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2013年12月15日 礼拝

 

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2013年12月15日アドベント第三主日 「良い牧者としてのメシヤ」 ゼカリヤ書11:1-17

招詞 詩篇23篇

◇ 序文)アドベント(待降節)第一主日の説教は、「わたしのしもべ、一つの若枝」でした。アドベント第二主日の説教は「王・祭司であるメシヤ」でした。今朝アドベント第三主日の説教は「良い牧者としてのメシヤ(キリスト)」です。始めに「良い牧者の拒絶」、次に「詩篇23篇に示されている良い牧者としてのメシヤ」を取り上げます。

◇ Ⅰ 「善き牧者が拒絶される」

1 ゼカリヤ書 11章は「折れた杖」の幻が中心になっています。それは、イスラエルの罪にたいする、神の怒り故に、急速に荒廃して行く国の姿を描いています。「善き牧者が拒絶される」ことを示しているのです。a. 1-3節 キリスト来臨に先立つ苦難が嵐のイメージで示されます。

b.4−14節 契約の民を救う最後の努力としてキリストが来臨すること。 c.15-17節この救い主拒絶につづくのろい、悪しき羊飼いのシンボルが書かれています。羊の群れを圧迫することと、その後の刑罰がくだることです。a. b. c.の説明をします。

◇ a 1-3節 キリスト来臨に先立つ苦難が嵐のイメージで示される

「レバノン」これは、何を指しているのか、いろいろと考えられています。エルサレムを指している。また神殿を指している。レバノン地方を指しているなどです。

AD 70年ローマ軍隊によるエルサレム滅亡の預言であり、10章と対照的です。神はイスラエルに究極の栄光を約束したが、彼らの悪は決して見逃さないとの警告である。ローマ軍隊により荒らされた土地を描写している。レバノンノ森を抜け、バシャンとヨルダンの谷間を南進し、牧者たちの栄えである豊かな牧草地とヨルダンの草むらを荒らしつつ北方からやってくる。レバノンの香柏が倒されるならば、他の者はひとたまりもない。

 

◇ b 4−14節 契約の民を救う最後の努力としてキリストが来臨することが預言してあります。

4-6節 その理由 神の羊の群れを買うために神から遣わされた大牧者に敵対する民衆と、その牧者(ユダヤ人支配者たち)のふらちな態度にある。

屠られるべき羊は「イスラエル」を指します。ローマ軍との戦いでイスラエル人は150万人が死んだと、ユダヤ歴史家のヨセファスは言っている。エルサレム陥落の時は10万人が死んだ。◇ 捕虜になった人は99.000人。買う者はローマ人、売る者は支配者たち、売国奴。賄賂をむさぼり、自分の利益のため民を統治する者です。表面は敬虔で「ほむべきかな」という。しかし貪欲。悪しき国の悪しき支配者には神ののろいがくだる。守るものは何もない。レバノンも倒される。6節 神はもう民を惜しまない。これまで長い忍耐をしてきたが、これ以上はだめ。もう徹底的に破壊と荒廃がある。

◇ c 7−14節 ゼカリヤは大牧者としてイスラエルを飼うべく立ち上がります。明らかにキリストを象徴しています。残った羊の群れを養う。二本の杖を取り、一本を「慈愛」あと一本を「結合」と名付ける。「慈愛」神の民に対するいつくしみ、「結合」ユダとイスラエルの結合。民の真の牧者に対する態度がもたらすめぐみをあらわしています。

羊の群れを飼った。「私は一ヶ月のうちに3人の牧者を消し去った。」イスラエルの国民への神の配慮にもかかわらず、牧者の働きは人々に理解されず、受け入れられなかった。主の民は大牧者に対して、神のめぐみにたいしても敵意を持って報い、ついには、主は我慢されなくなった。主は彼らを9節その「運命のままに放置される。このことは「慈愛」「結合」の杖が折られることで示される。恵み深い支配の終りを意味している。

◇ 11節 私の賃金として、銀30シェケルを量った。彼らによって、わたしが値積もりされた

尊い価を、陶器師に投げ与えよ。マタイ26:15.イスカリオテのユダがイエス・キリストを売った値段。祭司長たちは、それで 陶器師の畑を買い、旅人たちの墓にした。

12-13節 神の無限の愛に対する人類の無情

ゼカリヤに象徴される主の大牧者としての働きを、どのように評価するか。銀30 これは奴隷が死亡したときの補償として要求された値段(出エジプト21:32)。これは彼らの大牧者への軽蔑を現している。13節この報酬が無価値なことは最もいやしい器を作る者に投げ与えられたことにより示されている。主ご自身のことがここから語られる。マタイ27:10に預言が成就している。マタイ27:9「エレミヤ」の預言とあるのは筆写者の間違い

◇ 14節主の牧者を拒絶することが避けられないもう一つの結果は不一致であった。このゆえに第二の杖を折った。この行為の中に。いわゆるサマリヤの分裂ヘの言及があると考える人もいる。BC325年ごろ、旧北王国の領地に住み着いたエルサレム共同体と決別し、ゲリジム山に自分たちの対抗する神殿を建てあげたからである。彼らの子孫200人あまりがその山の裾野に今なお住んでいる。

15-17節 寓意の第三部分では、ゼカリヤは、主によって不忠実な牧者の訳を演じるように言われる。すなわち道徳的に腐敗し、神の要求に無関心な牧者である。ローマの圧制下に置かれる彼は、ユダヤ人がキリストを拒んだ後に、ユダヤ人を亡ぼし、ユダヤ人を無慈悲に悩ました。しかし愚かな牧者は自分の行いの責任を取らなければならない。罰を受ける。

◇ 主イエス・キリスト様がご自分を良い羊飼いと(ヨハネ10:11)表現された背後には、人間の本性と歴史の双方のこの深い預言的理解があったのである。

Ⅱ 詩篇23篇1-3 ダビデの賛歌 良い羊飼い主イエス様

詩篇23は、助けをえるための願いや、嘆きの訴え、祈りも含まれていません。ただ感謝があるのみです。賛美があふれているのです。この詩篇はただ詠まれて鑑賞するだけで十分な詩篇といわれています。暗唱して、ときにふれて歌うべき詩篇です。本当は説明するようなことをしなくても良い詩篇なのです。

◇1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

誰がこれを語っているのでしょうか。ある人は教会がキリストに向かって語っていると考えます。ダビデがもともとの語り手です。あるイギリスの注解者は、御父に向かって語っておられるキリストの御声であるといいます。この詩篇は、教会により、また、牧者キリストにより、歌われるべき賛美の歌として、聖霊がダビデを霊感して歌わせられたと考えられます。

この詩篇が幼き子供にも、年とった人々にも、強健なひとにも、病気で死の淵を歩いている人にも、また、結婚に際しても、主の晩餐の礼典に当たっても、葬式においても用いられてきました。涙ながらに、喜びいっぱいに、私たちの牧者に対して心からの賛美を捧げるにふさわしいのです。

◇主イエス様こそ私の牧者です。私には乏しいことがありません。

主イエス様は、天においても地においても、一切の権威を与えられたお方です。神のひとり子として、王の王として、主の主として、創造主として、一切の所有権をお持ちです。そのお方が、羊飼いとして羊たちのためにまことの愛と憐れみを注いでくださっているのです。乏しいことがあり得ましょうか。ありません。

◇2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

緑の牧場に・・羊たちのための柔らかい,若い、やさしい青草のある牧草地・・・は、人が流離いの果てに最後に居所をすえることを意味する語からきたことば。

伏させ・・うずくまらせる、横たわる、営をはる、

いこいの水のほとり・・・「静かな水」をあらわすへブル語の慣用句、休息の

意味がこもっている。羊たちは静かな、かき乱されない水の流れからでなければ飲まない。

伴われます・・・牧者用の限定的な用語を用いている。牧者が飲み水の有るところへと群れをやさしく導き連れてゆくことを意味する語

◇3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

疲れと渇きは、牧者が連れて行ってくれる、静かな清らかな水のほとりで、静かに飲むときにいやされます。これは魂を回復し生き返らせます。あれやこれやで一時うしなっていた落ち着きと平安に、連れ戻し,回復する。義の道に導かれる。

道・・、字義通りには「車の軌道」をさします。「正しき道」によって「平坦な平易な道」を意味する。「義」は基礎的な意味として、「まっすぐ、平ら」を指します。「まっすぐで、正しい目標にみちびく軌道」導く・・・義の道の方向に「私を向かせる」を意味します。

御名のゆえに・・・主はすでにご自身をモーセに啓示しておられました。

 

◇Ⅲ  詩篇 23篇4-6

4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐ません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

このことばほど、多くのクリスチャンたちを慰めたことばは他にないのではないかと思うほどです。なぜなら、いったい誰が、人生において死の陰の谷を歩かないことがあるでしょうか?かならず直面するのですし、一回だけでなく幾度となく直面することも起こりますから。

◇へブル語は、「・・の陰」と「死」という語の複合詞と理解されてきました。多くの翻訳はほとんどそのように理解しています。でも最近は、「深い陰気な暗闇」という単一の原意と考える傾向に有ります。ヨブ28:1-3「まことに、銀には鉱山があり、金には精練する所がある。鉄は土から取られ、銅は石を溶かして取る。 人はやみを目当てとし、その隅々にまで行って、暗やみと暗黒の石を捜し出す。」にある、暗闇と暗黒の鉱坑のようであると考えます。

◇「たとえあるゆる種類の驚愕と災害とがおびやかす、墓のように暗く陰気な狭苦しい隘路を歩むときでも、彼は不運を一向恐れない・・旧約文学中ここで初めて出るへブル語名詞は、元々複合詞ではなく・・・ツエレムという動詞から作られている・・・これは最も恐ろしい暗黒の名称である、「死の陰」を意味する。」(旧約学者 デリッチの説)

「あなたがわたしとともにおられますから。」は、原語の順番は「なぜなら・あなたは・わたしとともに」です。◇これは「わたしの側に」、または「近くに立つ」です。良き羊飼いである主イエスさまが、そば近く立っていてくださるので、たとい暗い死のような陰気な谷を歩むときにも、「わざわいを恐れません」という証言なのです。肉体の死、あるいは外科的な大手術とか、何か危険な旅路に家庭や愛しい者から離れるとかのような深刻な体験の最も恐ろしい面は、信者の孤独感です。23篇は、そういう型の暗黒の谷体験を通過する際、何千人とも数え切れぬ人々を慰めてきたのでした。今も慰めています。

◇「あなたのむちとあなたの杖、」普通の仲介者達によると、みちと杖は、羊飼いの曲がり杖を二つ別々の意味に用いたダビデの比喩的用法だと理解されています。すなわち第一は、羊たちをよび集めたり、言うことを聞かないものを懲らしめたりする道案内の杖である。第二は、牧者自身がよりかかる杖です。パレスチナにおける近代的な羊牧業の研究をした他の人々は、あらゆる牧者が二本の杖を携えているといいます。すなわち、私たちが絵でみる伝統的な羊飼い用の長い曲がった柄の杖と、野獣を打ち撃退するための、重い木製の頭の太い棍棒です。

◇日本語訳は「むちと杖」としています。辞書による「鞭」とはうしや家畜をこらしめるためにもちいる杖またはむちです。ここの「むち」の意味は、従順な羊のやさしい指導と、道草を食う者への懲らしめとの両方における、牧者の羊に対する注意をさす。

「杖」は「よりかかる」「自分を支える」の動詞と関係のある名詞が用いられています。これは羊に慰めをもたらす何か良い物を指します。神からの力の現れと理解しています。

◇「それが私の慰めです。」慰め・・深い同情の嘆息、物のわかった愛情という思想を含む。キリストを良い牧者ととれば、私たちは彼の同情の数多くの例を思い起こします。ラザロの墓で涙を流され泣かれた時の主。へブル4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

◇回りを取り巻く敵たちのまっただ中で荒野にひろげられ食卓の図は、たくさんのキリスト教殉教者たちにとって、彼らの死の瞬間に強力な助けになりました。アウグスチヌスは23篇を殉教者用の絶好の詩篇といいました。多くの殉教者達がその瞬間にこの詩篇を詠っていた。

文語訳の「筵」は、へブル語で、食物をおくために地上に平らに横たえられた革の布または獣皮です。ここの動詞「ととのえる」は、神殿で祭司がまきやその他の物を犠牲用に整えるのを指し、また戦闘のために軍隊整備を語るのにも用いられています。ここでは、客人や家族のために食卓をおき食事を備えることに対する普通の表現です。牧者は今や主人となり、良き牧者は、いまその群れを養っているのです。

◇それは怒り狂った敵達に対峙しているのです。なんという宴会場でしょうか。そうです、クリスチャンの生活は常に敵対する物達の中で、霊的な宴会(礼拝・聖餐式)を行っているのです。たとえ危険のうちにあるとも、キリストは私たちの前に良い食事を用意してださっているのです。

「私の頭に油をそそいでくださいます。」これがダビデのことならすでに預言者によって油そそがれています。キリストのことなら、彼もまた油注がれた王です。◇もしこれが教会のことをさしているのなら、わたしたちもまた、ヨハネ第一2:27「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、——その教えは真理であって偽りではありません。——また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」これらは良き羊飼いの愛のそそぎを指しています。「私の杯は、あふれています。」杯は旧約聖書ではいろいろの比喩に使われています。ここでは、飲食において、私たちの主から交わりと喜びとを受け取るところのもの、です。溢れこぼれるほどの杯。

◇6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

「まことに」かならずの意味。確実さを示す。疑いの余地がない。「いつくしみと恵み」文語訳「恩恵と憐憫」へブル語は「トーブ善と、ヘセズ慈愛」前者は神から付与された祝福、後者は憐憫、慈愛。

旧約聖書中、最大の語の一つ。神の人間に対するあしらいを示す。また人がお互いに処すべき道を示すために用いられる語。ルカ10:37の良きサマリヤ人の示した憐れみ慈愛をさす。牧者の愛は、「わたしを追ってくる」神の恩恵と慈愛が私たちの生涯ずっと共にとどまる。

◇「いのちの日のかぎり」自分のいのちの日を考えてみてください。良い日もあれば、悪い日もあります。病気、失望、失敗、罪で幾日も台無しにしてしまった日。牧者は配慮を込めて彼の恩恵と慈愛をすべての日に身近にあり続けることを、確信させてくださる。私たちが主を追いかけたのでなく、主が私たち失われた物を追いかけて探し出して救ってくださった。

「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」ダビデは主の家ということで、礼拝場所をさしていたと考えられます。しかし、それは主との交わりの場でした。わたしたちにとっては、主の家はまさに天にそなえられた家です。主イエス様の約束を信じます。

 

◇ 結び)ヨハネ 10:11

主イエス様は、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」といわれました。ゼカリヤと詩篇の預言通りのめぐみと憐れみと養いを豊かに、今日も、私たちに注いでくださっています。十字架上の身代わりの死、三日目のよみがえり、40日後の昇天、再びおいで下さる事において、良い牧者であり続けておられます。この主の羊である事に感動と深い感謝をもって従い、あゆみつづけましょう。

 

 

 

 

 

 

 

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