2012年11月4日主日礼拝 聖書:テモテ第一の手紙1章8ー17節 朴柱炫
説教題:「私はその罪人のかしらです。」
序文)私たちは信仰生活の中で、律法という言葉をよく聞きます。また、律法主義という言葉も。律法主義が良くないことは分かりますが、律法が良くないものと思ったり、律法に対して誤解したりしたことは無いでしょうか。今日の聖書は律法が誰のためにあるか、また、その役割も学びます。また、神様の憐れみと忍耐を学ぶことが出来ます。 神様の御心が何かを共に謙遜な心を持って学びましょう。
1.正しい律法
パウロは律法には正しい用い方があると教えています。正しく用いるならば、良いものであると教えています。律法の本来の正しい目的があり、それが必要であると言っています。律法によっては救いに至ることができません。しかし、律法によって人は自分が罪人であることが分かります。それが律法の良い働きであります。それは養育係、すなわち人を救いに導かれる良い働きです。律法の良い働きはそこまでです。その働きはイエス・キリストによって完成されました。不完全なその働きがイエス様の十字架と復活によって完成されたのです。ですから、私たちがイエス様を信じることによって完全な救いを得るようになったのです。今日も律法は人の罪が何かを示す役割をしています。律法に問題があるのではなく、それを使う人が正しく使わないことが問題なのです。律法の始まりが神様であることも忘れてはならないのです。パウロは律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです、と言っています。ここで言われる正しい人は広い意味でキリスト者を意味することで、信仰によって義と認められた者たちを意味します。それは絶対的に完全で、正しい人を指すことではありません。世の法律と同じように律法もそれを守れない者に適用されます。それは守る人を制限されるために存在するのではありません。けれどもそれを守る人々さえ、それが必要でないことを意味することではありません。それと同じように律法もそのとおりです。ではどんな人に律法が必要なものでしょうか。これから共に見ましょう。
まず、律法を無視する不従順な者です。律法を無視する者とは文字通りに律法を無視するので、それは律法を定めた神様を無視することです。自ら律法を上から視線で見くだしている高慢な者を意味します。不従順な者とは神様の律法の下に従うことを拒む者で、秩序を乱す者です。パウロは自分の主張はするが、キリストの御言葉を知ろうとも、聞こうともしないエペソの偽り教師を視野に入れて語っています。彼らの行動は神様の前に責任を逃れることが出来ない行動です。次は不敬虔な罪人です。神様の法を無視して自分の思うとおりに生きる人は不敬虔な者であり、罪人です。不敬虔な者とは信じようとしない人の意味で、生き方と行いで、神様を無視し、御心を侮っている者です。罪人とは自分の存在の目的を悟ことが出来ず、意識的に神様に栄光を返すことを失った者を指します。汚らわしい俗物とは十戒の四番目の戒めを犯すことを意味します。この節の原語では清くない者と もうろく者という意味になっています。清くない者は俗っぽい不道徳な者の意味で、聖なる神様の栄光を傷つけていながら、御心を受け入れないことを意味します。また、もうろく者は聖なる所を犯す者を意味します。以上の六つの罪はすべて神様に逆らう罪であります。父や母を殺す者とは十戒の5番目と6番目の戒めを逆らうことです。それは殺人罪と親を敬わない罪を意味します。人を殺すことは命の主である神様に正面から逆らう行為でもあります。不品行な者、男色をする者は十戒の7番目の戒めを犯す者です。それは未婚者だけではなく、既婚者の間に不倫をする者です。その不品行な者は不道徳で、不正なもので、汚れた行動をするものです。しかし、それよりもっとも醜悪な罪は男色をする者、すなわち同性の間に性的な接触をすることです。続けて、人を誘拐する者は十戒の8番目の戒めを逆らうことです。それは人を捕まえて奴隷にする者で、ある目的のために人を誘拐して、その人の自由と権利を奪う行為を含むのです。うそをつく者、偽証をする者は十戒の9番目の戒めを犯す者です。うそをつく者は偽りの良心を持っている者で、非真理を語るもので、自分の信仰告白と行動が一致しない者です。偽証をする者は自分の権利と面子のために隣人が損になる約束や偽りの証言を平気でやる人です。またそのほか健全な教えにそむく者は健全な教えである律法を背いている者です。律法はどんな人でも逆らうことや逃れることができません。罪人はその教えを受け入れるべきで、それによって人の魂が健康になるからです。ですから、その教えが健全な教えになります。健全な教えに逆らう者は神様の御言葉を受け入れないことで、独善に落ちている者です。律法は罪人が自分の本当の姿が何かを分かるように示す役割をする神様の御心です。今日もその役割を果たしているので、軽く見ることは律法を正しく理解していないことです。
2.福音によれば
パウロは続けて自分が福音にゆだねられたと語っています。祝福に満ちた神が栄光の福音のゆえに、自分に福音がゆだねられたと言っています。この節での祝福とは神様と交わりする者が受ける特別なめぐみ、すなわち罪を赦される祝福を意味します。罪人を赦して祝福に満ちた神様が栄光の福音、すなわちイエス・キリストを通して来る救いの良い知らせであり、神様は私たちを救うために福音を計画した方で、それを通して御自身の栄光が現れることです。その福音をパウロにゆだねられたと言っているのです。12節ではパウロは自分を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげていますと言っています。この節は正確に言うと強くしてくださったという過去のことを意味します。すなわち、パウロはどんな苦難と苦しみの中でも大胆に御言葉を伝える力をすでにもらっていることを感謝しました。パウロはキリストが、自分をこの務めに任命して、自分を忠実な者と認めてくださったからですと語っています。教会を猛烈に迫害したパウロをキリストが忠実な者と認めたことはおかしい話です。しかし、それは神様の絶対的な主権を現すことです。キリストがパウロを改心させ、力を与え彼を忠実な者だと認めたのです。それはパウロが決して偉大な人であり、その行いが完全であることを意味することではありません。神様の主権によって福音の使命を実行することを意味します。その務めは奉仕を意味します。使徒の務めは愛と献身の精神で神様に捧げる奉仕なのです。それは、パウロがダマスコでイエス様と出会って改心した時に同時に起こったことです。13節ではパウロは、以前は神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者だと告白しています。神をけがす者に使われている言葉は障害を与える意味で、冒涜する意味の言葉が使われています。暴力をふるう者は高慢な者で他の人を迫害する者です。パウロは以前、自分がキリスト者にどんな者で、何をしたかを迷わずに告白しています。パウロは自分の恥ずかしい過去を話すことにより、人々から嘲笑を買うことがあるにもかかわらず、隠すこと無く正直に告白したのは自分の無価値を自ら認めるのと同時に神様のめぐみの偉大さを強調するためです。エリートの中でエリートであったパウロが、福音に出会ったことでそこまで 変わったのです。彼はキリスト者を妨げることや迫害することが、神様のための正しく道であると信じました。彼は神様の御心を分別できない暗黒な状態でありました。霊的な無知による過ちでしたが、それによって裁きを受けることではなく、神様のあわれみを受けたとパウロは告白しています。全く無価値な高慢で、神様に逆らう者であったパウロを神様は忠実な者だと認め、使徒の勤めを任せました。私たちも昔は無価値な高慢な者で、神様に逆らう者だったのです。しかし、主の憐れみと赦しによるめぐみは私たちを忠実な者だと認め、期待して神の国の働きを任せています。パウロは自分がどこから始まった者であるかを忘れていません。いつもそれを覚えているから14節で、この恵みは、キリスト・イ エスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになっていると告白しています。いつも福音の原点に立っているのが大切です。
3.罪人のかしら
パウロは大きな罪人であるにもかかわらず、キリストが施しためぐみのゆえに救われたのは全ての人々が確かに分かる必要がある事実だと告白しています。それで、パウロは「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものだと告白しています。これはキリスト教の一番大切な事実で、福音の本質がよく要約されているところです。罪人を救うためにキリストがこの世に来られたことは全ての人々に良い知らせであります。なぜならば、聖書には義人は一人もいないと宣言しているからです。すなわち、全ての人々は罪人であることです。ですから、キリストはすべての人々のためにこの世に来られたことです 。しかし、人々は最後まで自分が罪人であることを認めることを拒むことで、滅びに至っています。その責任が神様にあると叫びながら滅びに至っています。パウロは自分がその罪人のかしらだと告白しています。それは自分が一番悪い罪人であると言っているのです。この告白は健全でない非現実的な謙遜で、形だけの表現でしょうか。そうではありません。パウロは神様のめぐみを知れば知るほどに自分の惨めな姿と同時に神様の偉大さに圧倒された告白であります。特に、パウロはここで意図的に現在形動詞を使っています。パウロが改心してから何年に過ぎたが、今も自分の昔の過ちを深く悔い改めしている姿です。パウロはいつも自分が赦された罪人であることを忘れることが出来なかったです。ですから、自分が一番悪い者と宣言しているのです。それは一番悪い者だから一番多く赦された者だと意識しています。パウロは自分に対する神様の憐れみと赦しが、どれくらい深いものであるかをよく理解していました。神様の憐れみと赦しが、どれくらい深いものであるかを理解する分だけに自分の罪と本当の姿が分かるようになります。ですから、パウロはこのように告白しているのです。パウロは続けて16節では自分があわれみを受けたのはキリストのこの上ない寛容を示してくださったからですと告白しています。それは大きなキリストの愛のゆえです。キリストが長い間、忍耐を持って待ってくださったからです。キリストの忍耐が無かったら今のパウロは存在しないことです。もうとっくに、神様の怒りによる裁きを受けたのです。しかし、キリストの長い忍耐がパウロを救ったのです。それは一番悪い罪人であるパウロが救いのあわれみを受けたのは、長い忍耐を持ってくださったキリストの愛があったからです。それは、今後、キリストを信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本になるためだと告白しています。最後にパウロは「世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。」と神様に栄光の賛美でこの節を終わりにします。この世の王とは違い永遠である唯一の神様に全てがあることを宣言しています。それは、神様の絶対的な主権の下にいることを現す宣言であります。
結び)パウロは律法は、正しく用いるならば、良いものだと言っています。すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。と言っています。簡単に言うと律法は人が罪人であり、神様からどれくらい離れているかの現す里程標であります。それが無いと人は自分が正しいと思い込んでいつまでも神様に逆らっている生活が続くのです。それで、神様は人に律法を与えました。自分の本当の姿を見る鏡として与えられたのです。しかし、人はそれを自分に使うことではなく、他の人々を判断し、裁く道具として使いました。それは大きな間違いです。自分が神の裁判官になりました。しかし、それは許可がない不法な行為でありました。それで、イエス様は律法学者たちに偽善者だと怒りました。私たちも律法主義は悪いものだと警戒して注意を払っています。しかし、知らない内に御言葉を自分の鏡として使わず、他の兄弟たちを心の中で判断し、裁くために使っているのに鈍感になっているのは私たちです。それは昔の律法学者たちと何が違うですか。悔い改める必要があります。また、律法主義だと言って律法、そのものを軽く見る傾向は無いでしょうか。イエス様を信じたことで律法は卒業しましたか。そうですか。イエス様を信じたら、神様の御言葉を無視したり、従わないことは全くありませんか。十戒を全部守っていますか。心で汚れた考えをしたことは無いですか。親を敬っていますか。自分を守るためにうそを言ったことはありませんか。イエス様を信じても毎日、毎瞬間、罪を犯しています。私たちは天国に行きまでには神様の律法である、御言葉が必要です。律法によっては救われませんが、救いに導いている役割は有効です。人が救われるためには自分が罪人であることを知らなければならないからです。パウロは以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者で、罪人のかしらだと告白しています。自分が何者であったかをよく知っていました。誰より神様を愛し、誰より熱心であったパウロの行動は神様を正面から逆らうことでとんでもないことでした。誰より正しいだと思った彼はすべてが崩される経験をしました。そこから悔い改めた彼はいつも神様のあわれみと赦しを忘れることが出来ませんでした。ですから、パウロは胸をたたく気持ちで罪人のかしらだと世界で一番悪い者だと告白しています。信仰生活の深みはなんですか。それは自分が本当にダメな者で、それなのに憐れみを受けていることを自覚することです。信仰生活が長い、短いそれは関係ないです 。むしろ、信仰生活が長い人こそ、十字架による赦しを深く理解するべきです。その十字架のことを考えるだけで目には涙がこぼれてしまうのです。なぜでしょうか。その十字架は私たちがつけられ、叩かれ死ぬ現場だからです。それをイエス・キリストが身代わりに死んで下さったのです。なぜでしょうか。神様の燃える怒りが私たちの上に届いているからです。そのままだと滅びて終わりだからです。一人一人が聖なる神様の怒りによって私たちが自分の罪のゆえに十字架で殺されるからです。「父なる神様、もう少し待ってください。その燃える怒りを人に裁くのはもう少し待ってください。彼らはきっと帰って来ます。そして忠実な者になり、あなたに栄光を返すようになります。きっと。」と言いながらあの険しい十字架の道を登りました。また、パウロはイエス様の忍耐がなかったら自分は存在しないと告白しています。その告白は私たちも同じです。皆さんはイエス様を信じてどれくらいよくなっていますか。相変わらず、自己中心で、毎日罪を犯す者です。しかもいつも同じ失敗や罪を犯します。私たちが神様の前に犯している罪と失敗を人との間にも同じだとしたら、それを忍耐して待っている者は誰もいないし、とっくにその関係は終わりです。しかし、神様は最後の最後まで待っておられる方です。また、最後の最後まで忍耐してくださる方です。 私たちは毎日、罪を犯します。また、罪を犯します。それでも赦してくださいます。また、赦してくださいます。七度を七十倍するまで赦してくださる方です。いや、それ以上にも赦してくださるかたです。もし、イエス様のゆるしと忍耐がなかったら、今この場所には誰も立つことができません。イエス様のゆるしはそれほどに深いし、一方的で忍耐が強いものです。しかし、私たちの敵であるサタンはひそひそと言います。あなた、また失敗したか、また罪を犯しましたね。しかも、同じ罪を。あなたという者は何者か。それしか出来ないか。イエスの十字架は力が足りないですね。無駄ですね。あなたみたいな人はそもそも信じないのが良かったはずだよ。恥しいことだよ。それぐらいならクリスチャンをやめた方が良いと思う。
けれども、イエス様は優しい方ですが力強い声で言っています。「大丈夫。私があなたのために十字架に死んだ。それが絶対に無駄なことになることはない。あなたに良き働きを始めたのは私だ。心配するな。きっと良くなるよ。きっと。また、私は待つのが得意だよ。私がそうすることを決めた。忠実な者よ」と。
お祈りします。
私たちより私たちのことをよく知っておられる神様。
神様の憐れみと忍耐が無かったら、誰一人もこの場で立てることが出来なかったです。しかし、神様の憐れみと忍耐が私たちを救ったのです。しかも、まだ神様に逆らった罪人であった時、罪人のためにキリストをこの世に送って下さったことを感謝します。その福音によって私たちが救われました。パウロは自分が罪人のかしら、すなわち自分がこの世界で一番悪い者だと告白しました。私たちも自分の罪の深さを分かるように導いてください。それで、同じような告白が出来るように導いてください。また、毎日罪から逃れることが出来ない弱い者のために良き働きを初めた方で、忍耐を強くして、今も待っておられるイエス様に感謝します。今日もそのめぐみによって生きるように。すべて のことを感謝 し、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。