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2013年3月17日 礼拝 音声付き

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2013年3月17日 ルカ14:25-35 [弟子になるには]

序文)主イエス様が招かれたパリサイ人の家を出られた。そこにおおぜいの群衆が待っていて、イエス様の後をついて行った。彼らはイエス様について、この世の王、ローマ帝国から独立を勝ち取って下さる方という期待を抱いていた。彼について行く事が、世の権力と栄光にいたる道と思っていた。イエス様の勝利は、そのようなメシアとしての勝利であると考えていた。また、パリサイ人の指導者の家では、水腫の人をいやされたのを見た。これからも何か、奇跡的な事柄が起こるのではないかとの好奇心があってついて行った。

 主はおおぜいの群衆に向かって、26-35節を語られた。彼らの間違った期待に水を掛けられた。突き放そうとされた。本当の求道者と、おもしろ半分の者、全く別の夢を見ている者を、より分け、ふるい分けようとなさった。

 

 Ⅰ 26-27節 ここで主が語られた語調は大変厳しいものです。「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」「憎む」ということばは、肉的な人情としての憎しみをもって憎むと言う意味ではありません。最愛の者を文字通り憎めと言っているのではありません。イスラエル人が、AよりもBを選ぶ、AよりもBを優先するというときに「わたしはAを憎む」という言い方をするのです。例えば、ローマ9:13「[わたしはヤコブを愛し、エソウを憎んだ]と書いてあるとおりです。」ということばは、神がヤコブを選ばれたことの論証にもちいられているのです。つまり、この26節は「わたしよりも父、母、妻、子、兄弟、姉妹、自分のいのちを愛する者は、わたしにふさわしくない」(マルコ10:37)と同じ事をいっているのです。主イエス様と「父、母、妻、子、兄弟、姉妹、自分のいのち」を同列において、どちらが重いかと考えるようでは、キリストの弟子に相応しくない。まして、単ある好奇心や、自分の夢を実現するためにキリストを利用しようとするのでは、弟子になることはできない。主イエス様を最優先して、そのために自分のいのちとイエス様のどちらを選ぶかといわれたとき、自分のいのちを憎む、すなわちイエス様を選ぶと決断する。このような献身が弟子には要求される。

 

 それは主イエス様が天の神のみこころを最終戦して「わたしの心ではなく、あなたのみ心がなりますように」とゲッセマネで祈られた結果、自分の十字架を負ってゴルゴタに上ってくださったように、神が、わたしたち弟子に求めておられる御心の実現のためには、自分の十字架を負って、従ってゆく事を求めておられるのです。主イエスに付き従う者は、主とともに生死をわかち苦楽をともにする。十字架を負う道であるが、それは栄光の復活にあづかる道でもある。クリスチャンは生まれながらの「父、母、妻、子、兄弟、姉妹、自分のいのち」への愛にも勝ってイエス様への愛をに生きる新しい道をあたえられたのです。

Ⅱ 28-33節 主はつづけて二つのたとえを話されました。

 二つは、主イエスを最優先するときに弟子たちがその道にあゆむに値するかどうか、どれだけの犠牲を払うか、座って良く計算しなさい。

 1 塔を築こうとするとき、十分な費用があるかどうか計算しなさい。この塔は、おそらくぶどう園の塔と考えられている。盗人がぶどう園の収穫をかすめることができないように見張りをするための当が造られた。キゾだけで完成しなければ全く無駄な投資をなる。その上に人々はあざ笑うでしょう。

する以上はよく計画し、計算し、資金を整えて完成させなければならない。

 

 2 どのような王でも、戦う前に、相手の力と自分の側の力を分析して迎え撃てるかどうか考えないわけにはいかない。見込みがなければ、使者をおくって講和を求めるでしょう。軍勢が多ければ必ず勝つと言うわけではないのですが、消耗戦の場合は多い方が勝つのです。イエス様の時代のような背景では、このことばは真理でした。王様は決断を間違ってはいけません。講和を求めることの犠牲と、戦うことの犠牲を考え、勝つと見込みがないときは、多くの部下、自分のいのちも失うことになるから、慎重ならざるをえません。どちらでもないと言う決断はないのです。

 

 主イエス様の弟子となって従うことは、それほどに一切をかけてむかわなければならないものです。主に従う道は、自分の全財産を捨てないでは全うできないほどの大犠牲、出費を覚悟しなければならないのです。ことばを続けると主に従う道、弟子となる道は、それほどの犠牲を払ってでも、従う価値がある大事業であるというのです。

 パウロが次のように言っています。「ピリピ3:7-11」

 キリストに従う事の得、信仰の義を受け、復活の力を知り、それに達するのならば、他の一切の事を損と思い、全ての者を捨てて、ちりあくたと思っていると申しました。

 イエス様のみ国の使命に生き、神の祝福を受け継ぐ者として召された。この召命の道はそのすばらしさの故に、最優先される道であり、すべてを犠牲としてまでも手にいれる道であるのです。

 

 Ⅲ 34-35節

33節までの道は、すなわち、主イエスを最優先する歩み、そのためにすべてを犠牲にしてもよいだけの価値ある大事業を認める歩みをすることになります。当然、主にあけわたしとささげ尽くす事が、求められてゆきます。そのことがなければ「塩気のない塩」のようなものです。

常に自分を最優先して、主を後回しにする。神のみ国を受け継ぐ事業よりも、この地上に富を積んでゆくことに価値の第一位を認める。そのような心を、あけわたして、神のみこころのままにわたしをお用いくださいと祈りしたがうことがないならば、塩気をうしなっている。そのままでは、土地の肥やしにもならず、外に投げ捨てられて、役にたたない。「人々は踏みつける」(マタイ5:13)のです。いわば主のみ国でも役にたたない。この世でも踏みつけられるだけになる。

私たちが、今、キリストの弟子であるならば、それはキリストをかしらとした神のくにのために生き戦い、計画し、生活の場で自分を十分に用いていただいて、あかし人であろうと自覚する歩みを進めなければならない。厳しく激しい局面を備えている。

結び)このように塩味の効いたクリスチャンが、主のみ名のために流す汗も、涙も、血も、すべて塩味を増し加える。それほどに主イエスを愛しうる者は、全存在を通して、イエスの愛を満ちあふれさせる者となる。主に従おうとするときに起こる苦しさ、悲しさ、なみだ、汗、血、その決断の一こま、一こまは、あなたの内に、主イエスへの愛が根を深く、深くおろし始めている証拠でもあるのです。

 

 

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