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2013年1月1日 元旦礼拝

2013年1月1日 元旦礼拝 式順

 司会者・説教者 廣橋嘉信牧師

 奏楽者 石川有希姉妹 Vn.石川絢楓姉妹

前   奏

招きの言葉    ハガイ書 2章4−5節

讃 美 歌    411番 すべしらす神よ

開会の祈り

主 の 祈り

讃 美 歌    413番  父のみかみよ

子どもたちへの祝福の祈り

聖 書 朗 読    ゼカリヤ書 4章 6節

聖 書 の 話       「聖霊の動力」

讃 美 歌    499番 御霊よ、降りて

献   金

頌   栄    542番 世をこぞりて

祝   祷           廣橋 嘉信牧師

後   奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

  報告

1  礼拝後、「すきやき会」をいたします。費用:中学生以上300円。

ゲーム・カルタ会等いたします参加歓迎!!また、有志でアメリカン

フットボールをダニエル兄が共にします。

2 6日主日は洗礼式、転入式、聖晩餐式礼拝です。開始時間10:30です。

お間違いのないように出席ください。昼食はお祝いのときとします。

後にリーダー研修会「リーダーの心得」(再考)があります。

3 新年度が開始になります。一年の導きと聖霊による力を祈り求めて、救いの恵みにあづかる方々がおこされ、

信じた者たちが信仰の成熟をめざして成長できるように歩みを進めましょう。信徒総会は20日礼拝後開催します。

構成員は6日週報に掲載します。

 

130101_001   礼拝音声

 

2013年元旦礼拝      「聖霊の動力」 ゼカリヤ4:6

序)ゼカリヤ書のこの言葉の背景は,次のようです。

バビロンの捕囚からエルサレムに帰って来たイスラエルの残りの者たちは、彼らはクロス王からの神殿再建の勅令を携えており、その事業は非常な熱情をもって始められた。ところが、まだ事業がそれほど進展しないうちに、敵対者たちの組織的妨害に彼らは直面しました。偽りと謀略をもって、逆にペルシャ王アルタシャスタから、ただちに工事を中止するようにという勅令を獲得した。敵は「急いでエルサレムのユダヤ人のところに行って、武力をもって彼らの働きをやめさせた。」予期しなかった事の成り行きに、意気阻喪した愛国者たちは、帰還の旅を驚くべき御手をもって守られた神を呼ぶ代わりに、簡単に敵の軍門にくだってしまった。「こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシヤの王ダリヨスの治世の第二年まで中止された。」

1 「勢いをくじく三つの困難」

a ユダヤ人たちは、戦闘能力を失わせる不利な条件の下で働いていた。まず、王を味方とする隣接諸民族の敵意にぶつかった。敵対者のほうが有利な立場にあった。彼らは変転する情勢に応じて、戦術を変えていった。b 彼らは資材の不足に苦しんだ。クロスは寛大にも、神殿再建に必要な費用は、王の家から与えられると布告した。しかし、アルタシャスタの勅令は、この特権を取り消した。収入源を奪われ、彼らはこの大事業に必要な財政的、軍事的資源の操作に行き詰まってしまった。更に悪いことに、彼らの冒険を勇気づけていた高貴な理想がしぼみ、失敗に甘んじてしまうようになっていた。c だが、最も深刻な問題は、指導者の無能であった。総督ゼルバベルは高貴な家の出であったが、折れた葦にすぎないことがわかった。組織的な敵の策略の前に、彼はしおれてしまった。国民の霊的指導者、大祭司ヨシュアについては、「ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。」とあり、結果的には、人々のために神の前で仕える資格を失っていた。民の目に、こうした困難が越えがたい大いなる山のように見えてきたことも驚くにはあたらない。このような時に、預言者ゼカリヤに与えられた主のみことばが「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。」(ゼカリヤ4:7)でした。

2 「希望の幻」

ちょうどこの危機の時に、希望の使信が幻の形で預言者ゼカリヤに与えられた。幻の中の天使のことば「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。」(ゼカリヤ4:9)しかし、これは、「ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」敵の憎悪、資材の不足、指導者の無能にもかかわらず、人々が、敬虔に神の戦略に従うなら、勝利は確実なものとされていた。成功は、ゼルバベルにもヨシュアにもかかっているのではない。人間の権力や能力によるのではなく、彼らを通して働かれる、聖霊の力によるのであった。

幻の中でゼカリヤは一つの燭台を見た。「「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」油をためておく役目のともしび皿は、絶えず二本のオリブの管から給油されていた。

神殿のある金の燭台になじんでいたユダヤ人は、この幻の第一の意味を誤解することはなかった。彼らは、神が、自分たちをこの世にあって光りを保持する国民として選ばれたことを知っていた。けれども、彼らはみじめにもこのことを失敗し、あかしの光は消えるばかりであった。

3 「教会の役割」

燭台の比喩の中に象徴された教会の第一の務めは、暗やみのおおわれた世に光をもたらすことであった。燈火はそのほかにどんな機能を持っているだろうか。光に反応する責任は私たちのものではない。ヨハネ黙示録の中で、キリストがそれぞれ生ける教会を表す七つの燭台の間に立って、あかしの燈火を調べ、評価しておられるさまが描かれている。金の燭台が幕屋で唯一の照明器具であったように、教会は失われた世界に光をもたらす唯一の機関です。教会は光を輝かすために存在する、この点で失敗するなら、どの点においても失敗する。神はこの目的のために、教会以外のものをお与えにならなかった。「あなたがたは、世の光です。」といわれた。そしてこれは派生した光であっって、「わたしは、世の光です。」と言われたかたから放たれた光を反映するのです。闇が今の世界をどのように覆っていることか。偶像崇拝、迷信、残忍、苦悩、悪徳、犯罪、唯物主義、ひねくれた見方に、何と満ちていることでしょうか。教会と教会を構成する各人が、光として輝かなければならないのは、実にこのような状況においてなのです。

だが、いったい教会は。どのようにしてこの機能を果たすだろうか。ゼカリヤ書の幻は、その秘訣を教えてくれている。教会は光を与える力をもっているわけではない。燭台は輝いているが、それ自体で光を放つものではない。光を生み出すのではなく支えるにすぎない。燭台はほかの光源から光を引き出していた。燭台の上に油壺はいつも一杯で、金の管を通して油をランプに送っていた。そしてそれを受けたともしび皿は、オリブの木から絶えず送られる金の油で満たされていたのである。

油の意味は明らかに示されており、それは「わたしの霊」をさす。教会は、聖霊の耐えざる供給と力によってのみ光を放つことができる。ともしび皿は、すべての神の力と資源の宝庫としてのキリストを示している。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちでいるのです。」と、パウロは書いた。御霊の完全な満たしは、キリストの栄光に輝くご性質の中にあって常に最高水準にある。効果的に光りを保持するのに必要なあらゆる性質は、キリストの内に蓄えられており、私たちはキリストの満ち満ちたご性質に常にたよる事ができる。五旬節の日に、待ち望んでいたご自身の民に聖霊を注がれたのも、キリストであった。「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです」(使徒2:33)。今日それと同じ賜物を与えてくださるのも、イエス・キリストである。

4「働きを遂行する方法」

『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。教会の任務は、純粋に人間的な手段だけによっては決して遂行されない。「権力によらず」という句は、「軍隊によらず」、すなわち、人間や手段の集合的な力によらずと訳すこともできる。時には「富」を、あるいわ、倫理的な意味で「徳」を、あるいわ「勇気」を意味することもある。しかしどの用法の場合にも、そこにある考えは人間的な資源である。それだけで十分であるとする考えにたいして、そうではない。聖霊が働かれるのでなければだめである。

「能力」というものも、やはり力を意味するが、むしろ、個人の勇敢さと動力をさす。集団的な意味では決して用いられない。二つのことばをいっしょにすると、教会の任務の成否は、相互に助け合うように組織された人間の結合力だけでもなく、一個人の勇敢さと指導力にかかっているのでもないという意味になる。それはただ、教会の主に召しつめられた聖徒たちを通してはたらく、聖霊の力に全く依存している。教会は、めぐみの外的手段である、み言葉と礼典と祈りを用いられる聖霊の霊的手段によってのみ養われ、維持されるのです。この助け主聖霊の働きなしに、教会の務めは決して成り立たないのです。

教会がその役割を成就することができるのは、神が私たちの行く道を備えてくださるときにのみ、宣教の成果を見る事が出来る。宣教活動が栄える所には、必ず心の飢餓を生じさせ、期待を作り出し、自分たちの偶像宗教に幻滅を感じさせ、また、自分たちが持つ光の暗さを思い知らせる聖霊の働きがあるのです。

「わたしの霊による」とは、どういう意味だろうか。キリスト者のあらゆる働きの中で、助け主聖霊の働きこそ、最も重要だということである。それが、聖霊に導かれている信徒を通して働くのです。聖霊の信徒への導きは、特定の信徒への特権ではなくて、「神の御霊に導かれる人は、誰でも神の子です。」(ローマ8:14)とあるように、神の子どもとされたすべての信徒に共通の体験です。「もし,私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」(ガラテヤ5:25)という勧めも、すべての信徒への勧めであります。「御霊の導き」は、優れた信徒、聖人にだけ与えられているのではなくて、すべての聖徒への恵みなのです。

聖霊は、み言葉と礼典と祈りという手段を用いられます。それらによって、クリスチャンひとり一人を導かれますが、その性質は「私はいいます。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはありません。」とある導きです。聖霊の導きは、私たちが罪に打ち勝つためにあります。この世での困難、危険、苦しみ、試練から救うためにあるのではありません。もしそうなら、使徒パウロほど、数限りない苦難に遭遇したクリスチャンはいない程ですが、聖霊に導かれていなかったことになります。事実は全くそうではなく、彼は御霊の導きに日々に従い通したのでした。聖霊は私たちをキリストの聖さにあづからせるために導くのであり、最終的にみすがたに似るものとならせるための導きなのです。

聖霊の導きが、ある特定の優れたクリスチャンにだけ働き、この世での安全、慰め、利益を保証するためにお与えになるということは間違っています。聖霊の導きは、すべての神の子たちの全生活のあらゆる瞬間に継続的に与えられているのであって、特定に神秘的瞬間にだけ与えられると考えることは間違いです。

「聖霊による」とは、聖霊が霊感を与えて書かせられた聖書を抜きにしてということではありません。第二テモテ3:16,17に、みことばの持つ性質がはっきりと書かれています。「教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益である。それは、神の人がすべての良い働きのためにふさわしい十分にととのえられた者となるためです。」みことばが信徒をふさわしい十分にととのえるためにあるのですから、聖霊が、みことば以外の声を聞かせることはありません。何か神秘的な響きがないと十分に信徒がととのえられないと考える事はまちがいです。

結び)これからの一年間、いままでのように、さらにみ言葉に親しみ、祈りを熱くし、礼典に与り、私たちを通して働かれる聖霊よって、神が私たちに、「働きを完成」させてくださるのを期待しましょう。

 

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