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2013年9月1日 礼拝

 

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2013.9.1 ピリピ人への手紙3章7-9節  聖書  ルカの福音書18章18-30節

聖書の話し  「誰が救われるか?」

序)9月18日に神の国は、「このような者の国である」と主イエスが言われた意味を学びました。幼子のようになることが、自分の力ではいかに難しいことか、同時に聖霊様が働いてくださるといかに容易であるかも学びました。今朝は、その教えの実例を通してさらにはっきりと主が教えておられたのを考えましょう。

ⅰ 主イエス様が道に出て行かれると、そこへひとりの役人が走りよって御前にひざまづいて尋ねました。熱心な求道心が態度にでています。ナザレからでた一文無しの預言者、パリサイ人たちが葬りさろうとしていたお方のもとに、この若い役人がひざまづく光景には驚くべきものがあります。この人はほとばしるような感情に駆られてきたのです。彼は言います。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」(18節)

イエス様は彼に「なぜ、私を[尊い]というのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、誰もありません。」と応じられました。「尊い」という言葉は神様のためにとっておきなさい。主は彼の出鼻をくじき、彼の熱情に冷や水をかけて、さまそうとされたのです。主は冷静さを求められました。単に主イエス様への感情的な熱情だけではクリスチャンになれない。神様を見なければならない。みるべきは神様である。説教し、教えるということは、いつも一人の人の人格を通して真理を伝えることを意味します。そこに、一つの危険があることに注意しなければなりません。求道者が説教者にたいする個人的な愛着をもって、神様への愛着と考えてしまう。福音の真理が人格から人格を通して伝えられるので、個人的な愛着を度外視することはできません。しかしそこにとどまっていてはならないのです。教師や説教者は、ただ神への道しるべにすぎないのです。バプテスマのヨハネのように主イエス様さまを指さして、この方こそ救い主というのです。

 

ⅱ 19-21節

主イエス様は神の国の本質的な真理を教えておられます。永遠のいのちを受けるには、社会的な体面を保っているだけでは不十分であるということです。イエスは当時の社会から尊敬される生活の基礎であった十戒を引用されました。19節。この人は「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」これらのことばはうぬぼれではなくて、ユダヤ人ならちょっとまじめな人なら誰でも言うことばです。わたしたちが警察のやっかいになるようなことはしていないと言うのと同じかな?使徒パウロは「律法については落ち度がない」と、自分のことを言っています。世間の常識として戒めを守る、破るという考え方からは十分合格であると言っているのです。注意すべきはここにあげられている戒めは、一つ以外は全部否定的です。その一つは、「父と母を敬え」です。しかし十戒の根本は神を愛し、隣人を愛することにあり、否定的なことの反対である積極的なことも同時にすすめられているのです。主はこの人に「あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。」他の人たちに積極的に善をしなさい。慰め、励まし、力づける努めをどれくらいしてきましたか。この点では彼も私たちも失敗してきました。この人は自分自身と持ち物のすべてを他の人に用いることは考えになかったのです。そこまでして永遠のいのちをえようとは考えなかったのです。熱情的に尊い先生と呼びかけてひざまづいたのですが、そこまでするつもりはなかったのです。イエス様が話している状況は、これからエルサレムに向かっていって十字架につくのです。すべてを捨てて従うことは文字通り危険を意味しました。大変な犠牲を払います。彼は非常に悲しんだのです。彼が大変な金持ちだったからです。

 

ⅲ イエス様は「裕福な者が神の国に入ることは、何と難しいことでしょう。」といわれました。

1 弟子たちは大変驚きました。当時のユダヤ人たちは、繁栄は神様の祝福であると信じていました。繁栄は善人のしるしであると考えていたのです。財産は神に祝福されていること、人格的にも優れていること、愛されていることの証明でありました。ですから裕福な者が、神の国に入るのがむつかしいといわれたときに「ではだれが救われるのか?」と驚きと疑いが生じました。

イエスは繁栄と物質的な物事の危険を見ておられました。その危険とは、物質的な所有物は人の心をこの世に固定させます。この世に大きな利害関係をもち、この世に大きな関心を持つのでそれらを越えて考えることが困難になる。

次にもし人の主要な関心が物質的所有物であるなら、それは彼にすべてのものを価格で考えさせるようになります。価値というものがお金に換算されるという歩みは、ついにはこの世には金銭をはるかに越えた価値があるもの、価格をつけられないものが存在することを忘れさせます。

さらに物質的所有物でその人が検査されてしまうのです。逆境にたえる人が100人いても繁栄に耐える人は一人であるといわれます。繁栄は非常にたやすく人を傲慢、高慢、自己満足、世俗的にすることができます。また人はその所有物をどのように得たのか、どのように使用したのかが、終わりの日に、すべての良い賜物の与え主イエス様から問われるのです。多く所有するほどどのように使用するかの責任が増えるのです。

2 いったい誰が救われるのか?

27節「それは人にはできないことが、神にはできるのです。」もし永遠のいのちを得ることがその人の努力や、律法を守ることにかかっているなら、誰一人救われないでしょう。しかし救いは神様からの賜物なのです。すべてのことは神には可能なのです。自分自身に依存するものは決して救われることがない。その財産に依存するものは、それによって救われることはない。神様の救う力と、贖いの愛を信頼する者は救いに入ります。人の力で、たとえ永遠のいのちというすばらしい目標がおかれても、地上的な富を手放す決心はつかないが、神にはその決心をつけさせ、執着心と貪欲の心を変えることができる。ピリピ3:8「私はキリストのために、すべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ・・・」このような判断の仕方ができるようになるのは、神のめぐみの力のおかげです。

ⅳ ペテロが自分や仲間と、彼とを比べました。28節「ごらんください。私たちは自分の家を捨てて、従ってまいりました。」といいました。その結果、仲間が得られることは何かを知りたいと思いました。

主は答えられました。

1 まず、29-30節 イエスのため、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はありません。初代の教会は文字通りそのような事柄が起こったのです。ある人にとりキリストを信じることは、家庭、友人、愛する人たちを失うことを意味するかもしれなかったのです。しかしイエスに従うことによりずっとすぐれた大きな神の家族の中に導き入れられたのです。キリストの家族、神の家族に入れられて世界中どこにいてもキリストにある兄弟、姉妹、母、父、子供を得たのです。それは今の時代に得ることのできる恵みだったのです。「捨てる」ということは否定的な面だけを意味しているのではありません。それは自分の物としては捨てるが、「神の国のために」「イエスのために」「他の人のために」用いていただくという、積極的意味での聖別、献納をも指しているのです。ペテロたちのようにキリストとともに旅行することのない一般信者にも、また、激しい迫害の中で田畑や屋敷を奪われることのない平和な時代の信者にもできることです。

2 30節「この世で幾倍かを受け、後の世で永遠のいのちを受ける」。あなたがたは報いを受ける。この世では幾倍かである。イエスに従う者の総決算は永遠の祝福、天の御国においてである。

結び)永遠のいのちは、自己義認や律法を守ることのより得るのではありません。私たちは神様の恵みの力により、永遠のいのちに入れられるのです。この不可能を可能とされた、主の恵みを褒め称えつつ、積極的に主に従ってゆく者でありたいものです。

 

 

 

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