神様のために祈ったことも、自分のために祈ったことも、結局は、神様の日々に変わらないめぐみと一方的な憐れみと道を導かれる配慮によることを思います。このような、天の父としてのお働きをおもうと「悪より救い出したまえ」だけで終わることはできなくなります。おのずと「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。」と賛美せざるをえなくなります。主がこのように祈れと命じられたわけではありません。しかし、クリスチャンが日々に、この祈りを生きてゆくときに、このように付け加えざるをえなかったのです。
感謝というか、頌栄というか、さんびを付け加えて締めくくらねば心が収まらなかったのです。それで初代のクリスチャンたちは、このことばを祈りをするときに入れたのでした。いくつかの古代訳聖書には、この分が加えられて翻訳されている。それは、当時の「主の祈り」が、このように結ばれたのを暗示しています。
祈りの終わりも、はじめのように神への賛美で締めくくられなければならない。自分自身のことを祈るのを赦されたとしても、そこでは結局、神様への感謝、めぐみへの賛美が結びとなります。神の国と力と栄えとは、何ものも奪い去ることはできません。すべては父のものです。という告白が、この結びにこめられています。「すべてのことが神から発し、神によって成り立ち、神に至るからです。どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン」ローマ11:36。
さて、最初の時代のクリスチャンたちがこのようにおもわず神への賛美をささげたように、私たちも信じているでしょうか?
国と力と栄えとは、神様のものであって自分たちが奪い取ることを赦されていない。神様こそ、宇宙の絶対的な主権者であるとして考えて居るでしょうか?存在するすべてのものは、み父のゆるしとご意志によって存在することを信じているでしょうか?
もしそうなら私たちの霊のうちに神様への圧倒的な尊敬があり、深い畏敬のおもいがおおうでしょう。この神様への畏敬が私たちの思想と行動と態度と動機のすべてを彩り条件づけるようになります。そのとき、初代のクリスチャンたちと心を合わせて、この結びを真心から祈れるようになるでしょう。
神様こそすべての賛美と栄光を受けるにふさわしいお方だからです。
2 第二に、この結びから考えさせられることは、結びまでアーメンと祈る者は、謙遜でなければ祈れないということです。まことの祈りは謙遜な心の人によって捧げられるのです。すべて、み国も力も栄えも永遠に神のものという認識は高慢な人の心にはないものです。パリサイ人と取税人の祈りを,主イエスは教えておられます。ルカ18:9-14「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します. 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」パリサイ人の祈りは祈りというよりも、ひとりごとで主の祈りの精神からはほど遠いのです。そこには賛美、告白、願いのことばが一つもなく、ただ感謝することを口実にした、すべてが自己満足の誇りだけなのです。表面上は確かに立派な日々を送っていることでしょう。しかし、何もかも自分の力でやったのでという自慢が中心にあります。神の栄光、神の力、神の憐れみ故に生かされ、用いられているといった心は毛頭ありません。
他方、取税人は、パリサイ人がいうように罪を犯したかもしれません。しかし、「神よ、罪人の私をお許しください。」と心からやっとこの一言を祈った時に、彼は神様に最も近くいました。賛美と告白と願いのすべてをここに見ます。このように謙遜な態度、自分に依存するものをすて、ただ、神によるのみという心に達するとき、まことの祈りは聞かれるのです。
3 第三に、主の祈りを結ぶにおいて、「一致」ということを学びましょう。主の祈りは「私たち」ということば使いで祈られます。神の子たちの一致した意識です。「わたしたち!!」それは単に声を合わせていっせいに「天にまします」と祈ること以上の重要さを教えています。「心を合わせて祈る」「一つ心で祈る」とうことを具体的に経験させられるのです。このことは、「祈りの基礎は個人的なこと」と学んだことをさらに進めて、「複数」のクリスチャンが心を合わせて祈ることのすばらしさを教えています。
「よくよく言っておく。もしあなたがたのうち二人が、どんな願いごとについても、地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父は、それをかなえてくださる。二人、三人がわたしの名によって集まっている所には、私もその中にいる。」
信じて、祈る人が心を一つにする祈りは、聖霊ご自身の働きにより生じます。それは神様のみむねと目的に調和している祈りであります。神と一人一人が心を一つにしているとき、二人、三人が心を合わせて祈ることができます。同じ場所にいなくても、心を合わせて祈ることができます。このように一致した祈りは、力ある働きを神様から期待し、実現してゆくことを知っています。
結び) 教会の祈り、公同の祈り、家庭の祈り、など心を合わせて、「わたしたちの」と祈るとき、神の国が進み、み心がなり、み名の栄光があらわされます。
主の祈りが日常生活に果たしている働きは大変に大きいのです。心を込めて祈りつづけましょう。