2012年3月11日 聖書朗読 ルカ 10:17-24
聖書の話し 「何を喜ぶべきか?」
序文)「御霊の実は愛・喜び・平安・・・・・」です。今朝の箇所から、聖霊の「喜び」について学びましょう。日本語の喜は豆と口をあわせた文字です。豆は楽器の一種で太鼓のことです。喜びは音楽を聞いて口を開いて笑い楽しむことの意味です。他の説は、豆(たかつき)の上に料理を盛った形で、おいしい料理を食べることからよろこぶ意味になりました。喜びと対で示される感情は、喜怒の怒り、悲喜の悲しみ、喜憂の憂いということでしょう。単純な喜びを示します。これらは、聖霊の喜びといえるでしょうか。自分たちが喜ぶことに焦点があります。自己中心の罪は喜びの世界にもはいりました。人の失敗を喜ぶとか、不幸を喜ぶ等です。では聖書が示す聖霊の実としての喜びはどのような種類の喜びでしょうか? 信仰生活を続ける上での喜びは何でしょうか?霊的な成果をよろこぶことでしょうか!
Ⅰ ルカ10:1、17-20 成果を喜ぶ?
1 主イエス様が、ご自分が行く先々に、二人一組の弟子達を70人使わされました。先発隊です。彼らは出かける前に主から「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものだ。」といわれて緊張して出かけたのでした。仕事は困難を予想でき、先発隊としての責任は大きいのです。出かけたその結果、彼らは大喜びで帰ってきました。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」と報告しました。大喜びでした。なぜならば、彼らが遣わされる時にイエスさまから「その町の病人を直し、彼らに「神の国があなたがたに近づいた」と言いなさい、といわれたのでした。ところが、働きをつづけるうちに、「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもさえ、私たちに服従します。」という望外の結果を経験したのでした。期待以上の事柄が起こったのでした。きっと苦労は大きかったでしょう。でもそれを上回る勝利を経験したのでした。主イエス・キリストの御名の力、始めて経験した悪霊との対決、使命を果たせた充実感、いろいろ経験したことを思いめぐらして心が溢れていたのです。
わたしたちも、信仰生活において、神の力の表れを、少しでも経験すると、大喜びになります。神様をほめたたえます。ハレルヤというわけです。
確かに主イエス様もいっしょに喜んでくださるのです。主イエスさまが彼らを迎えて「私が見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。」と云われたほどで、働きを高く評価されたのです。「私が見ていると」背後で祈りながら、その結果はどうだろうかと見守っておられる主の姿を知ります。このことは私たちの喜びを倍加させます。父なる神に栄光が返されて喜びが溢れる事は自分だけが喜んでいるのとは違い、まことの喜びにつうじます。
2 さて、しかし、次に主は言われました。「喜んではなりません。」(20節)といわれました。悪霊が彼らに服従したという、伝道の成果から味わった喜びです。一時的な喜びです。外の出来事、現象からきた喜びです。これらは、状況によって長続きするとは限らないのです。失望させるような状況や、失敗だったら喜べないとなる種類の物です。結果だけを喜ぶことの危険性があります。30年間、賛美も直接伝えることも禁じられるような反キリストの国で伝道して、何も結果が見えない場合もあるのです。自分たちが思ったとおりにならない事柄は多いのです。ですから。成果が上げる事をだけを喜んではなりません。喜びの禁止ではなくて、この種類の喜びにだけ捕らわれていてはならない。もっと大切な基本的な大きな視点からの喜びを喜びなさい。「あなたがたの名前が天に書きしるされていることを喜びなさい。」20節といわれたのです。
彼らが伝道、奉仕を続けて一喜一憂している内に、「喜びなさい」と命じられなければならないほどに、忘れてしまっていた本質的な喜び、最高の喜びがあったのです。
3 人が喜ぶべき最大の喜びは何か? それは人が何を成し遂げたかにあるのではない。その人のために、神が何をなさったかにあるのです。人間の最大の光栄は、神が、その人の名を天にしるしてくださったという、この一事にあるのです。地上で私たちが、どうしたこうしたというのは、実に移ろいやすい喜びなのです。それに比べて、神が、主イエス様が、私たちを永遠のいのちに選び、神の養子としてくださり、新しく誕生した者として聖霊によって新たに生まれ変わらせ、救いに入れ、その証明として、一人一人のうちに聖霊を住まわせて、天の父よ、と祈らせてくださっていること、これほど確かで、永遠に変わる事のない喜びは、他にありません。
このことは私たちの力あのおよぶことでは全くないのです。一方的な神の慈愛と恵みなのです。天のいのちの書物に名を書き込んでくださったのは、神ご自身の決定によるのです。それは,神の子であること、キリストとともに共同の相続人であることを,神が認められた事を示しています。黙示録20:15「いのちの書に名をしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれました。」だから、わたしたちはこの名が記されている事の一事こそ、まことの深い意味での喜びなのです。そうしてくださった神をよろこびます。
ウェストミンスター小教理問答第一問 人の主なる目的な何ですか?答え 人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。まさにそのとおりです。永遠に喜ぶ喜びこそが本当の喜びです。
Ⅱ 主イエス様の喜びのいのり ルカ10:21〜22
1 主イエスは「聖霊によって喜びにあふれて言われた。」主イエスさまの喜びの祈りが続きます。御霊の喜びは「天地の主であられる父よ。」と、天に心を向けさせる喜びです。天の御座で私たちを見守っておられる父と結びついた喜びです。国籍が天にあるものの喜びです。地上で何が起ころうとも、まことの故郷である天に主イエスとともに帰る日が確実にくることを知っている者の喜びです。
さらに、父を褒めたたえる喜びです。恵みの世界のすばらしさを、謙遜な者にあらわしてくださったことを喜び、父を褒めたたえています。私たちの喜びが天の父と、今は御国に帰られた主イエスをほめたたえることでなければなりません。主が賛美されることを喜ぶ。神が賞賛されることを喜ぶ。
最後に、みこころにかなったことを喜ぶのです。父なる神のみこころが成ることを喜ぶのは主イエスの篤い願いでした。十字架の前夜、ゲッセマネの祈りしかり、カルバリの十字架の上でもしかりでした。「みこころが成りますように!」この祈りからくる喜びは、聖霊による喜びです。起こっている事柄が自分にとって理解できなく、不都合と思えることでも、みこころを第一とすることを喜ぶのです。
2 救いの知識が、世の賢い者や、知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです。父よ、これがみこころにかなったことでした。」
ここに見られる70人の弟子たちに代表される、かくかくしかじかと、その有名な名前と略歴もなく、高貴な偉大さも無い、ごく普通の世間一般人、幼子たち、に神が創造のはじめから、隠しておられた救いの奥義を現してくださった。このことは、いわゆる人間の感覚とはちがい、かけ離れた出来事である。しかし、主イエスは、このように定められた父のみこころを心より喜び、賛成し、ほめたたえておられるのです。そして、神は、世界の創造者であり、統治者として、すべての国民は彼のものである。その中から、神が主権と恵みによって救いに至る人々を無償で一方的に選ばれた。そして賢いものより,幼子を選ばれたのは、
神の栄光が輝くためでした。通常生まれながらの肉的な人間は、自分の賢さをあまりにも誇りとしすぎる傾向にある。もし有能で学識ある人々が、選びの根拠に置かれると、人間は、すぐに信仰を学問の知識とか、勤勉さとか、巧妙さで得たという考えに陥ります。実は信仰は神の憐れみ以外の何者でもないという事を認めないのです。 主イエスが「賢いもの」といっておられるのは、どのような人のことでしょうか?幼子とはどのような人のことでしょうか?実に賢いものが全員霊的に盲目の中に見捨てられるわけではありません。また、単純な人々や、無知な人々が全員救いにあずかるわけでもありません。ここで、「賢い者や知恵ある者」とは、悪魔的な傲慢に膨れ上がり、イエス・キリストの天上からのことばを聴く事を軽蔑する者たちのことです。この点で神よりも自分を賢いとし、知恵ありとする者のことなのです。
最もそのような者でも、パウロのように,神が見放す事無く、その傲慢と反抗心を砕いて救いに入れて下さる事もあります。しかし基本的に神を信じ十字架の救いを受け入れられない人は、たしかに、神よりも賢く、知恵があると心で決めているのです。
幼子とはどのようなひとのことでしょうか?ここで、主が、おさないことはいいことだと,いつまでも自発的に小さい子のことを指しておられるのでははないのです。謙遜で、自分自身の力を過信しないひとのことです。主イエス・キリストの福音に耳を傾ける人のことです。へりくだることのできる人のことです。いずれにせよ、神の救いの啓示は、賢さや知恵によって勝ち取るのではないのです。無知や、粗野な者であっても、神のあわれみをいただく妨げにはならないことが、ここでいわれているのです。
3 救いのめぐみはどのような方法で、私たちにとどくのか?
それは父がすべてのものをお渡しになったイエス・キリストを通してきます。いのちはイエス・キリストによって私たちに現された。私たちは、この方のもとに行き、救いの確信を見いだすのです。神の永遠からの選びは、私たちがイエス・キリストのもとに行き、そこで救いをいただくということによって証明されるのです。子が誰であるかは、父の他にしるものはない。み子が神のみ子であることは天の父のみが知っておられる。それで、父が、み子について、あかしされたみことばは、私たちが、子が誰であるかを知る手がかりとなります。み父は、地上に遣わしたみ子のことを「これはわたしの愛する子、これにきけ」と証言されました。そして、この「父」の証言をうけとることができれば、聖霊があかししてくださるからです。さらに、「父」はご自身の生き生きとしたみすがたである「子」によって、私たちに現されている。だから、「子」以外のところで、神を求めても、まことの神を発見することはできない。
私たちは、このようにして救いの恵みに、み子イエス・キリストを通して入れられ、父を知るにいたったのです。このような神のおはからいを、み子は喜んでおられるのです。
Ⅲ 弟子たちの幸い 23〜24節
イエス・キリストは祈り終わって言われました。わたしたちの名が天に記されている。それは、神の大きな選びの恵みによる。そして、具体的にはイエス・キリストを通して届けられる。これらはまことに喜ぶべきこと、賛美すべきことである。このような幸いは、神が与えてくださった特権によっている。
70人の弟子たちはじめ、新約聖書の時代のすべての信仰者は、そうでない時代の人々よりも、はるかに豊かに親しく、神の国の知識を与えられている。何よりも救いのすべてのカギを握る救い主イエス・キリストご自身を見て、ご自身に聞くという特権が与えられている。昔の多くの預言者、イザヤやエレミヤたち、また、王、ダビデ、ソロモンたちが、待ち望んでいたお方、見ようと願っていたお方、聞こうとしていたお方を、弟子たち、信徒たちは見て、聞いている。なんという偉大ですぐれためぐみであることでしょうか。わたしたちは、福音においてイエス・キリストを見る。旧約聖書が指差し続けていた知恵と正義といのちの完全さは、イエス・キリストにおいて輝いているのです。今の時代の教会は、福音においてイエス・キリストを知る点で、旧約時代よりもはるかに良い状況にあるのです。これほどの喜びはない。これほどの幸いはない。さらに深く主を知ること、さらに豊かに主のことばに聞く事の喜びは、あの時代よりもはるかに増し加わっているのです。
わたしたちが、その名が天に記されたことの中心におられるイエス・キリストに、日々にお会いすること、聞く事、従う事こそ、最大の喜びとしたいものです。
結び)イザヤ61;10「わたしは主によっておおいに楽しみ、私のたましいも私の神によって喜ぶ。主が、わたしに救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」