2012年2月19日 聖書朗読 ルカ 9:57-62
聖書の話し 「前を向いて」
序)主イエス様が、地上生涯の大目的をいよいよ実行しようと、首都エルサレムに向かって歩みを進め始めました。弟子たちも一緒に向いました。そこへ、三人に主の弟子になるつもりの人々が登場しました。一人一人にふさわしく主イエス様が答えられた記事が、今朝の聖書箇所です。日頃、主イエスの弟子としての従っている私たちです。その覚悟のほどを省みさせる主のおことばに耳を傾けましょう。
Ⅰ 57〜58節 「人の子には枕するところもありません。」
ある人が、イエスさまに「私は、あなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」と言いました。この決意、弟子であろうとする覚悟は大変なものです。エルサレムに向かわれる主に、どこにでもついてゆきますと言い切ったすばらしさがあります。このことばには責任が伴います。キリストの弟子として従うという事は、その先にどのような困難があるか、また栄光があるか、前もって計り知る事ができません。私たちの一年も、主イエス様のお出でになるところなら、どこにでもついてゆきますと決意を新しくしたかもしれません。普通なら、このような求道者が表れると大歓迎です。ましてや今からエルサレムに登ろうとしているところですから、なおさらです。一人でも仲間は多い方がいいのです。12弟子たちはきっとそう思ったに違いありません。
ところがです。イエス様は彼に向かって「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」と答えられました。イエス様は、この人の本心を見抜いて、あまりにも気軽すぎる志願に冷や水をかけられたのです。マタイの福音書では、彼が律法学者だったと書かれています。 ユダヤの社会では尊敬され、どこに行っても安楽に生きてゆけるのです。彼の心の中に12弟子たちと同じように、イエス様がエルサレムに登られた暁にはと、一種の栄進を願う思いが隠されていたのかもしれません。主イエスにどこまでも従う道は、恥辱と貧困と迫害と十字架を負う道でもありますから、律法学者が、そのようないばらの道を選り分けて進み、悲惨と苦悩を通ることまで、考えていたかというと、どうもそう思えませんでした。主イエスは、そこのところを見抜かれたのです。
主イエスに従う道は「枕するところもない」事を覚悟してでないと、と言われたのです。安易で快適な道や、あらゆる富で満ちた住居を夢見ているだ家の熱心ならば、主に拒まれるのです。多分、この人は、最初に出会う
不快な出来事で落胆してしまい、十字架に直面するキリストの戦いで、勇気がくじけて退却してしまい、持ち場を放棄してしまうでしょう。
主イエスは、自分に従う弟子たち、信徒たち、一人一人に高い要求を持っておられるのです。弟子である事、クリスチャンであることが、たいして重要でもないことならば、このような答え方をなさらなかったと思います。主イエス様に代わって、御国の民として、地上でその恵みと光栄を表す者となるのですから、主はよく弟子になる人々の志しを吟味しておられるのです。
Ⅱ 59〜60節 「わたしについて来なさい。」
次に出てくる人は、先のようではなく、イエスに対して黙って傍観者の立場で、つかずはなれず、心を示しそうではあるけれども、実際は弟子として従うまでにいたらない状態の人です。まだ何となく、主にしたがうことをはばかっているのです。その人に主イエス様から声をかけられました。「わたしについて来なさい。」そのままでは良くない。もう一段、飛躍しなければならない。信仰生活の中で、主イエスのために新しい決断を一つ加えなさい。主はそのように促されました。
人の心に働きかけることばがあり、聖霊がおられるのです。何か動かされ、引かれる気になり、どうもこのままではと心にかかっているのです。しかし、主イエスに従う決心がつきかねているのです。主イエスは、そのような心を歯がゆく思っておられるのです。もどかしく思っておられるのです。
この人は答えます。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」彼は、なおも逡巡しています。父の葬りを理由に持ち出しました。まだ死んだわけでない父の葬りをですよ。イエスにしたがって行くと、この先どこに行くか分からない。だから生きている父の最後を看取るまでは待ってもらいたい。肉親としての義務、責任を全部すましてからにしたい。主イエスに従うことを、だれにも反対したりされなくなってからついてゆきます。妨げる人がいなくなってから、心のしこりがなくなってから従います。そうなってから信仰生活にはいります。
このような人に主イエスは答えます。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って神の国を言い広めなさい。」葬式そのものが不要だというのではないのですよ。キリストが葬りを非難しているではありません。ここで問題なのは、この人が、家に帰り、今、生きている父の死ぬまで元の生活に戻っている間に、献身の生活が失われてしまわないか。父の葬りが済んだとして、その時イエスどこにおられるか分からなくならないでしょうか。「死人たちに、彼らの死人たちを葬らせなさい。」この「死人たちに」とは、神を信じて新しいいのちに歩んでいない状態の者をさします。霊的に死んでいる者たちのことです。私たちも、信仰に入る以前にそうであったようにです。ようするに、その時が来たら死人の葬りは、他の兄弟や、親族にやってもらいなさい。いつになるかわからない葬りを理由にして、今、あなたのなすべきことを怠り、決心を後回しにしないようにしなさい。あなたは、あなたにしかできない事を、今、しなさい。神の国を告げ広めなさい。
福音の奉仕者、宣教者として召されているものは、特に、ここで、これから死ぬ人の後始末に気をとられて、今という大切な時を殺してしまっては行けません。たえず家に帰ってゆこうとし、世のわざに心残りがあって、優柔不断でうしろむきになってはいけません。神の国を告げ広めるという前向きで生きるようにしなさい。神から召された働きが第一になるのです。
一般的に考えても、この一年が儲かるとか、食べるとか、飲むとか、葬るとか、娶るとか、嫁ぐとか、いうことだけで人生、事足れりとするのではなく、神があなたに期待しておられ、招いておられる信仰の飛躍を、先ず、一段登るために決断して、キリストに従う歩みをすすめましょう。決定すべき瞬間を逃さないようにしなさい。
Ⅲ 61〜62節 第三の人が言います。「主よ。あなたに従います。ただその前に家の者にいとまごいに帰らせてください。」この人は、自分で覚悟して従ってゆくと決意しました。しかし、先ずいとまごいをさせてください、というのです。主は「だれでも手を鋤につけてから、うしろを見るものは、神の国にふさわしくありません。」と答えられました。これは、この世に非常に執着しすぎるので、従うけれども条件をつけているのです。ことばでは従うといいながら、地上の事を片付けるまでは、キリストの背を向けている。
畑に立って鋤を引きながら、うしろをみるならば、まっすぐに鋤くことができません。わきめもふらずにしないと、きょろきょろしながら、振り返りつつでは仕事にならない。心をうしろ向きにして、二つの主人につかえるようでは、キリストのさだめられた方針どおりに行う事ができない。わたしたちには、一生で果たすべく期待されている役割は決まっている。それを大事にまっすぐにする。この世にたいする心遣いに熱中し、正しい道からそれてしまう。キリストに従う者は前を向いて進みます。ちょっとやそっとで、簡単に主のみわざを投げ捨てない。家人に別れを告げること自体は、いつも良くないといっているのではないのです。12弟子の一人取税人マタイはその職業を捨てて、イエス様に従ったときに、一日、同僚や友人たちを招いて別れの宴を催しました。別離の宴が、神の国を伝えるチャンスとなりました。それはそれでふさわしい事だったのです。
イエス様が戒められたことは過去への未練と執着です。父の葬りをするか、しないかとか、家の者とお別れを行ってよいか、わるいかということではないのです。そういうのではなく、主に従おうとする者の心の態度が問題になのです。「前を向いているか」ということなのです。
結び)以上3人を省みて自分を照らしましょう。軽々しく血気にはやって、どこまでも従いますと申し出はしたが、主から冷や水をかけられた人、優柔不断の人、躊躇して一歩も前に出ない為にイエス様から促された人ではないか。この世に気の多い未練たっぷりで過去に執着して、いまぐらぐらしている人、それぞれに主は適切なことばをくださった。
2012年の歩みを、これからどのように進めましょうか。それぞれに主からチャレンジを受けて、潔く、尊い歩みを進む、「前を向いて」神の国に仕えて
まいりましょう。