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2013年9月15日 礼拝 修養会 

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2013.9.15   教会修養会 朝礼拝 聖書へブル人への手紙 5:11〜6:3

聖書の話   「初歩をあとにして」

序文)人のいのちは誕生の瞬間から成長します。成長することがないいのちは異常です。母親の胎内に宿ったいのちは、胎内で日々に成長して月が満ちて、胎外に出現します。子どもが、いつまでたっても成長しないなら問題となり、心身ともにどうしてなのかと調べることとなります。成熟してゆくことは心身共に大切です。自分の思うようにならないと、ぷっとふくれ面をして何もしないとか、癇癪を起こして当たり散らしたり、すねたり、機嫌が悪く、切れたりする。それが幼児や子供の段階で未成熟な場合はまだ許されますが、だんだんと成長するにつれて指導、修正、訓練が加わって成人社会に出て行っても良いようにとしつけをします。

霊的な課題も同じです。神が即座にあなたを成熟したクリスチャンに変えてくださればいいのに、と思ったことはありませんか。成長しようとすると、しばしば苦痛が伴うものです。それに比べたら、即座に成熟したクリスチャンにされたほうがよいと思うことがあります。しかし神は,成熟するまでにプロセスを経験させるのです。

私たちは,皆この霊的成長のプロセスを経て成長します。そこには、自己像の領域も含まれています。私たちは神を知ることによって、神が私たちをごらんになる見方を知るようになります。神の見方があって、神の子供として育てられているというリアリティーに気づくことによって,私たちの自己像が希望を持って発展する土台を安定して築いてゆけるのです。その新しい土台が,信じる前にどのような方法によっても得る事ができないでいた、価値、安全、希望の意識をあたえることになります。自己像のそれぞれに柱は,クリスチャンとしての新しい土台の上で強化され,変えられ、安定したものとされるのです。

この変化は生まれつきの古い柱を強化することではありません。自分自身の神にある再建なのです。古い柱を取って新しい土台の上に立てる以上のことです。古い自分の経験にもとづく見方をかえるために,クリスチャンとしての新しい経験からの洞察を得る事が要求されます。その新しい見方によってこそ,自己像のそれぞれの柱は、単に直すのではなく,再建することができるのです。心の一新が必要なのです。

クリスチャンの成長と成熟への変化は、古い柱を強化することではなく、再建することです。それは無計画に築かれた柱からレンガのすべてをひっくり返して調べ,初めて適切な配置を検討するようなものです。一つ一つのレンガには柱の構造上、適切な場所があることを知って初めて、正しい場所に配置することができるのです。経験というそれぞれのレンガが柱から突き出て,柱の安定にはほとんど役立っていないという状態ではなく、経験というそれぞれのレンガを周囲のレンガを支える最もよい場所に置くのに、建築業者は水準器を用います。神さまの用いられる水準器は、神のことばです。それから聖霊が、レンガを堅固にキチンと適切な場所に保つ,新らしいモルタルとなるのです

Ⅰ 主イエス様は、私たちを信仰に導き、神の子どもとして新しい誕生を聖霊によって与えてくださいました。霊的な誕生のスタートはしたけれども、神を知る知識と信仰に成長しないなら大いに心配です。成長するために聖霊は助け主として内的に大いに助けようと働かれます。その際、聖霊がお用いになる外的な恵みの手段・みことばと礼典と祈りを、子ども達が用いなければ、栄養が行き届かないままで、いつまでたっても未成熟となります。これは大変心配なことです。信仰の成熟、円熟にむかって進まない信仰ほど、霊的な親である神様にとって、心配なことはありません。ヘブル人への手紙の読者の中にこのような心配な聖徒たちがいたのです。著者は、主イエス様のメルギゼデクに等しい大祭司であることをもっと深く解き明かそうと願っていました。しかし、彼は読者のことを考えると「もう、これ以上解き明かしていけそうにない。」と、ここで言っています。実際には7章1節から、再び解き明かすのですが、この段階で、読者に、そのメッセージを受け留める心備えをさせようとしているのです。聞く人の耳が信仰的に未成熟で鈍いために、今、語りたいのだが、後にしなければならない。「耳が鈍い」原語の意味は、「のろい、なまける、無精、鈍感、活気がない」などです。

難しいことを教えなければならないとき、解釈や説明が困難なものを説明しようとするとき、この鈍さの故に止めてしまうことがあるとすれば、これほど悲しいことはないのです。人に教えることの難しさがここにあります。心を閉ざして偏見に陥っている人がいる。怠け心の人がいる。ヘブル人への手紙の著者は、このようなことに直面しながら、しかし教え続けようとしています。どのように伝えようと考えながら努力しています。メルギゼデクをいきなり登場させたのですが、彼は7章で、背景を説明しなおしています。なんとかして真理を伝えることを使命としているからです。

読者たちは、本来なら、教師となっているはずの信仰年齢を経ていました。長い間クリスチャンでした。ユダヤ教徒から改宗したとはいえ、もはや、その信仰は円熟に向かっていても良いはずなのです。それなのに、まだ、初歩の信者と同じ状態にいるのです。神の言葉の「いろは」を手ほどきしてもらわねばならないとは?

自分で神のまえに何が正しいか、誤っているかの判断も十分にくだせないとは?その状態では、堅い食物を摂れない。はたして、このようなことを言われている読者は、信仰をもってから何年ぐらいたっていたのでしょうか?本書の著作年代、読者は誰か、本文の内容と照らし合わせてみて、おそらくは、30〜40年は経っていたと考えられています。それほど経っていても、成人していないといわれている。私たちの教会は、伝道所としてスタートしてから12年目を歩んでいます。まだ、まだ、成人に達しているとは言えません。世間では中学生ぐらいですか。安心出来ません。今から、十分気をつけていなければ主イエス様から、同じ事を将来言われてしまう危険性があります。会員一同が、謙遜になって、ますます主イエス様を知る事において長じ、堅い食物を食べる事ができるまでになりましょう。特別訓練を受けてきた牧師、宣教師以外の方々の中から、長老、執事、リーダーになる者が次々と起こされる事を祈り求めましょう。みことばの学びと生活において模範となり、信仰生活の指導が出来るようになるまでに成長して頂きたいのです。

信徒の成熟度のものさし(霊的、感情的、対人関係の成長)

ケアが必要   →→           →→     成熟

傷ついている  →→           →→     人をケアできる

弱い      →→           →→     リードできる

人格的未熟など →→           →→     訓練できるなど

こどもの祈り→→ほかの人のためにとりなしができる→→主イエス様の栄光を求める祈りをしている

みことばの真理の初歩→→    →→みことばの全体像を把握している→→ひとにつたえ、あかしできる

 

 

Ⅱ 6:1~3 ここで、信仰の初歩といわれている事柄が列挙してあります。「死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばき」などの基礎的な事を再びやり直しないようにしましょう。

1 「死んだ行いからの回心」 信仰は悔い改め(回心)から始まります。神、人、人生、自分について、死に向かって歩んでいた者達が、新しい神のくださった永遠のいのちに向かって、歩みの方向を転換すること。永遠の死をもたらす不信仰な生活態度を改めて、永遠のいのちを育て深めてゆく信仰へと心を変えて生活態度を改めることです。神様の御国の民としての、生活態度に変えることです。態度の一新です。

2「神に対する信仰」 創造主、救い主、導き手、完成者、王の王、主の主を見上げ、第一優先順位を、神に置くこと。「人に従うよりも神に従うべきです。」というペテロの確信ある告白にならうのです。人生の行動、決断の優先順位が、主イエス様に従うことが第一位にあるかです。イエス様の弟子であり、しもべであるのに、イエス様のことは後回しにして自分のことだけが最優先というのは、信仰が未熟なのです。成熟することの秘訣は、神第一なのです。

3「きよめの洗いについての教え」さまざまな洗いきよめの儀式という意味に取るのと、キリスト者のバブテスマをさすと取るのがある。どちらをとっても、「きよめ」という点で一致しています。罪のきよめの意味、バプテスマの意味などは、初歩の教えです。イエスの血がすべての罪から私たちをきよめます。

4 「手を置く儀式」 三つの意味がありました。①罪・悪を転嫁すること。②祝福を与えるしるし。③任職のしるし(聖霊をうけるため)。今、残っている意味は、祝福と、任職のことがらです。洗礼式のときに「きよめの洗い」「手を置く儀式」が一つとなっています。長老任職、教師任職などの按手がこれです。

5 「死者の復活」クリスチャンとして、この復活を信じることなしに信徒となることはないのです。基礎中の基礎ですから。ローマ 10:9「なぜなら、もしあなたが口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」イエス様の復活と、私たちの復活は、キリスト信仰の基礎なのです。

6 「とこしえのさばき」 信じる者達にやがて神の御前に出る日があることを教え、神によって最後の審判が下される、その判断こそ、一番重要であることを教えています。もちろん信じない者も最後のさばきは下り、それは滅びに至るさばきです。人は自分を喜ばせるためではなくて、神様を喜ばせるために、栄光の為に生きています。

結び)完成を目指して進みましょう。今まで、成長が見られなかったとするならば、これからは悔い改めて、前進しましょう。練達した人になりましょう。自分が信じている主イエスさまが、どのようなお方であるかを、さらに深く知ること。聖書の教えるところに従って真理の全体を理解すること。そして事実を知るだけではなくて、その意義を深く洞察し、自分に適用すること、わたしたちは聖霊を受けているのですから、信仰が進むほどにキリストに似たものと人格的になってゆく。自分の欠点を取り除いて頂くと共に、キリストの恵みによって御霊の実を結んでゆくこと、キリストの民としての落ち着きと、気高さと愛を身につけてまいりましょう。

ピリピ 3:12〜16

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