2012年8月12日 説教個所 ルカの福音書 11:45-54
「主イエスの怒り」
序文)主イエス様がパリサイ人の心の内をきよめるようにと迫られたとき、そのやり取りを聞いていた律法学者が、自分たちへの侮辱と主イエスの言葉を受け取りました。律法学者たちは、なぜそのような受け取り方をしたのでしょうか。主イエスのおことばを聞いて、確かに言われる通りだったと、なぜへりくだれなかったのでしょうか。彼らは自分たちのような民衆に尊敬されている者を、イエスが侮辱してという思いがありました。彼らの思い上がりの罪に潜む、罪の悲しさ、さびしさ、やり切れなさがあります。
ところで、主イエスさまは抗議を受けて、パリサイ人に言ったよりも、もっと徹底した弾劾を行われました。
それは三つの例話で語られていますが、根っこは一つです。
Ⅰ 46節 律法学者の働きの一つは、日常生活に適用する民事律法、祭儀律法の研究と解釈にありました。彼らは学問を通して律法の中心を追求し、その時代の実生活に関係したことが語られていない場合には、その大綱にそって、細かい規定を作ったりしました。それは次第次第に詳細なものとなり複雑になりました。みことばにあきらかに書かれていることと、そうでないが学者たちが考えだしたもので、言い伝えられて来たものは権威あるものとされて、人々の生活を規定しました。
主イエス様は、ここで、「あなたがたは、人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分はその荷物に指一本もさわろうとしない」と非難し忌まわしいとおっしゃいました。
律法学者は学問上、律法の上にさらに多くの規則をつくり、勝手に、さらに付け加え複雑にし、その上で全部守るようにと命じました。旧約聖書に神が啓示された救い主、贖い主を遣わすとの喜びのメッセージ、約束の福音を読み取り、人々に伝えるという根本を見失って、ただ、律法を自分の力で守ることによって救いを勝ち取るようにと教え、自分たちの考えだした細かい規定をも守らないとのろわれると教えました。人々は苦しみました。救いの道として啓示されたみことばの真意と違うものを学問の産物として受け取らされ、救われることがなかったのです。そして律法学者たちは、自分たちのために多くの抜け道を作って事実上は律法の細部にいたるまで行おうとしなかったのです。
例えば、「安息日を覚えて聖とせよ。」という大綱からは安息日に旅行してよいのは、居住地から2000キユビト(約1KM)の範囲までと決めました。それでは都合の悪いことが当然おこります。それで抜け道は街路の端に綱を結ぶことによって、街路の端が居住地となって、その綱を結んだところから1KM行ってよいとしました。要するにどこまでも旅行できることになるのです。
また、金曜日の夕方に安息日に旅行しようとしている任意の地点に前もって二食分の食料をおいておけば、その地点も専門的には居住地となり、さらに1km行く事ができました。律法学者たちは、このようなことを守ることが、旧約聖書を守り、宗教的な礼拝、信仰生活を実践する歩みだと考えました。その一方で、抜け道を作って自分たちは逃れていたのでした。聖書の救いの道を誤解し律法を完全に守るという、どのような人も、負いきれない重荷を負わせて自分たちは言い抜けているのです。この不誠実に対して主イエス様は忌まわしいと言われたのです。
主イエス様が、私たちを招かれたことばは、「マタイ11:28-30」です。主イエス様が、私たちに代わって罪の重荷、人生の重荷、永遠の滅びの重荷を負って下さって、十字架の上で成し遂げて下さった救いの道は、これを信じ神に自分のすべてをゆだねるものにとって、実に幸いな人生と変えられるのです。罪の赦しと解放と永遠のいのちへの道であって、人が新しく生まれると言われた歩みです。
主ご自身「わたしの荷は軽い」といわれているのです。もし、私たちが聖書のおことばを読み信仰と実践の唯一の規範として従う時、聖書のことばを重い荷物としか受け取れないように読み、行動しているのならば、喜ばしい神のめぐみや、感謝を持って歩む日々をくみとりそこなっているのです。あなたの信じゆだねた主イエス様を、見間違っていませんでしょうか。律法学者のような態度で聖書を読んでいないでしょうか。主を誤解し、重い、くるしいとばかり言っていないでしょうか。振り返らなければなりません。
主イエス様の恵みが届けられる外的手段は、みことば、祈り、礼典です。内的手段はみことばと祈りと礼典において働かれる聖霊さまです。みことばを読み、いのり、礼典にあずかるときに、主イエスさまに出会い、結びつくことを得てゆきます。そのとき、そこに働いておられる聖霊は、私たちを不誠実さから救い出し、誠実という実りを結ばせてくださるのです。
Ⅱ 47-51節 第二の問題点
主イエス様が忌まわしいと言われた第二の点は、律法学者が「預言者たちの墓を建てている」という点です。それによって先祖のしわざに同意しているのです。それは律法学者たちが、先祖の行なった預言者殺しと同じ精神、同じ動機を持っている事への怒りです。
先祖は神のことばを伝えた預言者たちに聞く事をしませんでした。そして、自分たちの傲慢と偽善によって、預言者たちをつぎつぎと殺しました。そのことは当時の時代の人々に歓迎されたのでした。その神に逆らう世にこびへつらったのでした。律法学者たちは、その墓を建てました。それは過去の預言者たちの行いをほめたたえて実行しようとしたからではなくて、そのような誠実さからではなく、同時代の人々の人気を取ろうとする世俗的動機からでした。その証拠に、もし、ま心から昔の預言者の語ったみことばに聞き従うために、先祖たちが殺した預言者たちの墓を立てたのであれば、今の時代に生きて働いている神の預言者、新約の預言者や、使徒たち、そして神の言葉そのものであるイエスに聞くはずなのです。
ところが旧約時代と新約時代を橋渡しした預言者、バプテスマのヨハネを迫害し、排斥運動を繰り広げたのは、他ならぬ、律法学者、パリサイ人たちでした。
バプテスマのヨハネは荒野で活躍していたのでした。
今、目の前におられる主イエスを迫害し、最も激しく敵対し、排斥しようと画策し、イエスの口からでる言葉尻を捕らえて、言いがかりをつけようと密かに図って、いろいろの人々に策略を授けたのは律法学者たちだったのです。ついに彼らはイエスを十字架に架ける事に成功するのです。使徒たちを議会に引き渡して、陰に陽にみことばを語らないようにと脅したのも彼らだったのです。だから彼らが預言者の墓を立て記念したのは、誠実に預言者に聞くためではなく、人々の人気取りの不誠実な動機だったのです。
この時代は共同責任を問われているのでした。神のみことばが語られたとき、それを聞いた者の責任が生じるのです。ほかならない、みことばが自分に向かって語られている神様がおられるのです。神様を不誠実にそらせてはなりません。
自分が気に入らないからとか、他の人の手前、人気や、こびへつらいをもって、あるいわ拒否したり、あるいわ墓を立てて記念したりしてはなりません。
自分の心を主イエス・キリスト様のみからだである教会に対して閉鎖するとき、その歩みは律法学者のように間違ってしまうのです。真理に対する敵対行為をしてしまうのです。
Ⅲ 52節 第三の問題点 律法の専門家たちは「知識のかぎをもちさり、自分ではいろうとせず、入ろうとするひとびとを妨げているのです。」御国にはいる知識の鍵、神の真理の扉を開く鍵を律法学者は持っていました。ところが、彼らは聖書を正しく解説することをしないで、自分も御国にはいらず、入ろうとする人々を妨げてきました。生まれつきの盲人であったバルテマイが、イエスによって救われ喜び感謝していたとき、律法学者たちは、イエス様の事を「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないからだ」と律法を解釈してみせて、入信しようとしていたバルテマイを妨げました。彼らは無益であるどころか有害でさえあったのでした。実は知識の鍵はみ言葉を正しく解釈するだけでとどめられるのではありません。それは「キリストの内に知恵と知識の宝がすべて隠されているのです」(コロサイ2:3)。とありますように、知識の根源であるキリストが鍵なのです。人はキリストと結びつくことにより、自分も人々も御国に入る事ができるのです。主イエス様は「わたしは道であり真理であり、いのちです。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行く事はできない」(ヨハネ14:6)といわれました。鍵を握っているのは自分であると言われたのです。律法学者は「実に法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者」(テトス1:10-14)となったのです。一切の知恵と知識の宝がキリストに隠されていることを疑わせ、キリストに結びつこうとする求道者や、初信者を惑わして妨げる者のことを、キリスト様が忌むべき者だと言われたのです。
結び)律法学者たちが忌むべき者だと言われた三つの例を学びました。共通していることは主イエス様への不誠実です。わたしたちはキリストのみからだの一員として、自分の信仰のはじまりの喜びや愛や感謝を主にささげたように、今もささげつづけましょう。これから御国に入ろうとする方々への励ましとなり、助けとなり、取りなしの祈りをつづけましょう。御霊の実の一つは、「誠実」です。
ピリピ 4:8−9