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2012年3月4日 ルカ10:1-16「実りは多いが」

2012年3月4日 聖書朗読  ルカ 10:1-16

    聖書の話し    「実りは多いが」

序)主イエス様は、ご自身の来臨をあらゆる地に知らせるために、先触れを大使として遣わされました。先には、12使徒たちを、そして今回は70人を遣わしました。キリストのお教えを受け入れるように、人々の心を備えさせるためでした。福音のための働き人として召されている人たちはこの段落を良く学ぶ必要があります。また、主イエス様を家族や友人達よりも、先に信じる事を許された私たちも同様に、この段落を学ぶ必要があります。それは、救い主の先触れとして,先に救いに与った使命があるからです。

 

Ⅰ 福音宣教の緊急性

1 主イエス様は派遣にあたって「実りは多いが、働き手が少ない。だから,収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」といわれました。

主が,今回70人を一度に遣わされたのは、現状を「実りが多い」が「働き人がすくない」と理解しておられたからです。「実りがおおい」。キリストの御国に入れられる救いの民が大勢いいるという事です。それを一人で収穫していては間に合わない。大勢で一気に収穫しなければならない。救いの民の多さと彼らが救われる事の緊急性があるのです。時が良くても悪くても、ぐずぐずしておれない。だから働き人は一人でも多い方が良い。

使徒パウロも主イエスのお心を汲み取って、若い弟子テモテに次のように言っております。「神の御前で、また生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私は厳かに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。」(第二テモテ4:1)パウロは御国の完成の日の近い事を覚えて、みことばを伝えよといっているのです。

多くの人々が、霊的な収穫状態にすでにいる。自分の罪に泣き、人生の不如意に苦しみ、自己の空虚と無力感を覚えている人々である。彼らに福音による神のいのちと希望を伝えて、神の国に招き入れなければならない。完成の日の近さを覚えるとき、伝道の働きが世界的な広がりで、緊急に行われなければならない。

私たちの近辺にいる人々にとっても、人生の終末は迫りつつある。いつ死に見舞われてみ国に入る機会を逸してしまうかもしれない。自分より年上の者が先に行くとは限らないのです。自分の子供のほうが先に死ぬかもしれません。私たちは自分の周りにある収穫の多さに気づいて、その緊急性に目覚め、主イエスを紹介し、あかしし、先触れしなければならない。

2 その働きは主イエス・キリストに先立つのです。収穫の主が働かれる世界という畑、日本という畑、家庭という畑に先立って遣わされ、準備的な作業をするのです。いうならば、働き人は、それが誰であれ、「収穫」について最終的責任をもち、最後の仕上げをするのではありません。最後の責任はイエスご自身と遣わされた聖霊様の御手にあるのです。

その先触れたちの証を聞き,主イエスが救い主であると聞かされた人々が、救いにあずかるかどうかを可能となされる方は聖霊です。伝えるものはその準備をするのです。自分の能力、あかしの働きにおいてベストを尽くすことにより、人を救えるのかというとそれは聖霊様の働きにかかっているのです。ましてや牧師、伝道者、信徒自らは、人間的弱さを負っており、伝道上多くの過ち失敗を免れません。主は、私たちの働きの良い点はみごとに用い尽してくださいます。失敗した点は正してすべての事が益であるように計り、栄光を神に帰して、御国を完成して行かれるのです。

だからこそ、私たちは自分の欠け目を恐れずに、働き人を続けられるのです。自分の任務の限界をわきまえる事です。謙虚に仕えることです。

私たちは自分が受けた福音の宝をただ素直にありのままを宣べ伝える事が必要なのです。

3 遣わされるにあたって、もうひとつ覚えておくべきことがあります。それは3節にあります。「さあ,行きなさい。いいですか。わたしがあなた方を遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。」神の国の王イエス・キリストの使者が、実に狼の中に送り込まれる小羊と,初めから言われています。遣わされる場に、待ち受ける危険の数々、福音の使者を飲み込み、荒らし、掻き裂こうとしている存在がある。世界中に福音を信じられると困る人々や組織がある。キリストの福音の広がりを阻止しようと働いている。また、牧師、伝道者、宣教師の働きを惑わそうとしている人々もいる。遣わされた者の精神と勇気をくじこうとする人々もいる。無力、無抵抗、素朴、単純な小羊のような存在はひとたまりもなくやられる。

しかし、一人一人が蛇のような賢さとハトのような素直さをもって祈りにおいて勇気を支えられ、精神を鼓舞されてゆくならば、あなた方を受け入れてくれる平安の子らを発見するだろう。主は、狼に対するに虎を用意されなかった。小羊だと言われる。そのことは伝道の働きが生ける神によって、豊かに推進されてゆくことを示します。人間の力や勢い権力によってではないのです。

 

Ⅱ このような心構えを持って、何を伝えるのでしょうか?

1 9.11節「神の国が近づいた。」この「神の国」の近さは、時間的近さよりも、場所的近さを示します。原語の使い方でわかります。神の支配の国は、主を信じる一人一人によって、構成されているのです。そしてキリストの来臨により、神の国は人々の中にすでにあるとまでいわれています。福音が語られるところ、そこに神の国は来ているのです。あなたの近くに神の国は来ている。あなたもぜひはいりなさい。神の国の中身を知ったならば、人は自分の全財産を費やしてでも、その宝を買おうとするほどにすばらしいのです。福音のメッセージは、そのようにして、人々に神の支配の近さを気づかせてゆくことにあります。

2 ところが、人々は、なかなか近くに来た神の国に入ろうとしないのです。そのような人々には「10〜16節」が警告として残されているのです。

福音を聞いた者の責任がここに記されています。ソドムは、その絶望的なまでの、悪徳、放蕩、不義により、神が火と硫黄で滅ぼされた町です。ツロ、シドンは、この当時、不信仰と高慢の代名詞のように、思われて、ユダヤ人たちに軽蔑されていました。それに対してコラジン、ベッサイダは、主ご自身の力あるわざや、福音を明確に聞きました。弟子達も遣わされました。ところが、このコラジン、ベッサイダは、福音を受け入れませんでした。今、行われているような力ある業、福音の宣教がソドムで行われ、ツロ、シドンで行われたならば、彼らはとっくに悔い改めただろう。だから、神の国が近くに来てすぐそばにあるのに受け入れないなら、裁きの日にその責任は大きく問われる事になります。

人は、福音を知るチャンスにどれだけ恵まれているかによって、さばかれるのです。子供にとっては大目に見られ、ゆるされることでも、成人には許されない事柄がたくさんあります。未開発の国に大目にみられることでも、開発国には罰せられる事があるとおりです。

福音を聞かないで死んでいった大昔の人々、先祖たちはどうなるのか、と問いかける前に、福音を一杯聞いているあなた自身の身をこそ案じなさい。また福音を聞くチャンスに恵まれ招かれていながら、断り続けている人々の行く末を案じなさい。

Ⅲ 派遣された者の権威

あなた方の伝える福音に耳を傾ける者は、主イエスに耳を傾けるのです。そして、拒んで耳を傾けない者は,主イエスを拒んでいるのです。それは主イエスを天から遣わされた父なる神を拒むのです。

主イエスはここで、派遣される者に与えた権威を考えつつ、神の国が近くにあり、福音伝道が行われているのに、受け入れないで拒む者たちの、思い違いに目を留めて警告をしておられます。その思い違いとは何でしょうか。それは福音を伝えているヨハネやペテロやヤコブたちが身分の低い者たちであるので、彼らの伝える福音も価値がないだろうという思い違いです。そのメッセージの価値や卓越性は軽んじても良いと思っていることです。弟子たちは漁師出身や、取税人出身であったのですから。

今日でも、ほとんどの人々が彼らと同等の人々と、あるいわ彼らが軽蔑し学問においても財産においても品性においても自分たちよりも劣っていると見なしている人々によって、福音が伝えられるとき、なかなか従おうとしないのです。みことばの教え、主イエスの命じられることばであっても、それを軽んじ自分たちの身勝手な生き方を肯定し,推進しているのです。

しかし、主は、述べ伝える者が純粋で誠実にみことばを伝えている限りは、その伝える人々への敬意をもって耳を傾け受け入れるその姿は、主イエス・キリストに対しておこなわれたものとして認められると、ここでいっておられるのです。というのは、神のことばを人間の口を通して聞き、私たちが受け入れるとき、それは神ご自身が天から下って来て、神のご意思を伝えるのと同様にとり扱われるからです。そのように神が礼拝されているのです。

そして、神から遣わされた人々によって、もたらされた私たちの救いの証言は,天から私たちの耳に響く神の声と同様に、権威があるものであります。私たちはそのように伝えられたみことばに強い確信をもつようになります。

主イエスの絶対的な王の王、主の主としての力と権威を支えとして、その遣わされた者が託されたみことばを語る時に、その奉仕者が、いかに小さく卑しくても、その者に耳を傾ける事を拒む者は、その人に対してではなくて、その人を遣わされた主イエスご自身を侮辱する事になり、ひいては神ご自身を侮辱することになるのです。

主は、このようにして、派遣しようとしている70人を励ましておられます。彼ら自身に権威があるのではなく、彼らを遣わされた主ご自身の権威により、みことばを正しく真実に誠実にかたらなければならない。聞くものもそのように聞かなければならない。その時、主イエスの福音のいのちと力は受け入れる者の中に働き救いをもたらし、神の国に入る事を得させるのです。

 

結び)「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ,神はみこころによって,宣教のことばの愚かさを通して、信じるものを救おうと定められたのです。」(第一コリント1:21)「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強いものをはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を,神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため,無に等しいものを選ばれたのです。」(27〜28節)

ここに宣教の基本方針があります。これは主イエスによって、ここで実践されたものです。すべては,しかし、神自身の支えのもとに行われます。その力と知恵を信じて、遣わされて参りましょう。収穫は多いのですから。

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