2012年5月13日 主の祈り シリーズ4
マタイの福音書 6章9-13節 「みこころのなりますように」
序)先週 御国が来ますようにと祈ることの意味をまなびました。神様の全き支配に、すべてのものが服すようになることを祈るものでした。ここから直ちに第三の祈り「み心の天になるごとく地にもなさせたまえ」が導き出されます。神様が神様として天地をご支配されるということは、具体的にはそのお心が実現すると言うことなのです。みこころ、とは、神様の「お考え、計画、予定、決定」といわれる事柄の総称です。
Ⅰ 「あなたのみこころ」
人は誰でも自分の考えに従って、自分の計画により歩んでいます。生まれながらにして人は自分中心の歩みをしています。生まれながらの人は、神様のみこころを知ることも、自覚的に行うこともできません、またそうしたいとも願いません。第一コリント2:14「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」
ですから、生まれながらの人の生み出した思想、宗教というのは、神の聖霊のおもいを、心に悟ることが無いので、神の国のゴールに向かう指針として、頼りにすることが出来ないのです。この世の知者、有力者、学者、論者の目には、神のみこころは愚かに見えるのです。聖書に示されたみこころ、歴史を通して表されたみこころを悟ることが出来ません。
人は神様無しでもちゃんとやってきたし、これからもやってゆけると自己主張し、自己絶対化をするのです。先週申し上げましたような「核時代」になっても、神なしで突き詰めて行こうとするのです。それぞれが自分の考えをもっているのだと言うことによって、お互いに理解し合うことが難しくなってきています。この傾向は強まりこそすれ弱まることはありません。自分ではよく分かっているつもりなのです。実際にはそれぞれにてんでに勝手な考え、主張があって分からなくなっているのです。しかし本当の所は、この世界は神様のみこころ、神様の永遠に定められた、みこころ(聖定)にしたがって進んでいるのです。
箴言19:21「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」16:9「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」
へブル6:17「そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。」
真理そのものである神様が、あえて誓ってまで、そのおこころ、計画の不変であることを保証された。朝、考えていたことを夕方には変更してしまうような人間が、このような神様を愚かであると侮って勝てると思い上がって高慢になっています。実に愚かと言うべきです。
むしろ主イエス・キリスト様がゲッセマネの祈りで示されたように「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」と、人は祈るべきでしょう。祈りのこころは、わたしのこころがなりますようにではなく、あなたのみこころがなりますように、です。
Ⅱ 「みこころを知る」
神様のみこころを知ることは、どうしたらできるでしょうか。
1 基本的態度
ヨハネ7:17でイエス様が教えられました。「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」みこころを行いたいと決心しているなら、わたしたちの信仰がどのような段階でもかならず知ることが出来ます。
従順であること。神様はみこころを全うさせるために、旧約聖書に記されているヨセフの歩んだ道を、私たちに歩ませてくださいます。その歩みは一歩づつ示されると言うことです。
性急であってはならない。イザヤ52:12「あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。」
2 みこころが示される原則
私たちを 一層 へりくだらせる方向へと示される。
私たちが 一層 神ご自身を信頼する方向へと示される
私たちが 一層 人生において実を結ぶ方向へと示される
私たちが 霊的に高い状態から低い状態へとおちいるようには示
されない。
3 神様のみこころが示される方法
聖書 聖書は神様が人間に神について信じなければならないこと、
神様が人間に求められる義務は何かを教える書物です。神のみ
こころがあらわされているのです。
ですから基本的に、聖書にすでにあらわされている真理に反対する様なことはみこころではないのです。聖書を絶えず読むことの必要がここにあります。
聖霊の導きにより神様のみこころを知ること
この場合わたしたちが祈りをもって集めた資料を通して、また、摂理的な展開の中で聖霊はみこころを示されます。自分の意志でなく神様の意志を行う決断がついている限り、聖霊はみこころを示されます。神のみこころが示されると、私たちのこころに平安が与えられます。また、環境の中に祝福と神様の臨在、ともにおられることが示されます。
信仰の先輩たちのあかし 同様なケースを経験し、取り扱いを受けた。
Ⅲ 「天におけるごとく地にも」
主イエス・キリスト様は、この祈りにおいて、神様のみこころが天の御国では100%行われていることを前提としておられます。天の御国に神様の御心を完全におこなう被造物がいる。天使たちとすでに天に召された聖徒たちです。それによって神様を褒め称え礼拝している。そして地上の全ての者も同じようになることが、主の願いであり、真のキリスト者たちの望みです。
私たちは神様の救いに入れられ、神に子とされたときから、神様の子供らしく人格的にかえられて行きます。聖霊のお働きにより、きよめが毎日徐々に進みます。しかし地上では誰でも完全に清くなることはありません。それは主イエス様のご再臨の時までまたなければなりません。しましそうわいいましても、地上で御心が完全に行われず、不完全であってよい、現状に満足するべきだといってはなりません。
理想はそうだが現実はしかたがない、といった祈りではなく、この問題の多い地上にも神様のみこころがなされるように戦ってゆくのです。努力してゆくことを、この祈りは勧めています。
神様のみこころが、私たちを通して地上に反映してゆくとき神の国は完成されて行くからです。「天におけるごとく、地上にも、ぜひおこなってください。」という祈りです。
主イエス・キリスト様の母となったマリヤの祈りを参考にしてみましょう。ルカ1:38「マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。」
わたしは主に仕えるはしためです。あなたがわたしの主です。どうぞあなたがなされるようにしてください。みこころがなりますように。おこころを実現してください。この姿勢「わたしがあなたのみこころがおこなえますように」と祈ってゆくことが大切です。
ですから神のみこころが、この地上に行われていないことを嘆き、他の人々を非難したり告発したりするより先に、まず自分がみこころを真面目に行うように祈り、努力してゆかねばなりません。
結び)主にあって神の子とされたものたちは、主の祈りの最初の三つをこころから熱心に求めます。この求めなしに日々を歩むなら自分たちの意志に反して、神の大計画が実現するのを見なければならない。その時大混乱に陥ることでしょう。滅びることになります。神様がみこころを地に、実現するのは、あなたをとおしてであり、わたしをとおしてなのです。