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2013年12月22日クリスマス礼拝

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2013年12月22日 クリスマス礼拝「メシヤの十字架と苦難」ゼカリヤ書12:10〜13:9

★序文)今朝は主イエス・キリストの誕生を祝うクリスマス礼拝です。主イエス様はご自分が地上に来られた目的を次のように語っておられます。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として自分のいのちを与えるためであるのとおなじです」(マタイ20:28)。ゼカリヤ書預言は「メシヤの十字架と苦難」についてもはっきりとしるしているのです。

★Ⅰ 12:10 突き刺された者(メシヤの十字架)への嘆き

1 10節 神はダビデとエルサレムの住民の上に、恵と哀願の霊を注がれる。それは民を悔い改めに導かれるためである。イスラエルは新しい霊ときよめを必要としている。それは彼らの真の回復のしるしである。「罪の認識が罪の悲しみに先行しなければならない。」彼らの罪の認識は「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆く」ことによってくる。「恵み」はここでは犯した殺人にたいする悔い改めが起こる事をさす。ゼカリヤはメシヤが「突き刺される」ことを言っている。

★預言者イザヤも「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(53:5)。と言っている。この預言は、キリストの十字架において成就した。ヨハネが説明している。「また聖書の別のところには、『彼らは自分たちが突き刺した方を見る。』と言われているからである」(ヨハネ19:37)。さらに再臨の主を描いて、「見よ。彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る」(ヨハネ黙示録1:7)。と言われている。すべての悔い改めは、わたしたちのために死なれたイエス・キリストを見上げることからくる。自分の罪がもたらした救い主の十字架の死の痛みを思うことから来る。

★2 その嘆きが、どれほどであるかがしるされている。嘆きの深刻さが記されている。例として、ひとり息子、初子を失ったときの親の嘆き。メギドの平地にあったハダデ・リモンの都市で、ヨシヤ王が死に、それにたいする国民の悲しみと嘆き(第二歴代35:23-25)。

12-14節 ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。王の嘆き。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。預言者の嘆き。レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。祭司の嘆き。

★シムイの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。学者、教師の嘆き。以上、国家の指導的階級の人々を代表している嘆き。あらゆる他の人々にも及ぶ、全面的悔い改め、神の霊的イスラエルにまで及び、キリスト者にまでおよぶ嘆きである。このような大きな嘆きは、他の人と共にすることができない。どの家庭でも、わかれわかれになる。「ひとりで嘆く」のです。悔い改めの純粋さを示しています。

★3 彼らの回心は、聖霊の注ぎ(10節)によっておこる。祈りを持って聖霊のお働きを求めよう。イスラエルのために、世界の諸国のために、日本のために。人々の目が開かれ、神の子の心臓を刺した自分の罪が、いかに大きいかを知るように。また、不従順によってイエスを再び十字架につけていることを悟るように。

★ Ⅱ  ゼカリヤ13:1-9   罪のきよめ

1 1節 御血によってきめられる喜ばしい約束 第一ヨハネ1:9

「罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」この泉、主イエスが十字架に釘づけられたときから開かれていた。キリストが刺し通され時に開かれた。旧約時代には閉じられていた。旧約聖書は、約束により信じる者を救っていた。それが今や、開かれた。イスラエルの民は気づかなかった。荒野のハガルのようであった。神の民の目を開いて見せた。創世記21:19。

★ダビデから住民まで全部に開かれた。この約束はまずダビデの家とエルサレムの住民に与えられた。彼らの多くの罪、憎悪、偏見や反抗がある。イエスの血のきよめは、彼らのためである。次に、わたしたちもイエスの血のきよめを受け入れ、主を仰ぎ見よう。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(第一ヨハネ1:7)。「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。★もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」(ヘブル9:12-14)。

★2 2−6節 偶像の一掃、偽預言者の除去

2-3節 偶像と偽預言者は除き去られる。汚れの霊(旧約聖書ではここにだけにでてくることば)のことである。反キリストの偶像。神の愛は自然の親子の愛に勝つ。いかに親しいものであっても、虚偽と真実を見分け、虚偽は虚偽として断然これを排除するに至る。純粋な教えへの熱心が増し加わる。

★4-6節 偽預言者であることを恥じるようになる。「毛衣を着なくなる」エリヤの真似をやめる。若い時からの農夫であるとよそおう。傷を問われたら、これは偶像礼拝で負ったのではなく、(本当はそうであるが)友人の家で受けた傷だという。「両手の傷」キリストの傷ではない。偽預言者である(第一列王18:28)。サタンの様々な惑わしの仮面がはがれる。

 

★Ⅲ 羊は散って行き

1 7-9節 イスラエルをきよめるための懲罰と救い

7節 キリストがその民のために死ぬことについて、神の同意がある。「剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。—万軍の主の御告げー牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。」

キリスト苦難の預言 13:7 「剣よ」 司法権の力のシンボル ローマ13:4 キリストの死は司法的な行為であった。神の義と関わりがあった。マタイ 26:31 聖晩餐の後で弟子たちに言われた。マタイ26:31-32「今夜、わたしのゆえにつまずきます。わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。と書いてありますから。」

★「わたしの牧者を攻め」 「わたしの」これは普通の指導者ではなく、主のご自分の民への贈り物である。「わたしの牧者」はだれか。=ヘブル語の母音を代えると「わたし仲間の者」となる。A man人間、男 「わたしの次に立つ人」との考えられる。この原語は、聖書でたまにしか出てこない。レビ6:2で「隣人」、兄弟と同義語。職務の上で用いられることなく、常に血縁の関係で用いられる。この人性が神エホバに最も近い関係でつながりを持っている。神性を持っているというほどの近しい関係。苦しみのメシヤに人性と神性があることが、ここからわかる。

★2 マタイ 26:31〜35 「羊の群れは散り散りになる」

イ 神の羊たちである信仰者は、散り散りになる試練にあいます。それは、み国での完成に向かって真実に歩む者を主は訓練して、神のご栄光に結びつけ、役立つものに変えようとされるからです。その時、神様の側では善意を示して、試練にあっている者の心を練り鍛え、主イエス・キリストへの信頼が増し加わるようにと働かれます。み子イエス様はご自分が十字架を目前にしている危機の時に、なお、愛する弟子たちのために示された善意が、ここに記されています。此れからご自分の身に確実に起こる事を予想して、弟子たちに警告されたのです。弟子たちが陥る危機的状態がおこる。

 

★ロ 主イエス様の弟子の中で筆頭であったペテロは、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」と宣言しました。イエス様が「今夜、わたしのゆえにつまずきます。」といわれたのに、その言葉を前面否定したのです。創世記2章で、神がアダムとエバを創造されたときのことを思い出してください。神はアダムに、エデンの園の中央にある木の実を食べてはならない、食べるなら「必ず死ぬ」と言われたのでした。しかしサタンは誘惑して「決して死にません」といいました。真っ向否定でした。このことと軌を一にしています。ペテロだけではなく、「弟子たちはみなそう言った」と記されています。

★案の定、サタンはペテロに襲いかかりました。麦のようにふるいにかけました。ペテロがかけられたふるいは、主イエスの逮捕と十字架の死と迫害への恐怖だったのです。またこの世の誘惑です。私たちを主イエスから引き離し、永遠の滅びに引き込もうとする、現実的な人格的な存在であるサタンは信仰者たちを挫折させることを目的として活動しているのです。ただ信仰者をふるうことは本来神様のお働きであって、それによって信仰者の信仰をためし、強く打ちなおしするために起こるのです。銀を精錬するように信仰を精錬されるのです。神が私たちをためされるときは、神から捨てられたように感じます。これはその信仰が不死のものであるかどうかをためす一つの道です。

★喜びだけが信仰のすべてではありません。主は時には主が恐るべき方であることを示そうとして信仰をためされます。また時には、アブラハムのように最愛の者を差し出すようにとためされます。そのような中で、信じ従いとおすことが唯一の逃れる道となっていることを見せられるのです。本来は神の働きであることをサタンは丁度、ヨブにたいして行ったように、ペテロにしようとして許可を求めました。神はこの求めを聞かれました。ペテロのことは最終的に神の手の中にあったのです。ペテロは性格的な弱さを徹底的にやきつくされ、自我を砕かれてキリストの内に円熟した人物へと変えられて、復活の主の前に残りの生涯を全力を傾けて歩み通しました。その背後に主イエスの善意が溢れていました。

 

★ハ 「今夜、わたしのゆえにつまずきます。わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。と書いてありますから。」と言われた主イエス様は、ルカ22:31 によると、「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」とも言われました 。

★ ペテロの信仰は、なくなる危険性がありました。私たちはどうでしょうか。「立ち直ったら」といわれたのは、つまずく危険性もあったからです。事実ペテロはつまずきました。ペテロの信仰が自分の力により頼む信仰であったのです。他の人のために親切や善意を示したペテロを見ることはほとんどないのです。自分の勢いで生きているのです。自負心や気負い、がんばりから解放されていないのです。信仰が無いのではありません。ただ自分のための信仰なのです。気分や感情が信仰を支配しているのです。

★ 信仰が気分や感情を支配しなければ、とても他の人を長く力づけることなどできないのです。善意の行動を示すことはできないのです。主はペテロのこの危うさを知っておられたのです。主はペテロを良くしっておられました。彼をつきはなさず、あきらめず、取りなしの祈りというペテロへの善意の行動をなさいました。「あなたのために祈りました。」主イエスさまは、今日もわたしたちに「あなたのために祈りました」といって下さっているのです。善意は人間の問題に目をつぶることではありません。目をそらすことでもありません。

★ 弱さは何か、欠点は何か、罪は何かをごらんになっています。はっきりと指摘されます。しかし問題だといって終わらせるのでなく、心から祈って下さったのです。これが善意です。ペテロの現実に失望することなく、あなたのために祈りました。といって下さるのです。それは、私たちが「立ち直る」という明るい未来を見て下さっているからです。立ち直り兄弟達を力づけているペテロを見て下さっているのです。青年の危うい信仰の未来に、教会の指導者であるペテロをみておられるのです。

★つまずくけれども立ち直る姿をみておられる。それで本当の意味で人を力づけるペテロを見ておられるのです。ペンテコステ以来のペテロを覚えましょう。迫害を受けて、主と同じように十字架につけられて死ぬことを選んで栄光を神に帰したペテロを見ておられたのです。主はわたしたちおも、そのように見てくださっておられるのです。

★結び)羊が散ることについては、メシヤが逮捕された夜、弟子たちが逃げたことにのみ制限されるべきではない。メシヤの死後に起った一般的な離散をさしている。8節にその広がりがある。「全地はこうなる。その三分の二は断たれ、戦争、飢饉で死に絶え、三分の一がそこに残る。

9節 「火の中に入れる」これは汚れを取り除くことの伝統的な表現である。溶解状態の「銀」と「金」は混合物や不純物を沈殿させ、こうして火は純金属をえるために用いられる。

★残りの少数者は大いなるこころみにあう。「彼らはわたしの名をよぶ」。彼らが経験したすべての結果、彼らは主との関係において真のアイデンティティー(自己同一性)を見いだす。それは彼らが主を呼び、主は彼らをご自分のものと言われるからである。この少数者はキリスト教に回心した、迫害の火を耐えたユダヤ人ばかりではなく、いまだに散らされた人々や不信にあるユダヤ人も含んでいる。彼らは神の契約の愛のうちに神に帰る。神は昔行われた契約の故に、ユダヤ人を必ずめぐみのうちに立たせられる。

 

 

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