2012年4月1日 受難週 説教 ヨハネ12章27〜36節
「もう一度栄光を!」
序文)今年の受難週の説教は、ヨハネの福音書に沿っておこないます。早天祈祷会、受難日礼拝、イースター礼拝まで連続して講解説教します。イエス様がエルサレムに入城されて、十字架にかかられ、死に、葬られて、三日目に復活されるまでの一連の出来事を学びます。主イエスさまによって、私たちのための身代わりの尊い犠牲がどのようにして払われたかを追体験しましょう。喜びと感謝のイースターを迎えられますように、いのりつつ日々を過ごしたいと存じます。今朝は教会歴により「シュロの日曜日」と言われています。
Ⅰ 心騒いでいる主イエス様 27節
1 十字架の受難を目前に控えて、地上生涯最後の一週間に突入したイエス様は、いよいよ最大の苦しみに遭われます。イエスの人生で最大の危機です。その時に、主イエス様は、「心が騒いで」おられました。使徒ヨハネはイエス様のゲッセマネの祈りの部分を省いています。しかし、ここに、主イエス様の人間性の激しい部分をヨハネはしるしました。それは私たちの罪のために身代わりになる苦悩を「心が騒いでいる」と表現しています。それは、罪を知らない方が、罪とされた為に起こりました。「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」(第二コリント5:21) 生まれながらの罪人である私たちも、日々の生活で罪深い事をしたら心が騒ぎます。動悸がはげしくなります。後々まで、心が咎めつづけます。主イエス様は生まれた時から聖霊の守りの中にあって、罪の無い方でした。その方が、初めて私たちの罪の全部を負うときに感じられた重さに「心を騒がして」おられる。同時に死という最悪を恐怖する人間として、心を騒がされました。ヨハネは、イエス様が心騒がした場面を、ここを入れて、三度書いています。人々の悲惨な状態に出会われたときに「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」(ヨハネ11:33)られた。ラザロの死に直面したときでした。これは人間の死にたいする憤りでした。罪がもたらす悲惨な結果にたいして、涙を流されました。また、イスカリオテのユダの裏切りを予告する時「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あながたがのうちのひとりが、わたしを裏切ります」(ヨハネ13:21)。人間の神の子への裏切りの場面を予測して、最悪の罪を犯そうとしている者への怒りが心を騒がしました。今回は、ご自分に私たちの身代わりとはいえ、負わされた罪そのものを実感されたのです。このことで、間違いなく私たちの罪を、主は背負われたことがわかります。
2 それで、「何と言おうか。What shall I say ? ティ エイポー(ギリシャ語で二言)」「父よ。この時からわたしをお救いください。」と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」
「この時」とは、十字架にいよいよかかる時である。十字架が迫っている。イエス様は選ぶ事ができる二つの道があった。十字架から逃れることを求める事もできるし、それを乗り越えてゆくこともできる。どう言ったら良いのだろう。人としての感情をどのように表現したらよいのだろう。心の中に激しい戦いがあった。当惑している。苦悩している。イエス様は人間として本能的に死に直面する危機にたいして避けようとする反応を示された。「父よ。この時からわたしをお救いください」と実際に祈られたととることができる。あるいわ、推定上の祈りとして「父よ。この時からわたしをお救いください。」と言おうか。ともとれる。いずれにしても、これは、十字架を乗り越えてゆくことのいのりです。十字架を避ける事を求める祈りではない。それは最初の感情の反応よりも、もっと奥底にあった真実な意志的な反応が「いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」と結ばれているからです。ゲッセマネのいのりの最後に「みこころがなりますように。」と祈られた響きがここにあります。ご自身を地上に遣わされたみ父への忠実な従う心が意志的に表現している。
3「父よ。み名の栄光を現してください。」主イエス様は十字架の死を遂げることにより、父の栄光が現されることを知っておられた。ご自分が十字架から逃れて救い出される事ではなく、十字架を負いきる事で現される父の栄光がある。罪人を愛してみ子を遣わされた父の栄光が示される。ひいては、それに完全に従われたみ子の栄光が現されるのです。「御名があがめられますように」との主の祈りの精神が見事に、ご自分の苦難と死と犠牲においても祈られているのです。
Ⅱ み父からの励まし 28節
1 「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」天の父が、ご自身の声を出された。これは大声であった。人々は雷がなったと思ったほどでした(29節)。
天の父が、人間に聞こえる声で語られた。これは奇跡である。イエス様の生涯で過去二度おなじことがありました。最初は、公のご生涯の始まりでした。洗礼をバブテスマのヨハネから受けられた時でした。罪のないみ子が罪の悔い改めのバブテスマを受けられたのでした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(マルコ1:11)。次は、山上の変貌の時でした。これはイエス様が十字架上の死を始めて弟子たちに予告したすぐ後の出来事でした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞きなさい。」(マルコ9:7)。今、目前に十字架が迫っているのです。み父の栄光は、すでに二回にわたって天からのじきじきの声で現されました。また主イエス様の各地をめぐる伝道旅行で、み名による力ある奇蹟が行なわれました。しかし、これからは、人間の目には全く無力とおもえる十字架であり、弱々しく感じられる歩み方であり、抵抗も無くやられぱなしにみえるのです。最後はいわゆる非業の死です。それこそが主イエス様の地上においでになった最大の使命でした。「また、もう一度栄光を現わそう。」と言われたのです。十字架のつまずきに対して、み子のために、弟子たちのために、そして後の時代のすべての信徒のために、天の父は声をだして「十字架は栄光を現す、栄光に満ちたものになる。」とはっきりと語られたのです。
2 これほどの励ましはありません。十字架を通して復活はおこり、神の栄光は溢れ出し、栄光の勝利の再臨と主の主、王の王としての最後の審判において示される主イエスのお姿の中に絶対的な栄光をみるのです。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなく、あなたがたのためにです」(30節)。とイエスは言われました。
3 人々の反応は、イエスが神の声と理解されたのにくらべて、聞く耳をもっていなかった。雷だといった人々は、物質的にしか霊的な事柄を理解しない傾向の人たちを代表している。もう少しましな信仰的に物事を考える人々の理解は「御使いがあの方に話したのだ。」というのです。私たちは、明白な父からの励ましの声を、聞く耳を持ちたいものです。
Ⅲ 主イエス様がご自分の使命を説明された 29-36節
1 「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分の所に引き寄せます。」
イエス様が使命を果たすということは、この世のさばきをすることです。これから十字架に向かって悪と戦う事になる。それは、アダムの罪により堕落した秩序を回復する戦いである。アダムに罪をおかさせた悪魔、この世の支配者に従って堕落をしてしまった秩序をくつがえし、神に従う民を獲得する戦いである。それはイエス様が十字架に至るまで神に積極的に従われたことで、人間を不服従に誘い込んだこの世の支配者を追放するのです。のちにイエス様は言われました。「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです」と(ヨハネ16:11)。世の終わりにおいて、最終的には、徹底した勝利を主イエスさまは治められました。「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいるところで、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける」(黙示録20:10)。
2 「わたしが地上から上げられる」とは、前にも言われたことばです。「モーセが荒野で、へびを上げたように、人の子もまた上げられなければなりません」(ヨハネ3:14)。イエス様は律法学者とパリサイ人に向かって「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、・・を知るようになります」(ヨハネ8:28)。いずれも、その意味するところは、イエスの十字架のことです。イエス様にとって十字架は敗北ではなく、勝利なのです。ですから「わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」(32節)ということができました。「イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。」
ところが、人々はこれを理解できなかった。「人の子」は旧約聖書ではメシアすなわちキリストを指していると人々は理解して、人の子は死なないと理解しているので、上げられると言われた事を受け取る事ができなかった。イエス様は「人の子」はご自分を指しているのですが、ここで、不信仰な彼らを説得することを止めた。
3 その上で、信仰を持つようにとの訴えをなさった。「あなたがたにひかりがある間に、光のこどもとなるために、ひかりを信じなさい。」世のひかりとして歩まれているイエス様がともにいる間に信じて、いのちをえなければならない。不信仰をあらわにして逆らう事を止めて、信仰によりひかりのこどもとして真実にあゆむようにと勧めている。
結び)イスラエル人は、ここに至ってもなお、最後まで不信仰を示している。それは主の宣教の始めからのおはたらきにたいする、反復されつづけた不信仰であって、彼らが最後の裁きにあっても言い逃れることはできない。主イエス様を遣わした父なる神は、私たちの救いのために、用意された十字架に上げられるという使命に向かって、ともに積極的に進まれた。私たちは、ひかりのあるうちにひかりの子として信仰の歩みを全うしてまいりましょう。イスラエル人と違って、わたしたちはすでに十字架と復活の福音をうけているのですから、イエス様の恵みに励まされて、もう一度栄光を現すといわれた天からの声に期待して、教会を形成してまいりましょう。