2012年5月6日 主の祈り シリーズ3 マタイの福音書 6章9-13節
「御国が来ますように」
序)主の祈りの第二番目を学び、主に新たな期待を祈りたいと願います。先の主日で「み名があがめられますように」を学びました。そう祈るときに神様が神様としてふさわしい栄光と尊厳を受けたもうようにと願い、自分自身も他の人も、まことの神様を聖いお方として認め、そのように礼拝するように願っているのだということでした。
Ⅰ 現実は?
1 ところがそのように祈った瞬間、現実には神様が崇められていないという事実に思いいたるのです。私たちは毎日の生活で本当に神様を神様らしく、父を父らしく現しているか、世の中はどうか。神様の名前はあなどられ、汚され、あざけりをもって迎えられていないでしょうか。
何故、全ての人々が創造主である神のみ前にひれ伏し、へりくだらないのか。み名を広めるために生きようとしないのか。
それは、すべての人間が罪の現実の中に生きているからです。「 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:1-3)
神に逆らう霊的な力、悪魔の支配下に、この世があるからです。「この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを見えなくしている。」(第二コリント4:4)からです。
2 そこで本当に神の栄光がみちわたるためには、罪とサタンの王国が滅ぼされ、神の王国が来るのでなければなりません。「自分の罪過と罪の中に死んでいた者」という現実は、どれくらい恐ろしいか。現代社会は科学技術によって支えられているといわれています。生活の技術を創造的に生み出したと誇っています。しかしそれが何を私たちにもたらしたか。便利さばかりではないことは確かです。例えば昔なら何年間もかからなければ出来なかったことを、今はほんのひとときで作り出すことが出来るのです。それは破壊についても同じです。環境のバランスを崩し、大気と自然環境の汚染と破壊がだんだんというよりも、実に急速にというふうに進みます。その仕返しを私たちは受けているのです。自分の周囲に物質的な必需品が豊富にあり手を伸ばしてそれらを用いる事が出来ますが、その機械の働きを理解するのは一部分の専門家だけです。自分自身でそれが安全かどうか、危険かどうかを確かめる基本姿勢が育たないので、注意を受けてこういう場合は危険ですといつも警告を受けながらマニュアルに従って自己判断をしなければならない。
そのような生活の仕方を喜んでいるかというと、自分の生きる方向性を見失っているままで、技術が生み出した機械にふりまわされて生きる事が多くなってきているのです。そういう風にして生きる意味は何だろうか、目的は何だろうか?
その上、人間はおびただしい核破壊兵器を持っていることによって、昔は一部分の自然のいのちが破壊されても、また再生される余地が残るのとちがい、何十年間も、全く人も踏み込めないほどの徹底した破壊が環境に加えられるようになり、その元にいる人間は絶滅する危機に瀕しているのです。再生不可能。北朝鮮が、衛星を打ち上げると宣伝しながら,実際は核兵器を搭載できるロケットの実験をしていると非難されているのは、周辺諸国に核兵器を打ち込むという危機をあおって、政治的交渉事を有利に運ぼうとする策略であると思われているからでしょう。言っていることと、実際に行なっていることとに間に,あまりにも大きな齟齬があることを経験的に知っている周辺諸国が核兵器を使用するぞと脅してくる事への危機感を強めているからです。
もし歴史を治められる神の存在を人間が知らなければ、人間は自分の歴史を破壊し、それ以後の歴史を無くす事を可能にしたと考える事でしょう。もし全宇宙を被造物として創造された神の存在を信じられなければ、人間は自分たちにとって未来を残すか残さないかを選択する権限をもったと考えるでしょう。そして事実神無しとする世界はそのように考えているのです。今の時代の人間にとって、未来は存在しないという恐ろしさをもって迫っているのです。それは、歴史は継続しないという感覚を持った人間を生み出します。自分自身の歴史さえも突然切れるので、結局もがきながら、今という瞬間に生きることになります。それは若者がそうだというのではなく老いた人々もそうで、自分の人生をどのように感じ取るかということなのです。2001年の9.11ニューヨクの事件はまざまざと、そのことを実感させました。
自分の一生が希望に支えられるか、失望を味わうかということでも、それは未来があればこそで、また、未来に責任を感じる時にのみ、そのように人は生きられるのです。人生を不慮の出来事と偶然とによってでたらめに繋がれた長い鎖、いつ切れるかわからない鎖という意識で生活する。本当に人間は生き生きと生きているといえるでしょうか。
3 何を真理として、何を有効といえばよいのでしょうか。今の時代、自己の生きることへの統一性と方向性を失って混乱の感覚が自分を捕らえ、いらだち、左から右へ、右から左へと漂い、ただしいコースを決めることが出来ない。まことの意味でさまよい歩く人となっている。何がそのような結果を生みだしたのか。
人間が生活を高めようとした技術の使用方法を誤ったためにおとしめたのです。その背後にどのような霊が働いていたのか、罪とサタンの意志は、神の福音の輝きを見えなくしているのです。
逃れの道は?
人間は自分たちの、この現実の苦痛と発作から逃れる道を。二つの方向に求めています。一つは神秘的な内面への道に置いて。自分のための独自な道と称して、薬物依存による神秘の体験、黙想や瞑想の道、新しい禅や、ヨガ、さまざまな究極体験など。
もう一つの道は破壊的な革命の道です。これまでの時代は、今の世界かそれともよりよい世界か?が選択されたのですが、現代は、新しい世界か、それとも無世界かの選択になると気づき始めたのです。だから無世界すなわち核戦争による地球破滅よりも、新しい世界、革命のほうがましだと選ぶのです。そのような人々の目からみると現存する秩序の全体的、根本的変革だけが、あらゆるものの終局を防ぐ事が出来ると信じているのです。そのために「新しい人」が目指されなければならない。ごまかしや武器によって支配される人生でなく、新しい人生をと叫んでいる。しかし世の革命家たちは、その根本にある罪と破壊の霊的存在を認め無いのです。自分たちがその影響下にすでに置かれているとの聖書の神様の警告を無視するのです。そして結局は、より過激な方法で戦うのです。テロリストたちの背後にどのような破壊の霊が働いていることでしょうか。
「新しい人」は、「まことの愛」によって支配される者でなければならないのです。
Ⅱ み国を来たらせたまえ
1 私たちクリスチャンは、このような現実の中に生かされている。そして主の教えられたように「み国を来たらせたまえ」と祈っています。
そもそも、私たちの救い主は、いかなるお方であったのでしょうか。実にキリストこそ神秘の道と革命の道をその身に体現された救い主です。この方を信じる者は、神にみ手によって「新しい人」として生まれるのです。その信じる心は回心であって、罪とサタンの支配から180度方向を変えて、真の創造主・支配者にいます、愛の力の神のみもとに立ち返るのです。これはまさに個人版の精神革命であって、主にあって「新しい人」として誕生させていただいたキリスト者は、聖霊のお働きを身に受けた存在であり、今なお、自己の内奥に、神の霊を宿す存在として、神秘の道、祈りの道をとおして、神のご支配を日常生活の場に具体的な歩みをとおして表現している。主日に礼拝に集うことは、神のご支配に服していることの具体的、積極的表現なのです。
主イエス・キリスト様は、天のみ父との交わりを最も重んじられました。その祈りは日常の全生活の隅々に体現されていました。そして世界を罪とサタンの支配から、本来の神様の支配に戻すために、革命家として戦われたのです。ただ、主イエスさまは武器や過激な方法を用いたりは、なさらなかった。ご自身を罪深く、神に逆らう全ての人々のために、身代わりの十字架を提供することにより、この働きを成し遂げられたのです。戦いの為に必要ならば神の万軍を呼ぶことも出来ましたが、その方法によってではなく、身をささげることにより愛による新しい秩序を、この罪深い世に生み出されたのです。革命の神学と言って中南米や、アフリカで行われている一部過激な教会活動は主イエス・キリスト様の全くあずかり知らない仕業です。
私たちはこの主イエス・キリスト様を信じて、この愛のご支配のもとに召し集められ、この世に福音を語り証しするように遣わされているのです。
キリストを信じる者は、キリストとともに天上の座に着くことを赦されているのです。
2 この事実は、聖書が神の国について教えていることを裏付けているのです。
「神の国」ということばにより示される意味は神の支配、神の統治です。
第一 神が、一切の肉の悪しき欲、それは群をなして神と戦う悪霊を、ご自身のみ霊の力によってこらしめたもうこと
第二は、神がわれわれの一切の感覚をご自身の主権に服させるように形成したもうこと。
これらの点から考えますと、自分のうちから神の支配したもう平安な状態をかみ乱し、その純潔を汚すところの腐敗した要素がきよめられるようにと祈る者は、神の国の中にすでに入っているのです。ですから、神の国はキリスト者の中にすでに来ていると言ってよいわけです。主イエス様がおっしゃっています。
ルカ11:20「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」主イエス様が地上に来られたときに神の国は到来したのです。「神の国は今ここにある、わたしはこの権威、この主権、この支配力を行使している」と。このことばは神の国の実在性と現実性を確証しています。今、礼拝をささげている、この瞬間にも主に従い、主を信じる一人一人の心と生活の中に神のご支配がある。ですから神の国は教会の中にまことのキリスト者、すべての中に現存しているのです。教会の頭はキリストです。
「み国を来たらせたまえ」という祈り、そのように祈る者がいると言う事実が、すなわち神の国が来ている証明になっているのです。
私たちは、神とキリストの国が人々の心に来るようにと祈る。私たちが神を礼拝し、生涯を神に明け渡し、神に導かれるようになる度合いに応じて、神の国は内に拡大します。み国を来たらせたまえ、という祈りにより福音の伝道のため祈り、自分の信仰がきよめられ前進するように、また、人々の回心のために祈っている。
誰々さんが救いにあづかりますようにと言う祈りは、御国をきたらせたまえという祈りに属するのです。
Ⅲ 第三に、神の国は完全な義の住む新天新地のみ国として来ることを知ります。聖句を参照しましょう。「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(第二ペテロ3:10-13)
「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。 最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」(第一コリント15:24-28)
主イエスは再び来られ、敵対するすべての者を燃える火の池に投げ込まれる。すなわちサタンに支配は完全に破壊され、この国は神とキリストの支配するところとなる。
結び)第二の祈りにより、私たちは完全な神の愛の支配に服するみ国が、まだ来ていないことを覚える。サタンがまだ惑わしている事実を知る。しかし同時にすでにみ国は来ている事を、それもキリストを信じる者のうちにも、拡大されることを祈る。福音宣教の業です。そして最終的に神の支配の完成する日を祈り求める。御国をきたらせたまえと祈るときに、み国の民としての自覚と責任を覚えます。具体的なあかしの実行を要求しています。
黙示録22:20「これらのことをあかしする方がこう言われる。しかり、わたしはすぐに来る。アーメン。主イエスよ、来てください。」