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2013年1月13日 礼拝

 

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2013年1月13日(日)主日礼拝

聖書:第一テモテ2:8−15

説教題:「慎み、信仰、愛、聖さ」

 

序文)私たちは前回の説教で、私たちの救いが神様の一方的な選びによるもので、私たちにはその選びに対する何の資格もない者であるのを学びました。それは神様の奥義であり人間の知識を超えるものです。私たちの神様は人格的な方で、主権を持っておられる方です。それは自ら判断し、アクティブに行動する方だという意味です。今日は今日の御言葉を通して公の礼拝における男と女にふさわしい姿を学びます。前回と続き、少し難しい聖書の箇所であり、誤解されやすいところでもあります。聖霊様の助けを求めながらともに学びましょう。

1.男は、きよい手を上げて祈るようにしなさい。

 

8節からは新しい主題に入ります。パウロは公の礼拝における男と女のふさわしい姿を教えています。8節は男に対して、9節から15節までは女に対する教えであります。まず、パウロは8節で、ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。と語っています。パウロは私は願うのですと言っています。実はこの言葉は原語的に見ると強い願いであり、命令の意味も含まれている言葉です。ですから、これは願いではなく命令であります。パウロはまず、男は、お互いに和やかな状態で神様に祈りなさいと厳しく命じています。イエス様もマタイの福音書5:23−24で「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」と教えました。神様に祈り、礼拝する前に人と人の間に平和が先にあるべきだと教えています。人々の間には争っているのに神様とは平和だと言うのはあり得ないことだと教えています。特にパウロは怒ったり言い争ったりすることがないようにしなさいと言っています。当時、エペソ教会の男の間に怒ったり言い争ったりする問題があったからです。それはユダヤ人と異邦人の間の関係に問題がありました。当時、ユダヤ人は自分たちだけが選ばれた民であると思うことで、選民意識が強かったので、異邦人が神様のめぐみに加われるのを喜ばないし、それを拒みました。それで、しばしばユダヤ人と異邦人の間に争いが起こりました。その争いは神様の子供になったものにふさわしくない争いであります。それで、パウロは怒ったり言い争ったりすることをやめなさいと命じています。イスラエルの民が選ばれたのは私たちの救いの選びと同じように、神様からの主権的な選びであります。私たちから何もそれにふさわしい条件と資格があることではありません。ですから、ただ感謝するべきです。ユダヤ人も選ばれた民としてただ感謝するべきでした。そして、異邦人に広がる神様のご計画に喜ぶべきでした。しかし、彼らは高慢なものになって、神様のご計画を拒むようになりました。これは、今日の教会でもしばしば起こる問題です。なぜ、教会の働きの中で男たちが怒ったり言い争ったりしますか。それはプライドの問題です。自分にそれにふさわしい条件と資格があるのに勝手に資格が無い者が動いていると思うからです。その働きが自分だけが選ばれ召された働きだと思うからです。それは大きな過ちです。自分の召しを確認する前に自分の救いを確認しなければならないです。主が何も条件も資格もない者を哀れんでくださったことです。全ての教会の働きは主が哀れんでくださっためぐみの上に立っています。元々誰も教会の働きが出来る条件も資格も持ってなかったです。救われている今もそうです。ですから、教会の働きは上手で、専門的な人ではなくでも神様に仕える心を持つ者であれば誰でも出来るのです。しかし、教会の秩序のために誰でも何でも出来るのではないです。ですから、上手な人で専門的な人の働きが必要で、大切な者です。しかし、上手な人で専門的な人の働きをする人はいつも謙遜で、開いた視野を保つ事が大切です。それは、自分中心の視線から神様の国の広さに目が開かれている事です。それは自分に働きかけている聖霊さまの働きは他の人にも十分に働いている事実を認めることです。お互いに相手を認めるから、お互いに和やかな状態を保つ事が出来できます。それで、神様に祈ることができます。パウロは男はどこででもきよい手を上げて祈るようにしなさいと命じています。聖書に記されている一般的な祈りの姿勢は立って手を挙げて祈りました。ここで、パウロは祈りの外面的なことを話しているのではありません。大切なことはきよい手を上げて祈ることです。すなわち、怒ったり言い争ったりする手、殺人や姦淫、盗んだり、その他、罪を犯して、汚れた手を上げることをしない状態を意味します。もし、私たちがそのような手を上げて祈りなら、神様は私たちの祈りを聞かないです。従って、祈りの大切なのは外面的な問題ではなく内面的な問題であります。

2.女の美しさ

9節では女も同じように公の礼拝に参加する時は男が敬虔な心を持って参加し、きよい手を上げて祈る姿と同じようにきよい心を持って参加しなさいと命じています。続いてパウロは女に対して細かい所まで指導しています。つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服をしないように命じています。つつましい身なりとは女が礼拝に出る時は品があるものを着ることを意味します。控えめに慎み深く身を飾りとは礼を超えることをしないことで、女性としての賢さを守ることを意味します。はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服をすることは当時、はでな髪の形は財産が多いことを現すことを意味します。金や真珠や高価な衣服をすることも同じです。当時に女たちは自分の霊的な状態より他の人がどういうふうに見られるかに大変気をつかいました。それは神様に礼拝する心ではなく、他の人々の関心をもらうための行動でありました。パウロは10節で、むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさいと勧めています。信仰と行いは別のものではなく、信仰の美しい実である良い行いは神様の前にも人の前にも高価な服と宝石を超える価値があるものです。その良い行いによって、女性が本来に持っている賢さが十分に発揮できるし、その美しさが輝くのです。パウロは神を敬うと言っている女は一般の女と同じレベルではなく、神様の前に恥じる事がないくらい品が高い者であると教えています。

 

3.従う心をもって

 

11節からのパウロの教えは多くの女性たちから反発を受けたり、時代遅れだと言われるところでもあります。また、誤解を生み出すところでもあります。聖書は男性中心で女性を無視していると言われる人もいます。それは本当ですか。これから少しずつ学びたいと思います。パウロは11節で女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさいと言っています。静かにすることは文字通りに沈黙することです。それは公の礼拝で話すために出ないことを意味します。第一コリント14書34節と35節でも「教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです。」と教えています。教会では女と妻は語ることはふさわしくないと教えています。それは、教会では女と妻は何も話す事は出来ない事を意味しますか。さらにパウロは12節では女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさいと教えています。パウロは女が教えたり男を支配したりすることを許していません。また、パウロは第一コリント11:6節では女は男の権威の下にあることを覚える為にかぶり物を着けなさいと教えています。しかし、実際に女と妻たちは教会の中で話しをたくさんしています。公の礼拝を時にも、証等色んな時、たくさん話しています。私たちは聖書に逆らっていますか。しかも、今日の教会学校の先生たちはほとんど女性です。公の場でたくさん教えています。パウロのこの教えは古い教えですから無視しても良い事ですか。この教えは女を無視したり、女は男の下にある何が足りない存在であるだと言っているのではありません。パウロはガラテヤ3書28節で「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」と教えています。キリストにあって、一つであり、何の差別も区別もないと宣言しています。女は男と同じく神様のめぐみに参加する同等な存在です。女は公の教会で教えることには制限がありますが、自分の家族の中で子供に教えることまで制限する意味ではないです。ここでは神様が男に与えられた教える職務を強調するために書いています。パウロはその理由を13節から説明しています。その理由の一つは13節で、アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。と教えています。アダムが初めに造られたのは男が女より優れた存在だという意味ではないです。それはただ、創造の順番であります。しかし、この順番は絶対的な神様の主権によるもので、神様が決めたルールであることが大切なポイントです。また、女が教えたり男を支配したりすることを許されない二つ目の理由は14節で、また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。と書いています。女がサタンの誘惑に惑わされ全人類が罪の奴隷になりました。それは女が神様が定めた秩序を無視して、男に従わないで支配することを選んだ結果であります。15節ではしかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われますと教えています。パウロはここで、信じる女にとって四つの信仰の美徳を紹介しています。それは、慎み、信仰、愛、聖さであります。それは女が男より優れるところまで成長が出来る品質であります。最後のところは牧会の書簡の中で一番、難解なところであります。それは子を産むことによって救われますというところです。これは色んな解釈があります。一つ目の解釈は女は女としての全ての条件に従順することで、救いを得ることが出来るのです。二つ目の解釈は女マリヤがイエス・キリストを産むことによって、彼を信じるすべての人が救いを得るという解釈です。三つ目の解釈は女が子を産むことによって救われるという解釈です。四つ目の解釈は女は子供を子育てをすることによって救われるという解釈です。最後の解釈は女は子を産むことがあるにも関わらず、救いを得ることが出来るという解釈です。以上の解釈の中で、最後の解釈が一番妥当だと思います。なぜならば、堕落の罰として女は子を苦しんで子を産むようになりました。それにも関わらず、救いに対しては男と同様であるからです。

結論)パウロは公の礼拝における男と女のふさわしい姿を教えています。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。と命じています。男は自分のプライドや選民意識からではなく、謙遜な姿で、神の国に対する開かれた広い視野が必要です。お互いに和やかな状態で神様にきよい手を上げて祈ることを命じています。女もそれと同じような姿で、礼拝に出る時はふさわしい服を着るように勧めています。外面的に人々から関心をもらう為に行動することではなく、内面的な美しさ、すなわち、信仰による良い行いを通して品がある者になりなさいと教えています。神様の前で行った良い行いによって、女性が本来に持っている賢さが十分に発揮できるし、それによってその美しさが輝くからです。また、パウロは女は慎み、信仰、愛、聖さという美しい美徳を持って主に仕えることを勧みました。しかし、パウロは公の礼拝における女の働きで男を教えたり男を支配したりすることを許しませんでした。それは家族の中で、妻が夫を支配することを許されないことと同じです。女と妻は男と夫に従うようになっています。それはアダムが初めに造られたのは男が女より優れた存在だという意味ではないです。それはただ、創造の順番であります。しかし、この順番は絶対的な神様の主権によるもので、神様が決めたルールであることが大切なポイントです。また、創世記3章16節に定めているように女が男を支配することは許されていません。女が男に従うことは屈辱なことや何が足りない存在がやる行為ではありません。その模範がイエス・キリストです。イエス様が神様に従ったことは屈辱なことや何が足りない存在だからではないからです。パウロは第一コリント11書3節で、「しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」と教えています。神様が「神—キリストー男—女」という秩序を立てたことです。家族の中での秩序も同じです。今日の多くの家族はその秩序が壊れていることです。妻が夫を支配することで、自分の守り、夫の愛を得ようとしていることです。しかし、それが家族に大きな危険や問題を生み出す結果になります。昔、エバがアダムに従うことをしないで、自分の判断によって男を支配することを選択したことで大きな危険や問題を生み出したことと同じです。それは悪循環の連続です。女である妻は男である夫を支配することをやめ、彼に従い、彼がキリストに従うように熱心に祈るべきです。なぜならば、男である夫がキリストに従うことによって、キリストの愛が満たされ時、女である妻を本当に愛することが出来るからです。また、女である妻も男である夫に従うことによって、本当に満たされるからです。また、女は男に従うことを通してキリストに従うことを学びからです。ですから、私たちは自分の考え、知識、経験に頼る事ではなく、神様の御言葉と秩序に頼るべきなのです。そこに真に男は男らしく、女は女らしく生きる喜びと祝福があります。お祈りします。

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