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2012年8月5日 説教個所 ルカの福音書 11:37-44
「心をきよめる主イエス」
序文)主イエスを信じて全身があかるくなるように、というのが36節までの勧めでした。主イエス様は内なる光りのすばらしさを示してくださったのでした。今朝学ぶ37-44節は、内なる暗さについてです。心を清めていただく必要性に気づかせられるのです。
Ⅰ 問題提起とイエス様の答え
主イエスさまのおことばが与えられたきっかけは、パリサイ人がイエス様を食事に招いた時に、食前のきよめの洗いをなさらなかったことにありました。
1 問題提起:「食事の前に手を洗うか、あらわないか。」皆様はいかがでしょう。当時のパリサイ人たちは、一定の方法で、食前に手をあらう儀式を必ずまもっていました。
一回に使う水の量は、卵の殻一杯半、まず指先にそそぎ、手首にながし、手の甲をすりあわせ、最後にもう一度手に水をそそぐのです。今度は手首から指先へとそそぎます。パリサイ人にとり、この手順を省くことは罪を犯す事でありました。もし衛生上のことで云々しているのならば、卵の殻一杯半のみずで手をきれいに洗えるか考えてみてください。あきらかにここでは宗教的きよめのことが問題になったのです。
2 イエス様の答え:39-44節と答えられました。
ここにはパリサイ人たちの根本的な間違いと、わざわいについて三つの点からの指摘があります。ひとことでいうと、外側ばかり気をつかって肝心の内側を忘れた生活は、わざわいだというのです。杯や大皿の外側はきよめる。ピカピカに磨き美しく浄める。しかし、その内側は強奪と邪悪でいっぱいです。外側は立派な服装を身につけ、化粧をして美しくするが、心のうちは無頓着である。どん欲と邪悪を満たしている。形式は厳格に守るが、内容が無い。末梢的なことにこだわって根本的な事を見逃している。枝先の葉をみるが森全体はみない。だからわざわいである。
① 42節 はっか、うん香、あらゆる野菜などの10分1を宮に納めているが、公義と神への愛はなおざりにしている。当時のパリサイ人は神に捧げるという名の下に、三種のささげものをした。地の初穂といって小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブ、蜜の初物をささげた。そのために、他人や神への義や愛のつとめを曲げてでも、断じてこの捧げ物を怠る事はなかった。神と他人への重要な働きを無視して内側を忘れて形式を守る消極的な生活がそこに出現していた。
② 43節 会堂の上席や市場で挨拶される事が好きです。人々に目立つことを好んだ。ユダヤ教の会堂では、会衆に面してもうけられた一般人に特別座席があった。これは役目上座るのとは違っていた。又、会衆のあいだにも席の区別があって、前に座る程名誉とされた。またパリサイ人は道ばたで受ける敬礼がおおげさで一目につくほど一層気分を良くした。これらは虚栄心のあらわれであって、人々の賞賛のみを追い求めむなしい栄光を握ろうとする。
③ 44節 人目につかない墓のようだ。その上を歩いても人々は気がつかない。律法は野外で墓に知らないで触れても7日間汚れるといっている(民数19:16)。パリサイ人は彼らに触れる人を知らないままに汚す。知らぬ間に悪に染める。パリサイ人の影響は人々が何でもなく思っていても、知らぬ間に神がほんとに与え求めておられる歩みとは全く違うところに引き入れ、神から人を引き離してしまう。これらのことは実に忌まわしい。内側をきよめることを忘れたおろかな歩み方である。
Ⅱ どこに間違いがあったのか。40-41節
外側を造られた方は、内側も造られた。其の事を忘れた愚かさに間違いがあった。モーセの律法を与え儀式的なきよめを定められた神は、また、人間の心をきよくすることをも同時に求められた。身体を作られた神は、こころをも備えてくださった。一方だけで両方を満たす事はできない。両方を重んじなければならない。そのために順序は、まず内側からである。内にあるものをきよめることにより一切がきよくなる。内面がどん欲、強奪、邪悪からきよめられて、はじめて内外一切がきよくなる。
パリサイ人の間違いは、この内側の大切さを忘れたところにある。なぜ、神がきよめの律法を与えられたかの中心を見失った。なぜ神が、このような形式を与えておられるのかの中心を見失ったために、形式主義に陥った。
神がまず心をきよくすることを求めておられる。それをないがしろにして、外側のことばかり目につく事ばかり、あれこれいっても、いつも同じ批判をイエスに投げかけるだけである。自分の心がきよめられれば、一切が、異なって見える。自分の邪悪さや間違ったみにくい自己主張が聖められれば、直ちに今まで見ていた物が違っていたことに気づく。
Ⅲ 神は私たちの生涯が、一切きよいものとなるために、聖めの道を開いてくださった。パリサイ的なあやまちに陥っていたと、自覚する者は、謙遜になって、心を聖くしてくださる。主イエスを再び仰がなければならない。「ヘブル9:11-14」
主イエス・キリストが、私たちをきよめるために血をそそいでくださった。旧約聖書では人間の罪の聖めの儀式は決まっていた。山羊や子牛や鳥の血が、人々に注ぎかけられる事によって肉体を聖めるという働きが象徴的に示された(レビ14:1-7)。そればかりではなく、血の注ぎはアロンや祭司たちが神の奉仕につくために聖別されるしるしとしても用いられた(出エジプト19:20-22)。さらに血をそそぐことはイスラエルが神の民として神のことばにしたがうことを誓約するしるしとして用いられた(出エジプト24:1-8)。
これらすべては新約聖書のキリストの血のそそぎをさししめす儀式であった。それで、ヘブル書の記者を通して神は14節「ましてキリストが傷のないご自身をとこしえの御霊によって、神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」とお語りになったのです。
すなわち、イエス・キリストが十字架の上で流された血は、私たちの罪をきよめ心をきよめ内側をきよめる。さらに神に仕えるにふさわしい者として、聖別し、キリストを主と仰いで、その民として服従してゆかせるのです。
キリストは、私たち自身の罪ある血では不可能なことを、身代わりとして成し遂げでくださることにより、私たちを死んだおこないからはなれさせて、生ける神に仕える者としてくださるのです。
この方のゆえに今も、神は私たちをきよめてくださることができるのです。道は備えられています。第一ヨハネ1:9[もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を許し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。]
それでわたしたちのいっさいがきよいものとなるのです。
結びの祈り:全能の神よ。わたしたちは、あなたの御怒りを日ごとの罪により引き起こさずにおくことができません。本末を転倒し、きよさとゆるしと、いのちがイエス様の十字架の血のそそぎによって与えられるのを忘れ、何か、もっと形式的な事、外側からくると思いがちです。
その結果災いを身に招くものです。願わくは、真実に心からあなたに立ち返って、何ものにもまさって、あなたに和解する事を求め、あなたのみ心に受入れられますように。聖霊によって、私たちを支配してください。
まことの従順と信仰によって、私たちを強めてくださってついには主イエス・キリストによって天に備えられた永遠の幸福を楽しむことができますように。 きよめ主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。 アーメン