2012年4月8日 バイリンガル イースター礼拝
ヨハネ20章1ー18節 「 復活の主との出会い」
序文)主イエスが復活された朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤはイエスが葬られた墓にやってきました。墓の入口にしてあった大きな石の蓋が取り除けてあるのを発見し驚き、急いでペテロとヨハネに報告しました。二人はマリヤとともに墓に急ぎその事実を確かめました。しかし主イエスがよみがえられたことを理解しませんでした。それで自分たちのところへ帰って行ったのです。そのときにマリヤは帰らずに、墓の外にたたずんで泣いていました。その彼女が、しばらくのちに弟子たちの所にいって「私は主にお目にかかりました。」と弟子たちに告げた。この大変化を、今夜のメッセージとしたいと存じます。
1 マリヤは泣いていた
マリヤが墓の外に立たずみ泣いていた。なぜ、泣いていたのでしょうか?
私たちの心は失ったものに目をとめるのです。特に愛するものとの過ぎ去った交わりや、分かちあった喜びや、楽しみを忘れがたく、覚えつづけるのです。そして墓の前では多くの悲哀を味わうのです。墓は何の慰めも、益ももたらさないのです。茫然とし、何をやっても、だめだという思いにかられるばかりです。そこには死があるからです。少なくとも、主イエス・キリストがよみがえられるまではそうでした。
マリヤがなぜ泣いていたか。それは彼女が深く主を愛していたからであります。愛する者のそばに、たとえそこが墓であっても近くいたい。主イエスに近くいたい。慕っている。それで彼女は、思いがけず、恵を受けることとなりました。自分の所に帰ってしまった弟子たちと違って、彼女に天使が現われ、次いで主イエスご自身が現われて慰めました。
主のよみがえりの事実をはっきりと見て確認する特権を最初に受けたのです。「なぜ泣いているのですか。」と天使も主イエスも声をかけてくださいました。よみがえられた主が最初に姿を表わし、声をかけ、交わりをされたのは、この泣いていたマリヤでありました。
さて、現代において、主イエスにあって既に葬られた、わたしたちの愛する者たちについて同じようにしているときに、彼らは主イエスさまと違うから、先生がいくらそういっても、慰めにはならないと考えておられるかもしれません。しかし、愛するものたちは、この主イエスのいのちのうちに包まれて、今、天に生きているのです。
墓のそばにたたずんだままのような生活を続けているあなた、まるで何物も慰めることはできないかのように泣いているあなたに、主は「なぜ泣いているのか」といわれる。それは責めておられるのではなく、ご自分がなしとげられたよみがえりの事実に心を向けてもらいたいからです。そのことが私たちの愛する者たちの永遠をどのようにすばらしく変えたかを知ってもらいたいと願っておられるのです。しばらくは、泣き続けてもよいでしょうが、いつまでも自分の感情だけを大事にして、救い主イエスさまのわたしたちへの思いを無視しつづけてはならないのです。そのような歩みは泣いている自分を大事にしているだけであって、主イエスさまも、天にいる、愛する者たちの現在の満足をも無視しているのです。天にいる貴方はいいでしょうが、地上いるわたしは悲しいといっているだけなのです。
事実は、主イエスはマリヤのすぐそばによみがえっておられたのです。マリヤが墓にきたときに墓に右の封印がしたままであって、その中にイエスのからだが横たわっているままなら、いつまでも泣いていてもよかったでしょう。「なぜ、ないているのですか」などと誰も問いかけたりしないでしょう。しかし、イエスのからだはすでにそこにはなく、よみがえられた。からだがなくなっていたことは、良いしるしでした。救われるべき人間にとって喜びの原因となった。もし今日、主イエスが約束どおり再臨されれば、あなたの愛する者たちの体は墓にはなく、既に天に召された霊とともに結び付いて栄光の内に完成されるのです。葬られている体を思うのでなく、天に既にいる霊を思い、その体の贖いをこそ、覚えるべきであります。
2 すがりついてはいけません
わたしたちはマリヤが主イエスにすがりつこうとして、止められた事の意味を深く知らなければなりません。マリヤは主イエスを地上での交わりの延長線上でしか理解しようとしませんでした。それもやむをえないと考えます。大きな悲しみから救いだされ、驚きの思いに満たされ、自制することができずに、自分の身をイエスの足もとに投げだして、すがりつこうとした。マリヤは自分の気持ばかりを大事にしたが、主イエスは救いの完成のことを考えておられました。天の父のところに上って一切の権成を受けて神の右に座すときに、信じる者を完全に救うことができるのです。
また、主イエスは他の弟子たちのことも考えておられた。復活の朝、次々と弟子達の前に現われてしなければならない、物事の順序があった。それをマリヤはすがりついて、もうどこにもいかないでくださいといわんばかりであった。マリヤは地上のイエス人間イエスばかりを考えていたが、主は父のみもとに上っていく自分を考えておられた。それは神の子としてのご自分である。キリストの肉体的な存在を過大評価して、「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神」であることを忘れるのはいけない。目に見える体で一部の弟子たちと共におられるということよりも、さらに深きつながりをもって全世界の弟子たちとともにおられるという変化なのです。独り占めできる主イエスではなく、すべての造られたものに迫られる主なのです。彼女の信仰が利己的な振る舞いをもたらし、自分の占有物かのようによみがえられた主と交わろうとした。感情的に熱情だけでとらえようとした。しかしそうではなく、天の神のみこころを思い、今は天においても地においても一切の権威を持っておられる主イエスの存在をこそ思わなければりません。よみがえられ、天に昇られた主は、わたしたちの考え及ぶところよりも、はるかに高く、力強く、大きく、深い存在であることを忘れてはなりません。
3 弟子たちに告げよ
主イエスを信じたことは、自分だけが楽しんでおればよいという次元でなく、一人悟って主のまわりにまとわりついておればよいというのではない。信仰は道楽とはちがうのです。他の人に仕える働きが求められているのです。使命があるのです。他の人に福音をつたえるとか、救うとか、愛するとか、世の光、地の塩となることが命じられている。マリヤは主のご命令に従って「私は主にお目にかかりまた。」と言い、また、主がこれらのことを話されたと弟子たちに告げました。
わたしたちも、マリヤと同じように、嬉しい福音を告げしらせる使命をよみがえられた主から受けているのです。あなたの信仰が、すがりつく段階から、使命を担って告げてゆく段階に、今朝、高められますようにと祈りましょう。
結び)主イエス・キリストは、今も生きておられる。私たちと共におられる。この真実は、2000年を経た現在もかわりはない。マリヤが弟子達の所にいって報告した。また、それを聞いた弟子達が、わずか数人の不安におびえていた、あの弟子たちが、全世界に出ていった。殉教の死もおそれることなく恵みの福音を宣べ伝え、行く先々で、永遠のいのちの恵みを分かち与えてきた。 人を新しく生まれかわらせる主イエスの復活のいのちはまことに信じる者に豊かに与えられるのです。