2013年3月24日日曜日 ルカの福音書 22章 39〜46節 ゲッセマネ
ゲッセマネの園、そこは「いつもの場所」とルカが書いているところです。イエス様度々そこで、弟子たちとともに祈りをなさいました。弟子たちにとっては、いつもの場所で、いつもの祈りのつもりでしたが、この夜の祈りだけは、実はいつもと全く違いました。この夜の祈りにおいて、主イエス様の苦悩は、聖書の中で深く神秘的な部分であります。人間の知恵をもって十分に説明することができないもっとも賢い神様の知恵を含んでいるのです。主のお姿と祈りの内容に思いを潜めて学びましょう。
Ⅰ 誘惑におちいらないように。
ルカは、この記事を書とめるに際して、初めと終わりに「誘惑に陥らないようにいのりなさい」ということばを、額縁のようにして書きました。主イエス様に従った弟子たちは、つい先ほど「ペテロを代表して、サタンが麦のように、その信仰をふるいにかけると警告を受けたところでした。さらには、主の十字架により世間の弟子たちへの目が変わると、情勢が悪くなることの教えも受けていました。それらに十分対応して信仰に立ちつづけるためには、何よりも祈りが第一でした。
イエス様ご自身にとっては、今の祈りは十字架の身代わりの死を目前にしたものであり、主の霊は異常な悲しみと苦しみの中で祈られたのです。「この杯をわたしからとりのけてください。」という祈りは主に向けられた誘惑との戦いでもあった。
他の福音書によると、弟子たち特にペテロ、ヤコブ、ヨハネが主イエス様のそば近くに招かれて、いっしょに祈っているように、目をさましているようにと言われている。それは彼ら自身が誘惑に陥らないように祈るばかりではなく、主イエス様のために執りなして、いっしょに祈るようにという招きであった。信仰の友、祈りの友を人は必要としているのです。ことに苦難に直面し、苦しんでいる時はそうなのです。悲しみ悩み祈る主といっしょに、悲しみ苦しみ祈る者となるようにとの招きなのです。
教会の祈祷会や二人以上の者がいっしょに祈る場は、この意味で、主イエス様の働きに共にあずかり、兄弟姉妹の苦しみも、悲しみも、喜びも共に分け合い、祈りつつ御国の前進する場となります。多くの方々は苦しみにあうとき信仰から離れたり、集まりを避けたり、兄弟姉妹から遠ざかったりしますが、それは逆なのです。むしろ祈りの場に積極的に集まり、いっしょに祈ってもらう、いっしょに重荷を分け合うのが、そこから立ち上がる近道なのです。キリストの福音の為に働きは、たった一人で成し遂げられるようなものではなく、また、自分一人の力では、苦難から立ち上がれると考える事は失敗のもとです。共に祈ることにより、誘惑に勝ち、苦難を乗り越えさせるのです。
弟子たちは、初めはいっしょに目を覚まして祈っていました。しかし、主の異常な祈りの姿を見ているうちに「悲しみの果てに寝入った」のです。弟子たちは初めから眠るつもりは、勿論なかったのです。悲しみのあまりに緊張しすぎた神経から疲労が襲って来て寝てしまったのです。祈りの場を離れ、あるいは祈祷会をやめてしまった人たちは、いっしょに祈るために
46節「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑におちいらないように祈っていなさい。」との主イエス様のことばを胸にしまって、再び立ち上ってもらいたい。
Ⅱ 杯をとりのけてください
主イエス様は、弟子たちの寝入っている間も、自分に課せられた使命のために苦しみもだえて祈られました。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」この時の祈りは、主の受難物語の中で、最も激情荒れ狂う場として描かれています。それは十字架上のお姿よりももっと激しいのです。恐れ、おののき、悩みはじめ、死ぬほどで、地面にひれ伏し「その汗が血のしたたりのように地に落ちた。」のです。もはや弟子たちが分かち合えるような生易しいものではなかった。この感情の原因は、「この杯をわたしからとりのぞいてください。」と祈られた「杯」にありました。並の「杯」ではなかったのです。この場合、杯は、その人の運命を表し、特に聖書では、「神の怒りと審判」の意味でした。イザヤ51:17「憤りの杯」とあります。黙示録14:10「そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。」
主イエス様は正真正銘の人間でした。死に反発し、死を本能的に嫌悪する人間です。この祈りは、イエス様の人間性の極地を示しているのです。主イエスは罪を犯した事が無く、生まれながら聖霊により罪のけがれから守られていました。義人でしたから、罪への罰として死ぬはずのないお方でした。しかし、天より遣わされた救い主としての職責を果たそうとしていました。それはわたしたちの罪の代価を身代わりの死によって払おうとしておられたのです。それで、今や、すべての罪人に対する神の怒りの杯が一挙に主イエス様の上に注がれようとしていたのです。キリストが私たちのためにのろわれたのです。罪をしらなかった方が罪となられたのです。彼の聖いご性質が、その上に負わせられた罪の重荷を直接的に感じられたのでした。ここに通常でない、キリストの苦悩が現されたのでした。
主イエス様のこの祈りは、彼の救い主としての働きが、人間ばなれした悠然たることではなく、むしろ、全く地に足がついたことであったことを示しているのです。さらに私たち弱い者のこころを暖め、私たちの手の届くところに主イエスが立っておられることを悟らせられます。
おおくのキリスト者が、この祈りを、どれほど、自分の祈りとして覚えつづけてきたことでしょうか。愛する夫、妻が、子どもがこの世から取り去られようとする時、不治の病いが自分の肉体を蝕むとき、残り時間ゼロを生きるとき、その他、さまざまな苦杯が信仰篤い者に与えられるとき、泣き、叫び、この祈りをささげるのです。ゲッセマネの祈りは、そのような、わたしたちの力となり、慰めとなりました。
この祈りの最中に天使が現れてイエス様を力づけました。天からの助け、力づけは、杯を取り去るためではなく、杯を飲みほす力を主イエス様に与えました。主イエス様の生涯において、天使は、その誕生のとき母マリアに現れました。また救い主として公の働きを始めるとき40日40夜、断食していのり、悪魔の誘惑にあった後で、現れました。そしてゲッセマネです。最後に復活の朝に天使が墓に来た弟子たちに現れました。天使は主イエス様が使命を果たす重大な機会ごとに現れて助けました。私たちの場合は、主を救い主と信じた時から、助けぬし聖霊が私たちのうちに住み、助けます。特に、私たちが同じような祈りを祈る出来事に見舞われているとき、イエス様の御霊は、同じ力を与えて、その苦難に耐えさせ、みこころをなさせたまえと祈る力をあたえるのです。
Ⅲ みこころのとおり。
主イエス様は、この願いの後に、さらに勝った願いをされました。「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」もしもこの杯を取り去らない事が、父のみこころであるならば、主イエス様は完全な従順をもって、そのおこころに従います、と祈られました。自分の思いではなく、父の思いに一致させます。これこそが、祈ることの真の意味であります。
主は救い主として地上に遣わされました。それゆえに身代わりの死を遂げる事を引き受けられました。神のご意志、神の目的、神の永遠の計画に自分を従わせます。ここに、主が、十字架にかかられるにあたって、自発性がはっきりと示されています。救い主の「積極的従順」の証拠です。強制的ではない。いやいや杯を飲ませられたのではない。本当にこころから従順に飲めるように戦われたのが、このゲッセマネの祈りだったのです。
神が、あなたにかかわる永遠のご計画を、この地上の分として果たそうとされるとき、私たちは同じ祈りの戦いをして、心から主イエス様に従えるようにと自分を整えなければなりません。
「みこころのとおりにしてください。」との祈りは、完全な信頼を込めて行なわれる時、本来の意味の通りであります。神の愛と、善意と、ご計画と、力と導きを本当に信頼して、この自分にとって受入れがたい事を、自発的に受入れることが、この祈りの真意です。ですから、たとえば、茫然自失しながら、みこころを、等と祈るのは、希望の死を意味します。また、激しい攻撃に降伏させられる人が、「みこころがなるように」と祈るのは完全な敗北を認める祈りとなるのです。いろいろ失敗して、おもうとおりに行かなくて、人が、こういうのは、すさんだ悔恨といらだちのことばになるのです。そのような祈りではなくて、神への信頼を込めていうときにのみ、神のみこころはたしかに、あなたに成就するのです。
結び)わたしたちも、この主イエス様の祈りを祈って、神様に従う人生を進んで行きましょう。