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2013年4月14日 礼拝

 

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2013年4月14日 ルカ15:1-10 [一人のためにも]

序文)14章の学びで、主イエス様は、弟子である者の覚悟と犠牲について話されて、真剣な求道者を御国に導こうとされました。15章では神様が私たちを救うために、何をなさっておられるか、神様のはらって下さっている配慮と犠牲が浮き彫りにされています。有名なたとえ話しが出てきます。今朝は一匹のまよった羊を探し求める神様の姿をまなび、次週は「放蕩息子」(放蕩の神)を学びましょう。

 Ⅰ 話しのきっかけ

 今朝のたとえ話しのきっかけは「取税人、罪人たちが皆、イエスの話しを聞こうとして、みもとに近寄って来た。」と書き出されています。

 主イエス様の話しを遠くから群衆に混ざって聞いていたであろう、取税人、罪人たちは、自分たちも神の国に入れるかもしれないと考えるようになりました。宴会を開いた主人が「街道や垣根のところに出て行って無理にでも人々を連れてくるように」と命じたという話しがパリサイ人の家であったと

その家から出て来た人々が群衆の中で広めた可能性もあります。取税人、罪人たちは、社会のつまはじきにあっており、パリサイ人や律法学者たちの言う通りの生活をしていない者たちだったとさばかれていました。その彼らが、今はイエス様のみもとに、皆で、にじり寄ってさらに詳しく神の国の話しを聞こうとしました。熱心に求めてきたのです。 

 主はこれを喜ばれました。彼らを受け入れました。食事も共になさったのです。他方、この状況を苦々しく見ていたパリサイ人や律法学者たちは、不快さを露にしてつぶやきました。この人は罪人たちを受け入れて食事までいっしょにする。と!律法学者たちは主イエスを軽蔑しました。主イエス様のことを「この人」といっています。彼らは神の招きを拒否して、送られてきた救い主イエスを拒否し、しかも神の国に入れる人を自分たちで決めて、入れない人は取税人、罪人たちはだめであると思っていました。神は、悔い改めて信じるなら、どのような人でも神の国にいれてくださるのです。彼らはそのお心をだいなしにしていたのです。律法学者たちは自分にたのむところのできる人たちとつきあっていました。主イエス様は自分に頼むことのできない罪人たちとつきあってくださるのです。主は彼ら学者たちのつぶやきに答えられました。それが次々となさったたとえ話です。

 

 Ⅱ 1-7節 第一のたとえ話し 一匹の羊

 このたとえの中心は、いなくなった一匹の羊に対する羊飼いの態度にあります。さまよい出たものを捜し歩く羊飼い。そして見つけた時の羊飼いの喜びに焦点があります。さまよい出た一匹は、自分の興味、目の前に広がる牧草に気を取られて、羊飼いの声の届かないところに行きました。99匹の群れと共にいるべき所を離れてしまって、気づいたときはもはや自分のちからでは帰ることのできないところにいました。この一匹は取税人、罪人たちの姿として描かれています。そして羊飼いイエスは捜し続けて見つけました。声をかけました。彼らは自分たちが迷いでた羊であることに気づきました。

さがしにきたイエス様のみこえを聞くために、このように近寄って来て食事もいっしょにするようになりました。

 私たちは日常生活で目の前のことにだけ心を奪われて、しらないうちに迷いでてしまっているのです。本来いるべき所から離れてしまっているのにもきづかないのです。もう御国に帰るべき人生の夕闇が迫って来ているのになおも、気づかないでいるのです。そのような自分たちを探し求めて御国からきてくださった救い主イエス様の叫び声をきかなければなりません。「あなたはどこにいるのか?」神から遠く離れた者、自分で危険と死に直面している者、それで自分に頼ることができない者は、神が探し求めておられる人です。も声を聞いて正しい反応を示す者は、見つけ出されるのです。持つけ出したときの主の喜びは、天にも溢れるのです。ここに天の神のみこころがはっきりと示されています。

 この取税人、罪人たちへのイエスの態度こそ、天の神のみこころなのです。

罪人のひとりがこのように「わたしのもと」に近寄りくるたびに、父なる神は喜びで一杯になられます。パリサイ人、律法学者たちとは正反対の、この愛のみこころを本当に知るとき感謝に溢れます。

 

Ⅲ 8-10節 第二のたとえはなし

銀貨を十枚もっていて、一枚無くした。みつけるまで念入りに捜す。「銀貨」はドラクマです。一ドラクマ(ギリシャ貨幣)は一デナリ(ローマ貨幣)です。一日の労働賃金に相当しました。女の人がさがす理由は、生活費だったからです。懸命にさがしました。見つけた喜びは大きいのです。

別の説明。10枚一セットの装飾用の髪飾りのこと。既婚女性のしるしでした。銀のくさりに10枚の銀貨を繋いでいた。一枚無くしては用をなさないのです。彼女からたとえ借金の返済のためにすら、奪ったり、取り上げたりすることはできなかった。だからこの大切なもの、価値の高いものの一枚を失って必死に捜して見つけたら、大喜びです。

神の前に失われた存在と、その発見の喜びの大きさが教えられているのです。罪人の悔い改めにより、神の家に帰るなら、天の使いたちもいっしょに大喜びをするのです。

パリサイ人や律法学者たちは、天の神様をこのように考えたことは無かったのでした。それどころか、偏狭なユダヤ人たちは、「罪人が一人でも神の前で抹殺されるならば、天に喜びがある」と考えていたのです。実に独善的で、悔い改めた罪人にたいする神の愛の喜びを想像することすらできない冷えた心なのです。

主イエス様がこのような二つのたとえ話しで、神が人を捜し求めて、罪人が神に立ち返り、み前に悔い改めるなら、天の喜びがどんなに大きいかを語られました。

主イエスさまが罪人たちといっしょに食事をすると、パリサイ人や律法学者たちが非難しました。主イエスの答えは食事どころか、いのちがけで探し求めて、みつけだす。見つからなければ、さらに念入りにさがしまわり、あの手、この手で見つけようとします。と答えられたのでした。そして天の神の喜びを強調されました。

結び 私たちの天の神が、主イエスがここで示されました通りに、愛と憐れみと救いだす喜び、見つけ出す喜びに包まれるお方であるなら、このことはあなたにとって何を意味しているでしょうか。わたしたちは悔い改め、神様にある人生に方向転換させていただきました。天の神の大いなる喜びに与っているのです。 まだそうしていない方々は、天の神の喜びをおぼえて、信仰のめぐみに与っていただきたいのです。創世記の始まりから、天の神は、私たちを捜し求めてこられました。この驚くべき捜し続ける愛は、あなたにむけられているのです。

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