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2013年3月 10日 バイリンガル英語礼拝 音声つき

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2013年3月10日 ルカの福音書 23:1-7, 13-24  廣橋嘉信牧師

「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」使徒信条シリーズ

序文)主イエス様の十字架刑を宣言したローマ総督ポンテオ・ピラトは、その間違った裁判のゆえに世界的に知られています。聖書の記述以外に、ユダヤの歴史家ヨセファス、ローマの著述家タキトウスの文書に簡単に名前がでてくるだけです。ピラトの軍司令部があったカイザリヤで、1961年彼の名前が記された石版が発見されました。彼はローマの中産階級の出で、紀元26年にユダヤの総督に任命されました。軍事、経済面で権力を有し、大祭司の任命権をもっており、神殿の財政を管理しました。著作家たちの言及によれば、ピラトは就任直後から、ユダヤ人たちを怒らせるようなことを平気で次々とおこし、その度に反乱と群衆の一斉蜂起にあっています。福音書は彼がイエス様の裁判に関わって不正な判決を群衆のためにしたことを強調して書いています。彼の最後は、サマリヤ人とゲリジジム山に関する騒動を治め損なってことをきっかけにローマ皇帝の前に報告をしなければならなくなって、ローマに帰国の途中自殺したと言われています。統治の失敗とその責任を皇帝に問われることは死を意味したのを彼は知っていたのです。

1 イエス様の受けた裁判

イエス様を裁いたユダヤ人の法廷は、サンヒドリンといいました。ユダヤの国会であると同時に、最高裁判所でした。構成人員は有力長老、律法学者、パリサイ人、サドカイ人たち71人でした。ユダヤの政治上、宗教上の広範囲にわたり権力を行使していました。ただローマ皇帝の支配下にあって彼らは死刑を宣告することが出来ませんでした。彼らは自分たちの宗教の敵として、イエス様を死刑にするべく訴えるために、ローマの法律で裁いてもらおうとしたのです。死刑に値する罪として、ユダヤ人には神を冒涜することだけで十分でした。しかしピラトに死刑の宣告を出してもらうには、ローマへの反逆罪が一番必要でした。23:2「そしてイエスについて訴え始めた。彼らは言った。「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」ユダヤ人たちの裁判は異常でした。弁護人もいなく、夜行われ、告訴人は証拠において一致できませんでした。死刑の宣告は裁判の翌日にしなければならなかったのに、ユダヤ人たちはその場でしました。まことに主イエス・キリスト様は不法の者の手によって葬られたのです。

ピラトへの訴えの内容は悪意とすり替えにみちたものでした。「国民を惑わしている」主イエス・キリストがローマの治安を妨害し、国民を煽動しているというのです。第二点は「カイザルに税金を納めることを禁じている」第三点は「自分は王だと言っている」というのでした。王の称号の横領。

これらがすべてすり替えであることは実は訴えた彼らが一番よく知っていました。主イエス・キリスト抹殺のために彼らが造りだしたのでした。

ピラトは彼らの心を良く見抜いていました。訴えが偽りであることは、なによりも治安の専門家としての経験からみても、すぐにわかりました。税金に関しては主イエス・キリストは「カイザルのものはカイザルに。神のものは神に」といわれたことは彼らも知っていたのです。

ピラトは、第三点だけを取り上げました。「あなたはユダヤ人の王ですか。」これも自分の前のみすぼらしい大工あがりの男を見て、「あなたがユダヤ人の王ですか?」とあきれ気味に尋ねたのです。

この問答は、ヨハネの福音書では、主イエス・キリスト様が答えておられます。「私の国は、この世のものではありません。もし、この世のものであったら、私のしもべたちは、私をユダヤ人の手に渡さないように戦ったことでしょう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

ピラトの関心事は、自分の治めている政治的な領域を、ユダヤ人の王として反逆しようとしているかどうかでした。主イエス・キリストの答えを聞くと訴えられている程には危険性がないということは明らかでした。主イエス・キリストの王位と、カイザルの王位は次元が違うのです。キリストの王国は霊的なものです。心に主イエス・キリストを主として仰ぐ者達が王国の一員です。カイザルが地上の帝国を治める権限を一向に妨げるものではありません。その上、地上の王権は、天の神様が立てられて許しておられるのです。聖書はこのような意味で主イエス・キリストが王になろうとしているのではないことは明白です。

ルカの福音書はこれらのやりとりを省いて、「そのとおりです。」とだけ書いています。ピラトにとって、ユダヤの当局者によって、簡単に逮捕されるような王様は、もの数ではありませんでした。第一ユダヤ人たちが王様と認めていないのですから。何の危険性もありません。「この人に何の罪も見つからない。」「無害である。取り締まるような人物ではない。」と答えました。政治の専門家の目で無罪なのです。

こうして主イエス・キリストを何とか殺そうと決めていた彼らは、ピラトに簡単に退けられそうになり、それで、あくまで強弁したのです。「この人はガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を煽動しているのです。 ピラトはこれをきっかけに責任転嫁の道を発見したのです。それはガリラヤの領主であるヘロデに主イエス・キリストを送りつけようということでした。丁度今ヘロデはエルサレムにいるのだ。

ピラトが一番責任ある立場ですから、断固この訴えを退けるべきだったのです。そうすれば歴史をこえて汚名をかぶることはなかったのです。責任を転嫁したことによって、一つの困難をさけることができましたが、それは最後に大変な不法を自分で犯すことにつながりました。

 

2 ピラトと民衆の対決。

13〜16節。ピラトはイエスを有罪にしたくなかった。罪がないのだから

あたりまえであった。ローマの栄光である公正と正義にもとることになる。

彼は四回も、イエス無罪を主張しました。そして釈放の提案を三回もいたしました。妥協案として、イエスを有罪扱いして、鞭で打った上で、釈放しようとまでいいました。しかし、彼はついに民衆の声に負けました。ユダヤ人の恐喝に属しました。ここにユダヤ人たちの罪が浮彫にされています。

18節。彼らは人殺しバラバを釈放しろ、イエスを十字架にと要求しました。ローマの法律に照らして、紛れもない極悪人バラバを許し、無罪のイエスを殺しました。平和の君よりも殺人犯を選んだのです。愛の代わりに、憎しみと暴力を選んだのです。

 

今日も、同じように、十字架のイエスに向って叫ぶ人々が大勢います。その選択は間違っているばかりでなく、自分たちが選んだように、憎しみと暴力と罪の騒ぎがその人たちを取り囲んでいるのです。

 

21節。イスラエルには十字架刑はなかったのです。せいぜい石打ち刑でし

た。いのちの君を十字架にと叫んだ罪は大きいのです。

ピラトが民衆の声に負けた理由は、彼が民の暴動を恐れたからでした。しかも、この暴動のけはいは、ピラトをカイザルヘの反逆罪で訴えかねない勢いをもっていたのです。ヨハネ19:12「ユダヤ人たちが叫んで言った。もしこの人を許したら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王とするものはすべてカイザルにそむく者です。」ピラトは自分の首が危ないと感じたのでした。

 

政治的な支配者たちは、この人に罪なし、と決定しながら、ユダの民衆の声に負けて、無罪のイエスを十字架に付けることにしたのです。

「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とは「わたしたちのもとに苦しみを受け」というべきでありましょう。

 

結び)一見して不法の民の声が勝利したとみえる、この事件について、聖書はその背後で、天の神の声が勝利を収めたことを証言しています。

イザヤ53:の預言の文字通りの成就がイエス・キリストの身におこりまし

た。神のこの事件の真の説明は、「4〜6、12節」です。十字架につけよと

叫んだ人々、そして、この私達の罪にために、身代わりとなった。

使徒の働き3:14、15「神はこのイエスを死者の中からよみがえらせま

した。」人がこのようにイエスを取り扱ったことに、救われるべき私達の罪の姿があります。そして、神の救いの通が示されているのです。

ピラトやヘロデのようにではなく、心から主を仰ぎましょう。

 

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